さすがに最終回だけあって、ある意味連載全回を通して一番興味深かったかも。テキスト量もこれまでで最長かな。といってもそこに書かれた情報そのものが面白いとかではなくて、筆者の立ち位置というか視点が何ともね。
載せられた情報そのものは、確かに初めて聞いた話もあるにはあるけど、「名古屋の得仙での鮟鱇パーティにお世話になった方々をご招待」というファクトは確かに大事ではあるけど、そこから引っ張る「秋元康は義理堅い」から実弟によるマスコミ支配という構図は、こちらは既に何度もマスコミ上に出てきた話でもあるし、無理筋とは言わないけど、悪意の視点には違いない。そうではなくて、むしろ乃木坂46をはじめ「義理堅い」方に視点を傾ける方が現状に合ってると、少なくとも私は思うし、そういう視点の方が生産性が高いんじゃないかな。
「前田敦子の卒業記念のJR秋葉原駅ジャック」にしても、別に強制とかではないというのは当のマスコミ各社自身が述べてたし、それを「広義の強制」とするのは、特亜関連でのよく似た話と比較してみたくなる。筆者(というかこれを書いたノンフィクション作家さん)は、そっちの方面はどう考えてるのか知りたいところ。ダブルスタンダードになるのか、それとも?
記事の後半の「AKB商法」にしても、既に議論が出尽くしたものをこねくり回すだけで、だから何が問題なのかを明確にはできてないように思う。アイドルビジネスは基本、サービス産業であり、商行為である。そのどこに不正があるのか、問題があるのか。「未成年の犯罪を助長」に話を繋ぐあたり、あざといとしか思えない。
パチンコ産業との関連についても、同様の印象操作が続く。京楽が国内の48Gのオーナーなんであり、これは投資なんだから、そこから社会正義に反しない範囲で最大の利益を得ようとするのは当たり前すぎること。それ以前にパチンコを社会正義に反すると考えてるのなら、AKBではなくて、主体者である業界そのものを非難するべき。まっとうな商行為としての「重力シンパシー公演」を矢面にするのは、それこそお門違いでは。
最後に最終回としての〆の部分を引用。この連載の全体像を総括する、そういう意味ではなかなかの「名文」だと思う。
以下引用
泥臭くも、放送作家として身を立て、パトロンを渡り歩き、生来のギャンブル好きから、悲願ともいえる劇場アイドルビジネスに勝負を賭けたところで、舞い込んだAKB48の大成功。だが、それは文化の創造主としての評価よりも、巧みな錬金術師としての羨望の眼差しが彼に注がれる。時代の寵児と呼ぶよりは、時代が生んだ偉大な山師としての顔。
(中略)
パチンコ玉の飛び交う中で、大当たりのリーチがかかる度にパチンコ台の画面の中にせわしなく現れては消えるAKB48の女の子たち。いつしかその姿が、利権と共に小さな舞台の中に閉じ込められた、操り人形のように見えて仕方がなかった。
以上引用
引用前段は、評価の視点を変えるだけで容易に反転する内容であることは論を待たない。本ブログの立場は言うまでもなく、秋元康を「偉大な文化の創造主」と見なしてるし、この連載を読了した後も、その立場を変える必要を特に感じない。まあ何というか、ルサンチマンはやめとこうよ。
引用後段はコメントしようがないけど、一度切りの人生なんだからなるべく楽しく生きようよということで。
連載全体を通してだけど、当初は「批判」意図はなかったつもりなんだけど、昔の自分自身を突きつけられるような内容に、どうにも過剰に反発してしまったかもしれないのは反省点。ただ、連載全体を通しての記述は比較的冷静のように思えたんで、筆者の本意というよりは「秋元康を叩く内容」という新潮サイドの発注だった可能性もあるかなと思うし、そうであれば筆者にはお疲れ様と言いたいところ。ただもう少し突っ込んだ取材があればなとは、指摘しといてもいいよね。
載せられた情報そのものは、確かに初めて聞いた話もあるにはあるけど、「名古屋の得仙での鮟鱇パーティにお世話になった方々をご招待」というファクトは確かに大事ではあるけど、そこから引っ張る「秋元康は義理堅い」から実弟によるマスコミ支配という構図は、こちらは既に何度もマスコミ上に出てきた話でもあるし、無理筋とは言わないけど、悪意の視点には違いない。そうではなくて、むしろ乃木坂46をはじめ「義理堅い」方に視点を傾ける方が現状に合ってると、少なくとも私は思うし、そういう視点の方が生産性が高いんじゃないかな。
「前田敦子の卒業記念のJR秋葉原駅ジャック」にしても、別に強制とかではないというのは当のマスコミ各社自身が述べてたし、それを「広義の強制」とするのは、特亜関連でのよく似た話と比較してみたくなる。筆者(というかこれを書いたノンフィクション作家さん)は、そっちの方面はどう考えてるのか知りたいところ。ダブルスタンダードになるのか、それとも?
記事の後半の「AKB商法」にしても、既に議論が出尽くしたものをこねくり回すだけで、だから何が問題なのかを明確にはできてないように思う。アイドルビジネスは基本、サービス産業であり、商行為である。そのどこに不正があるのか、問題があるのか。「未成年の犯罪を助長」に話を繋ぐあたり、あざといとしか思えない。
パチンコ産業との関連についても、同様の印象操作が続く。京楽が国内の48Gのオーナーなんであり、これは投資なんだから、そこから社会正義に反しない範囲で最大の利益を得ようとするのは当たり前すぎること。それ以前にパチンコを社会正義に反すると考えてるのなら、AKBではなくて、主体者である業界そのものを非難するべき。まっとうな商行為としての「重力シンパシー公演」を矢面にするのは、それこそお門違いでは。
最後に最終回としての〆の部分を引用。この連載の全体像を総括する、そういう意味ではなかなかの「名文」だと思う。
以下引用
泥臭くも、放送作家として身を立て、パトロンを渡り歩き、生来のギャンブル好きから、悲願ともいえる劇場アイドルビジネスに勝負を賭けたところで、舞い込んだAKB48の大成功。だが、それは文化の創造主としての評価よりも、巧みな錬金術師としての羨望の眼差しが彼に注がれる。時代の寵児と呼ぶよりは、時代が生んだ偉大な山師としての顔。
(中略)
パチンコ玉の飛び交う中で、大当たりのリーチがかかる度にパチンコ台の画面の中にせわしなく現れては消えるAKB48の女の子たち。いつしかその姿が、利権と共に小さな舞台の中に閉じ込められた、操り人形のように見えて仕方がなかった。
以上引用
引用前段は、評価の視点を変えるだけで容易に反転する内容であることは論を待たない。本ブログの立場は言うまでもなく、秋元康を「偉大な文化の創造主」と見なしてるし、この連載を読了した後も、その立場を変える必要を特に感じない。まあ何というか、ルサンチマンはやめとこうよ。
引用後段はコメントしようがないけど、一度切りの人生なんだからなるべく楽しく生きようよということで。
連載全体を通してだけど、当初は「批判」意図はなかったつもりなんだけど、昔の自分自身を突きつけられるような内容に、どうにも過剰に反発してしまったかもしれないのは反省点。ただ、連載全体を通しての記述は比較的冷静のように思えたんで、筆者の本意というよりは「秋元康を叩く内容」という新潮サイドの発注だった可能性もあるかなと思うし、そうであれば筆者にはお疲れ様と言いたいところ。ただもう少し突っ込んだ取材があればなとは、指摘しといてもいいよね。