ミュージックステーションスーパーライブ2013のメドレーが、素晴らしかった。「さよならクロール」→「Everyday、カチューシャ」→「RIVER」→「夕日を見ているか」→「恋するフォーチュンクッキー」という選曲にして順番だったけど、それぞれのフォーメーションと新衣装の見栄えの良さ、そしてその衣装替えまで計算され尽くした演出になってて、見事としか。
結果、多幸感に満ちあふれた一大祝祭空間が、そこに繰り広げられてた、出現してた。これはもう超一流のエンターテインメントと賞賛しても、単なるファン目線の依怙贔屓とは言えないんじゃないかと思う。大箱の経験を多く積んだことで、大人数という最大の、そして無二の特徴を生かし切る、そんなレベルについに到達したと言い切れるんじゃないか。
俯瞰視点では、おそらく出演メンバー全員の統率が取れていた、意識の統一が保たれていたと感じられたし、それにも増して、フォーメーションと衣装の双方で明確に示される、「階層」もしくは「階級」の存在が強烈に印象づけられた。
各曲での選抜メンバーは、それなりに流動するんだけど、「夕日を見ているか」の選抜メンバーに選ばれることの意味は、メンバー自身がいちばん分かってることだろう。
高橋、大島、小嶋、峯岸、柏木、渡辺麻、指原の7人(敬称略)が旧来からの「神」であったのに対し、ここで新たに加わった8人のうち、横山、島崎、松井J、松井R、山本、渡辺美の6人(敬称略)は、既にしてその資格は有してた。ここでは入山さん、川栄さんの「昇格」を祝いたい。
そんな選抜メンバーには、豪華な衣装が惜しげもなく投じられ、一方で、バックダンサーには、やはりそれと分かる衣装が与えられる。この合理的な格差。そんなバックダンサーに中には、かつて1軍だった顔もちらほら加わってたけど、「腐る」様子は欠片も見せない。もちろん「本心」なんか分かるはずもないけど、たぶん間違いなく、仲谷さんの「非選抜アイドル」と同じ意識がそこにはあったはず。
カメラ割も当然、そんな選抜メンバーにのみ向けられ、そこでは個別に個々のハイコンテクストを反映した「物語」が、次々に展開されてた。中でも、「夕日を見ているか」の最後の辺りで、高橋さんと大島さんが肩を抱き合い、互いを見つめ合うシーンというのがあって、その一瞬に込められた濃縮されたAKBの8年間という時間、そして膨大な物語が、ホント、走馬燈という言葉が矮小に感じられるくらいに、ただただ感動的だった。
直後の「恋するフォーチュンクッキー」のさっしーのしゃべりが、なんとも「おばか」に感じられてしまって、けれども、そこが逆に、新たな物語の始まりにも見えたし、高橋さん、大島さんが担ってきた重く巨大な物語に対して、さっしーの軽快感、テキトー感が強く印象づけられたようにも思う(←けなしてません。念為)。
5曲のメドレーの中に、AKBという存在の内部構造と時系列を表現した上で、未来までも指し示す、しかもそれを、完璧とまで表現したいエンターテインメントに見事に昇華する。凄いものを見たと思う。
そしてもう一つ。「夕日を見ているか」が、15人選抜だったことについて。
この曲は元々10人選抜なんで、16人選抜にはこだわらなかったとも考えられるけど、この15人は、直前の「RIVER」の16人選抜から、加藤玲奈さん一人が外れたものだった。
これを、「夕日を見ているか」はAKBにとってのアンセムなので、加藤さんがそこに参加できるレベルにはなかったから、と捉えることも可能かも知れない。もしそうだとすれば、「RIVER」選抜と「夕日を見ているか」選抜は、その基準が違うことになり、それは「夕日を見ているか」が特別な曲なんだからという、循環論法で終わることになる。
けれども、ここにいないメンバーの名前を思い浮かべるなら、まったく違った構図が見えてくるかも知れない。
それはもちろん宮澤さんのことで、宮澤さんがあの場にいたら、当然のように「夕日を見ているか」選抜に加わることになるだろう。ならば、宮澤さんの居るべき席は空けておこう、帰るべき場所をそこに用意しよう、そういう運営サイドなり、メンバーの意思が、そこに表現されてるんじゃないか。
加藤さんも、自身が外される理由がそういうことであれば、「喜んで」応じるんじゃないか。そして、もしこの「ミュージックステーションスーパーライブ2013」を宮澤さんが見ることができるなら、そんな「意思」が伝わるかも知れない。あるいは内々に伝えられてるのかも知れない。
メンバーの結束の固さ、絆については、これまでも感嘆の思いを縷々綴ってきたけど、ここにもまた、その一端を見たように思う。
結果、多幸感に満ちあふれた一大祝祭空間が、そこに繰り広げられてた、出現してた。これはもう超一流のエンターテインメントと賞賛しても、単なるファン目線の依怙贔屓とは言えないんじゃないかと思う。大箱の経験を多く積んだことで、大人数という最大の、そして無二の特徴を生かし切る、そんなレベルについに到達したと言い切れるんじゃないか。
俯瞰視点では、おそらく出演メンバー全員の統率が取れていた、意識の統一が保たれていたと感じられたし、それにも増して、フォーメーションと衣装の双方で明確に示される、「階層」もしくは「階級」の存在が強烈に印象づけられた。
各曲での選抜メンバーは、それなりに流動するんだけど、「夕日を見ているか」の選抜メンバーに選ばれることの意味は、メンバー自身がいちばん分かってることだろう。
高橋、大島、小嶋、峯岸、柏木、渡辺麻、指原の7人(敬称略)が旧来からの「神」であったのに対し、ここで新たに加わった8人のうち、横山、島崎、松井J、松井R、山本、渡辺美の6人(敬称略)は、既にしてその資格は有してた。ここでは入山さん、川栄さんの「昇格」を祝いたい。
そんな選抜メンバーには、豪華な衣装が惜しげもなく投じられ、一方で、バックダンサーには、やはりそれと分かる衣装が与えられる。この合理的な格差。そんなバックダンサーに中には、かつて1軍だった顔もちらほら加わってたけど、「腐る」様子は欠片も見せない。もちろん「本心」なんか分かるはずもないけど、たぶん間違いなく、仲谷さんの「非選抜アイドル」と同じ意識がそこにはあったはず。
カメラ割も当然、そんな選抜メンバーにのみ向けられ、そこでは個別に個々のハイコンテクストを反映した「物語」が、次々に展開されてた。中でも、「夕日を見ているか」の最後の辺りで、高橋さんと大島さんが肩を抱き合い、互いを見つめ合うシーンというのがあって、その一瞬に込められた濃縮されたAKBの8年間という時間、そして膨大な物語が、ホント、走馬燈という言葉が矮小に感じられるくらいに、ただただ感動的だった。
直後の「恋するフォーチュンクッキー」のさっしーのしゃべりが、なんとも「おばか」に感じられてしまって、けれども、そこが逆に、新たな物語の始まりにも見えたし、高橋さん、大島さんが担ってきた重く巨大な物語に対して、さっしーの軽快感、テキトー感が強く印象づけられたようにも思う(←けなしてません。念為)。
5曲のメドレーの中に、AKBという存在の内部構造と時系列を表現した上で、未来までも指し示す、しかもそれを、完璧とまで表現したいエンターテインメントに見事に昇華する。凄いものを見たと思う。
そしてもう一つ。「夕日を見ているか」が、15人選抜だったことについて。
この曲は元々10人選抜なんで、16人選抜にはこだわらなかったとも考えられるけど、この15人は、直前の「RIVER」の16人選抜から、加藤玲奈さん一人が外れたものだった。
これを、「夕日を見ているか」はAKBにとってのアンセムなので、加藤さんがそこに参加できるレベルにはなかったから、と捉えることも可能かも知れない。もしそうだとすれば、「RIVER」選抜と「夕日を見ているか」選抜は、その基準が違うことになり、それは「夕日を見ているか」が特別な曲なんだからという、循環論法で終わることになる。
けれども、ここにいないメンバーの名前を思い浮かべるなら、まったく違った構図が見えてくるかも知れない。
それはもちろん宮澤さんのことで、宮澤さんがあの場にいたら、当然のように「夕日を見ているか」選抜に加わることになるだろう。ならば、宮澤さんの居るべき席は空けておこう、帰るべき場所をそこに用意しよう、そういう運営サイドなり、メンバーの意思が、そこに表現されてるんじゃないか。
加藤さんも、自身が外される理由がそういうことであれば、「喜んで」応じるんじゃないか。そして、もしこの「ミュージックステーションスーパーライブ2013」を宮澤さんが見ることができるなら、そんな「意思」が伝わるかも知れない。あるいは内々に伝えられてるのかも知れない。
メンバーの結束の固さ、絆については、これまでも感嘆の思いを縷々綴ってきたけど、ここにもまた、その一端を見たように思う。