孫の初節句用鎧兜飾りを買ったあと、柳川藩立花家の江戸上屋敷と下屋敷跡を見に行って来ました。
これは江戸の古地図の上野辺りのものですが、中央に立花家の名が有りました。ご近所さんには加藤家、佐竹家、島津家とか大物の大名の名前もありますね!
私はA地点からB地点、C地点、D地点からA地点に戻ってみました。距離は818mでした。
A地点からB地点を望むんですが、とても見えません。右側が屋敷跡です。
B地点からA地点を振り返ってみますが見えませんね。左側が屋敷跡です。
B地点からC地点を望みますがやはり見えません。右側が屋敷跡です。
C地点からB地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
C地点からD地点を見ていますが全く見えません!右側が屋敷跡です。
D地点からC地点を振り返って見てますがみえまんせみえません。左側が屋敷跡です。
そしてD地点からA地点をみますがやっぱり見えません。右側が屋敷跡です。
A地点からD地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
上屋敷はお殿様が江戸で住む場所ですからね。兎に角こっちも広いです!
A地点からB地点を見ています。信号が2個目までですが見えませんね。右側が屋敷跡です。
B地点からA地点を望んでいます。左側が屋敷跡です。
B地点からC地点を見ていますが全く見えません。右側が屋敷跡です。
C地点からB地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
C地点からD地点を見てますがやっぱり見えませんね。右側が屋敷跡です。
D地点からC地点を振り返ってます。左側が屋敷跡です。
D地点からA地点を見てますが見えません。右側が屋敷跡です。
家に帰ると、もう膝が痛くて寝てても痛くて朝になったら少しは良くなりましたが、今日は一日歩きたくありません。結局昨日は15,000歩弱歩きました。
もしも、今が江戸時代だったら上屋敷には奥方とお殿様の江戸の住まい、中屋敷や下屋敷には今で言うお妾さんが住む場所とか。良く時代劇等では侍も沢山住んでいた様になっていますが、そもそもそんなに広かったのでしょうか。
参考にしたのは、下記のHPで紹介されていた場所を追っかけで見に行って見ました。
私が覚えているのは、立花文子さんがお婆ちゃんになられている頃です。良く家の前に来られた時に、父や母から「お姫様だよ」と言われましたがお婆ちゃんなのになんでお姫様?って思ってました。旦那様はお婿さんの和雄さんで16代当主となるのですが、地元民にとっては文子さんがお姫様でした。私にとっては文子さんの娘さんが若くて綺麗で当時1960年代の柳川の街にはそぐわない都会の雰囲気持ってらした方がお姫様のイメージでした。今生きておられたら多分80代じゃあないでしょうか。今の別邸お花の当主となられている立花千月香さんは、文子さんのお孫さんにあたる様です。
これは江戸の古地図の上野辺りのものですが、中央に立花家の名が有りました。ご近所さんには加藤家、佐竹家、島津家とか大物の大名の名前もありますね!
話は戻って、先ずは下屋敷からです!
地下鉄日比谷線の谷中駅から徒歩で向かいましたが、無茶苦茶広いです。
上記のHPから抜粋の下屋敷にあったとされる太郎稲荷について以下の情報有りました。
「太郎稲荷」について「立花家記」によると、享和三(1803)年、二月中旬ころから、江戸の町で大ブームとなり柳川藩下屋敷の鎮守である太郎稲荷の御利益があるという噂で、江戸とその近在から老いも若きも群集して参詣するようになった。年が明けるとさらにエスカレートして、太郎稲荷の参詣者で道が渋滞起こるまでになったそうだ。しかしながら、二年間ほどそのような状態が続いたがその後は、一時の熱狂はさめてしまい衰退してしまったようである。
その後、慶応三(1867)年から明治元年にかけて再び参詣が始まり、参詣者を当て込んで飲食店が建ち並んだようである。この流行も翌年には終息している。昭和期に入って二社あった太郎稲荷は北側の一社のみになり、かつて大流行した太郎稲荷も、明治末頃になると訪れる人もまばらになってしまったようである。
その後、慶応三(1867)年から明治元年にかけて再び参詣が始まり、参詣者を当て込んで飲食店が建ち並んだようである。この流行も翌年には終息している。昭和期に入って二社あった太郎稲荷は北側の一社のみになり、かつて大流行した太郎稲荷も、明治末頃になると訪れる人もまばらになってしまったようである。
私はA地点からB地点、C地点、D地点からA地点に戻ってみました。距離は818mでした。
A地点からB地点を望むんですが、とても見えません。右側が屋敷跡です。
B地点からA地点を振り返ってみますが見えませんね。左側が屋敷跡です。
B地点からC地点を望みますがやはり見えません。右側が屋敷跡です。
C地点からB地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
C地点からD地点を見ていますが全く見えません!右側が屋敷跡です。
D地点からC地点を振り返って見てますがみえまんせみえません。左側が屋敷跡です。
そしてD地点からA地点をみますがやっぱり見えません。右側が屋敷跡です。
A地点からD地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
これらの写真から分かりますが、兎に角広いです。これじゃあ屋敷の中に何人住んでもと言うか何人住んでいるかも分からないかもと思いました。
やはり大名は凄かったんですね。
次は、上屋敷です。歩いても行けるのですが、この時点でもう膝が痛くて地下鉄日比谷線の谷中まで戻り、仲御徒町駅から徒歩となりました。
同じく以前行った方のHP情報によると:
「立花家記」によると、上屋敷の総面積は13,132坪との事。100坪の家が131件分ですね。
上屋敷の中で眼を見張るのは東側に「如意亭」という庭園があった。「如意亭図」が残されており、池の周りに松や柳が植えられており、桜やツツジ、カキツバタもあったようだ。四季それぞれに趣のある花が咲き誇ったことと思われる。また上屋敷には井戸が十一カ所あり、その内五カ所が掘り抜き井戸で、清浄な水を得ることが出来たようで、この井戸によって、上屋敷の飲み水などは賄われたようだ。
この庭園を題材に「如意亭八景同十二景」という漢詩が詠まれている。この漢詩によると、池の水には流れがあり、水車も備えられていたようである。園内に配置された岩には、夜になると灯火が掛けられ、夜に眺めてもまた風情があった。また、園内からは神田の家並みや湯島聖堂、寛永寺、江戸城などが眺めることができ、遠くは富士山や箱根の山々を望むことができたようである。
この庭園を題材に「如意亭八景同十二景」という漢詩が詠まれている。この漢詩によると、池の水には流れがあり、水車も備えられていたようである。園内に配置された岩には、夜になると灯火が掛けられ、夜に眺めてもまた風情があった。また、園内からは神田の家並みや湯島聖堂、寛永寺、江戸城などが眺めることができ、遠くは富士山や箱根の山々を望むことができたようである。
現在の様子からは、当時の風景はとても想像出来ませんがタイムマシンが有ったら覗きに行きたいと思いました。
上屋敷はお殿様が江戸で住む場所ですからね。兎に角こっちも広いです!
ココもABCDの順番で歩いて見ましたが、丁度1キロでした。
A地点からB地点を見ています。信号が2個目までですが見えませんね。右側が屋敷跡です。
B地点からA地点を望んでいます。左側が屋敷跡です。
B地点からC地点を見ていますが全く見えません。右側が屋敷跡です。
C地点からB地点を振り返って見てます。左側が屋敷跡です。
C地点からD地点を見てますがやっぱり見えませんね。右側が屋敷跡です。
D地点からC地点を振り返ってます。左側が屋敷跡です。
D地点からA地点を見てますが見えません。右側が屋敷跡です。
上屋敷一周で、私の足が悲鳴をあげて中屋敷まで行けないと言っています。この時点で歩きの歩数が12,000歩を超えて、いつもグータラしている影響がモロに出てしまいました。残念ながら中屋敷跡は次の機会として、帰りは上野駅からと思いそこまで歩いて行きました。この辺りも営業マンで良く歩いた道だったので知ってるつもりだったのですが、安売り店の多慶屋くらいしか記憶に無く、ついこの前の記憶だと思っていたのに忘れてしまってて残念です。
神さんとあまりにも疲れたので、駅のバーで明るい内から軽くビールを飲んで帰りました。
家に帰ると、もう膝が痛くて寝てても痛くて朝になったら少しは良くなりましたが、今日は一日歩きたくありません。結局昨日は15,000歩弱歩きました。
次の東京歩きの目標含めて楽しみ出来ました。また、全国のおらが町のお殿様の江戸屋敷跡を訪ね歩くとか楽しいと思いました!
古地図です。探すの大変ですが楽しいですよ。