AKB48の旅

AKB48の旅

2013 真夏のドームツアー ブルーレイ「東京ドーム 1st day」

2013年12月26日 | AKB
これはもう、一言で言って秋元才加スペシャル。冒頭から「RIVER」「Beginner」「UZA」「風は吹いている」「フライングゲット」と、相応しい曲でたたみかける展開。以降の選曲も構成も、セットとか、巨大回り舞台の世代交代演出とか、福岡ヤフオク!ドーム 2nd dayと共通だったけど、詰め込める限り秋元才加、そしてその系としての二期生、チームKフィーチャーだった。緑一色のサイリウムが美しい。

個人比較とかは避けた方が良いのは分かってるけど、それでもその濃度は、福岡ヤフオク!ドーム 2nd dayの篠田さんの卒業コンサートを、遥かに上回ってる。一般的な人気や知名度からすれば、秋元さんは篠田さんには及ばない。けれどもAKBという組織においては、秋元さんの存在は同等以上に重い。そんなシンプルな「事実」を確認する感じ。

そんな秋元さんの存在感ゆえ、篠田さんの時との違いとしては、一つの時代の終わりを強く意識させられたし、新たな時代が始まる、そんな節目感があった。卒業セレモニーの後、さっしーが明るくコールして歌われる「恋するフォーチュンクッキー」が、見事にそんな空気感を体現してたように思う。

あんまり好きではないんだけど、「AKB村」という言葉がある。有吉先生のお言葉ということもあって、その「寓意」は十分に理解してるつもりだけど、それでも言ってみたいのは、その「AKB村」の外はどうなってるのかということ。そこが芸能界ということであれば、そこもまた「芸能界村」に過ぎない。そういう対立軸で俯瞰するのであれば、規模の大小以上に、さしたる差異はないと言い切ってしまおう。

けれども、「AKB村」の外は、果たして単純に「芸能界村」なんだろうか。いや、この言い方は誤解のもとか。確かにそこは「芸能界村」なんだろうけど、そんな対立軸の「外」、例によってだけど「無への跳躍」が、そこに隠れてないだろうか。

秋元さんは、容姿的にも技術的にも、「芸能界村」基準からしても、十分にやっていけるスペックだろうと思う。けれども、AKBファンならみんな知ってる、秋元さんの真価はそこじゃない。元チームKキャプテンという肩書きに留まらない人間力と人望、組織としてのAKBの一翼を担う、一般的人気とは異なった基準での、AKBの中核を担った人物の一人。敢えて言うなら、それこそ「AKB村」特有のスペックとも言える。

その特有なスペックは、「AKB村」のローカルルールのようでいて、実はそうではない。高信頼社会、短期ではなく長期的利益の最大化、自身ではなく共同体利得の最大化、持続可能社会、ハイコンテクスト、そんな「日本文明圏」の価値観の表出とも言える。「AKB村」の住所は、その「寓意」が意図するところの外、「日本文明圏」という枠組みになるんだろうと思う。

AKB48新聞12月号の秋元康インタビュー

2013年12月25日 | AKB
AKB48新聞2013年12月号の秋元氏のインタビュー記事が、珍しくと言うか、ほとんど初めてなんじゃないかと思われるくらいに、濃い内容だった。あの新情報を語らない、有意のことを語らない秋元氏が、内容のあることを、含蓄に富むことを語ってる、そっちのほうで、まずはサプライズ。これはどういう心境の変化なんだろうと、逆に心配になるくらい。ホントに心配した方が良いのかも。

実にいろんな事を語ってくれてるけど、ほぼ、当ブログで記述してきたこと、「合理的」に推測してきたこと、さらには深読み、勇み足で妄想してきたことを含めて、読み通りと言うとうぬぼれが過ぎるけど、それでもだいたいが「合格」ラインに到達できていたんではないか、手前味噌ながらに、そう評価させていただくことにしてしまおう。

「恋チュンはアレンジを20回以上直してる」とか、おもしろネタも盛りだくさんなんだけど、そんな中、一カ所だけ(←ちょっと誇張)、とても気になる発言があった。

以下引用

05年の時のたかみなや前田が存在することを繰り返していれば、必ず同じ事が起きると。3年後には大ブレークが起きると。8年前の前田やたかみなは、たぶん今の三銃士といわれるこじまこちゃんたちかもしれないし、大和田かもしれない。

以上引用

ここには我が目を疑って、何度か繰り返し読み直してしまった。本当にこう書いてあるぞ。

どこが「問題」かというと、「05年の時のたかみなや前田が存在することを繰り返していれば、必ず同じ事が起きる」と、一見ナイーブに言い放ってること。「ファーストジェネレーションの魔法」がかかる状況に、高橋さんと前田さんがいて化学反応が起こる、のみならず強運に恵まれて、「奇跡」が一度ならず二度三度と起こる、そんなあり得ない事が「繰り返して」「必ず」起こる???

一期生に高橋さんと前田さんがいた、それだけでも大変な幸運。これまで秋元氏は、最初から前田さんが大化けすることを確信してた旨の発言はしてるけど、違った意味で高橋さんが大化けしたことについては、想定外だったことを正直にかどうか知らないけど、とにかく語ってる。それだけでも、この発言は冒頭からオカシイことになる。

そんな「あつみな」が繰り返せるというのを置いておくとして、「必ず同じ事が起きる」というのが、これまたギャンブラー秋元氏にして、あり得ない発言に思える。それって詰まるところ「予定調和」なわけで、秋元氏が最も忌避してきた事じゃないの?

うーん、このあたり、単に三銃士と大和田さんを持ち上げて見せるための、もしかしてリップサービスにして、上手の手から水が漏れたってことかもしれないし、あるいは秋元氏が頻繁に見せる顔、一神教と多神教、予定律と因果律の矛盾に無自覚としか思えない、そういう面が、無造作に現れたということなのかも知れない。

BS-TBS「音ボケPOPS」12月22日

2013年12月24日 | AKB
梅田彩佳さんがレギュラーになった初回(Wikiによると10月6日)こそ見たけど、その後はご無沙汰してたBS-TBSの「音ボケPOPS」。12月22日のゲストが北原里英さん、田野優花さん、平田梨奈さんということで、久しぶりに見てみた。ホント、AKBファンになってからというもの、いろんな番組を見るようになったもんだわ。

なぜこの3人だったのか、人選が謎と言えば謎だけど、内容としては、ほぼ「鈴懸」の宣伝だった。それでも3人がトークで語った内容には、それなりに新情報めいたものがあったように思う。

北原さんについては、いくつかの疑問をかつてから持ってた。中でも最大の謎に思えたのが、愛知県一宮市の高校1年生が、なぜAKBの5期オーディションを受けたのかと言うこと。私が知る限りでは、その辺りのことを、これまで北原さんは、明確には語ってこなかったように思う。そんなプライベートとも思える部分を詮索するのもどうかとは思うけど、さっしーの履歴がさらけ出されてるのに比べると、やはり気になってしまうという。

現状の北原さんを見る限り、学校でいじめにあってたとか、地域コミュニティなりから、完全に孤立してたとは思えない。ドロップアウトや不良の匂いもしない。むしろ優等生の側だろう。となると、恐らくはそれなりに成績優秀な高一の女の子が、一宮市と言えども地方から東京へと向かって、しかもアイドルのオーディションを受けるという、その「行動力」が謎だった。

今回、ご自身の口から、「AKBのことはなぜか知ってた」「アイドルになりたかったとかじゃない」「女優を目指してた」「AKBのオーディションは、たくさん受けたうちの一つ」、正確に文字おこししたわけじゃないけど、そんな旨の発言があった。

これで何かが分かったというわけではないし、やはり最初のキューが謎のままだけど、それでも地方の活発な美少女の行動としては、分からなくもないような感触。しばしば女性に見られる、遺伝子流動を担うとも考えられる、謎の行動力とでも解釈しておこう。

あとは、平田さんのお父さんが「アメリカ人」というのは、既に確定情報だったか。

小林先生ブログ12月22日「AKB48Gのメンバーの魅力を新たに発見。」

2013年12月23日 | AKB
http://yoshinori-kobayashi.com/3229/

微笑ましいというか、小林先生、楽しそうで何より。個々のメンバー評についてのコメントとかはしないけど、そこに近著「大東亜論」を絡められてるんで、そこんところを少しばかり。

来年1月8日発売の「大東亜論」は、その後数年にわたる連作になるとのことで、当然、ジオポリティクスと時代の奔流に弄ばれながらも、それでも流れに刃向かわんとして迷走する大日本帝国を描くんだろうし、そのためには、「大東亜共栄圏」の理想と現実、イデオロギーとプロパガンダに、踏み込まざるを得ないはず。

となれば、「漂流教室」のごとく、未来へ撒かれた種となって散った、無数の無名の日本人にも触れることになるんだろうし、それは既述のごとく、AKBムーブメントと、間接的、直接的の両面で絡んでくることになる。このあたり、秋元氏が自覚的とは思えないんだけど、それでも「この涙を君に捧ぐ」が、先人への鎮魂の歌に聞こえてしまって、魂を揺すぶられる。

小林先生が、日本型アイドル文化、ひいては「日本文明圏」について、どのような描き方をするのか、それともあくまでも政治の枠組みから踏み出すことなく、文化を語らないのか。同じく「日本文明圏」を代表する文化であるところのマンガの当事者は、自分自身をどのように規定するのか。

日本型アイドルとマンガは、同一の文明圏から生まれた兄弟関係にあるとすれば、漫画家であるところの小林先生がアイドルを語るというのは、見ようによっては、自己言及的であるとも言えそう。とすれば、だからこそ、そういうメタ構造に自覚的になれない可能性というのも、あるのかも知れないとか書いてみる。

アルバム「次の足跡」の憂鬱

2013年12月22日 | AKB
http://www.oricon.co.jp/news/2032223/full/

AKBGの「シングル」が売れるのは、シンプルにお得感が高いからだろうと思う。一例、「鈴懸」の場合、表題曲の他に、共通c/wとして「Mosh & Dive」、加えてType AにはAKB選抜による「Party is over」、Type SにはSKE選抜による「Escape」、Type NにはNMB選抜による「君と出会って僕は変わった」、Type HにはHKT選抜による「ウインクは3回」、劇場版には「てんとうむChu!」による「選んでレインボー」が収録されてる。

そして何より特筆されるべきは、劇場版以外にはDVDが付属し、各楽曲のMVが収録されてること。当たり前のことを言ってると思われるかも知れないけど、MVという名の「総合芸術」の存在のとんでもなさに、もっと自覚的になっても良いんじゃないかと思う。確かにMVの出来は様々で、それこそ玉石混淆だけど、だからこそ毎回見るのが楽しみになるし、それだけでも、あーでもないこーでもないと無駄に議論ができてしまえたりする。

もちろん言うまでもなく、DVD以外にも、握手券や投票権、生写真等々、ビックリマンチョコもびっくりのてんこ盛り。ファンにとっては、購入することで高い満足感が得られるわけで、そういう方面への志向が強いほど、コスパは高くなることになる。

DVDに話を戻す。少なくともAKBGの楽曲では、そして恐らくはほとんどすべてのポップスにおいても、既にしてビジュアルの付属しないパフォーマンスはあり得ないんじゃないか。私が知る限り、ファーストインパクトとしてのマイケルジャクソンの「スリラー」にて、既にして確立して、その後はほぼ常識化してしまったわけで、もはやそれ以前に戻ることなどあり得ない。

音楽をCD音源だけで楽しむというのを否定するものではないけど、ルックスや表情、ダンス、衣装、セットあるいはロケ、そして演出と、多重化し複合した要素が高度に融合したエンタテインメントを楽しむ、それはもはや空気のごとく水のごとく、当然のことなんじゃないか。

そういう視点では、MVは総合芸術としての映画に近似的になるというのは分かる。けれども、典型例としての「So long ! The Movie」のように、楽曲から逸脱し過ぎて、明らかに視聴するのに邪魔以上、見てて怒りすら沸いてくるという例のように、それは決して映画そのものにはならない。楽曲メインの、楽曲をより楽しめる、エンタテインメントであることから踏み外しては本末転倒。

以上、長々と書き殴ってきたけど、ここでようやく本題に到達できる。前作の「1830m」でもそうだったけど、なぜ、そんな肝心要と思えるMVが、アルバムには付属しないんだろう。シングル曲は既にして作られてるんで、良しとしても、「アルバム用の新曲14曲、秋元才加卒業ソング「強さと弱さの間で」など未収録だった4曲」のMVこそ、付属DVDに付けるべきなんじゃないか。「べき」論はほぼ我が儘なのは分かってるんだけど、そこはひとまず棚に置く。

それでも「お布施」として、金融商品のCDOのごとくにタニマチの小分けとして、アルバム「次の足跡」を買うことになるんだろうか。これにMV DVDが付属してたら、どれだけ快く、前向きに購入できただろう事を思うと、なんともはや。