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「黒船」が日本にきたとき、実は「ペリー」もまた「驚愕」していた  202401

2024-01-12 02:15:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「黒船」が日本にきたとき、実は「ペリー」もまた「驚愕」していた…彼が「日本人」について語った「驚くべき内容」
  現代ビジネス より 240211  播田 安弘


 歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む!

 本記事は播田 安弘『日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。

⚫︎第二の大航海時代の到来
 16世紀の世界を一変させた大航海時代に、西欧列強に対し、うかつに手を出すと痛い目にあうことを見せつけて植民地化を免れた「ジパング」こと日本は、やがて港のほとんどをみずから閉ざします。
 豊臣政権を倒して日本の支配者となった徳川家康が開いた江戸幕府が、ごく一部の国を除いて出入りを禁じる鎖国政策を採ったからです。
 そして日本は、250年にもおよぶ泰平の眠りにつきます。一国の平和な状態がこれほど長く続いたことは、世界にもほとんど例がありません。内政が安定していたのもさることながら、外からの侵攻がなかったことがその大きな要因でしょう。

【写真】「日本」を「世界一の鉄砲大国」にした「凄すぎる技術」

 化学反応や熟成、発酵には長く安定した時間が必要です。その時間を与えられた江戸時代の日本では、さまざまなものが育ちました。
 それらを総称して「文化」というなら、江戸時代の日本の文化は世界でもかなり高い水準にあったことが、近年の研究でわかってきています。
 泰平の眠りから起こされた日本を救ったのは結局、それらの文化だったのではないでしょうか。

 この間に世界では、スペインが没落し、かわって英国が7つの海を支配するといわれた巨大な海洋帝国を築いていました。
 世界の植民地から英国が収奪した富は、莫大な量にのぼりました。大英博物館やルーブル美術館の展示品を見れば、いかに世界から多くの宝物が集まったかがわかります。
 エジプトなどは現在、持ち去られた出土品の返還を求める交渉をしています。

 富が蓄積されると,国内では社会や経済が発展し,人口が増え,物品の需要が増大します。
 18世紀の英国ではとくに、インドの綿製品の人気が高まりました。そこで需要に追いつくため生産力を上げようと、それまでの手織りの紡績機に代わって、水力を利用した機械紡績機が開発されました。
 それでも足りず、カートライトが蒸気で駆動する機械紡績機を開発します。そして1769年、ワットが従来の蒸気式機械から復水器(コンデンサー)を独立させることでエネルギー効率を飛躍的に向上させた、本格的な蒸気機関を発明します。ワット式蒸気機関は燃料を75%も節約することができました。

 蒸気機関は鉱山の排水ポンプに使われ、さらに汽車にも使用されて、生産や移動にかかる負担を劇的に減らしました。
 その結果、企業の収益は急伸長し、各種の大工場が建設され、たくさんの労働者が働き、労働者たちとその家族が住む家が立ち並び、英国各地に新しい工業都市が生まれました。
 こうして世界で初めて起こった蒸気機関による社会変革が「産業革命」ですが、その原動力は、海洋支配によって得た多くの植民地からの富だったのです。

 英国で起こった革命の波は、やがて当時の先進国だったフランス、ドイツ、米国にもおよびます。同様に工業を発展させたこれらの国も、安い原料を輸入し、大量生産した製品を輸出できる貿易の相手を求めて、次々と海に出ていきました。
 それは産業革命による第二の大航海時代の到来ともいえました。
 しかしその貿易の実態は、軍艦と大砲による強力な軍事力を背景に、アフリカ、アジア、アラブ、南米諸国などの技術力が未発達な国々を服従させるもので、「砲艦外交」とも呼ばれています。

 19世紀になると、欧米の列強各国の矛先は東南アジアに向かいます。1842年には、英国が清(当時の中国)との阿片戦争に勝利して、租借地を獲得しました。インド、ビルマ(現ミャンマー)、シャム、タイも英国領または支配地域となり、インドシナ地域はフランス領、フィリピンは米国領、清は約20%が英国、フランス、ロシア、ドイツの領地あるいは支配地域となりました。
 日本を除くアジア諸国のほとんどが支配下におかれていったのです。

⚫︎ペリーが驚いた日本人の技術力
 こうした世界の動きから隔絶されたかのような長い眠りについていた日本に、ついにその波が到達したのは、1853年のことでした。
 ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、江戸湾入り口の浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市浦賀)に来航したのです。それまで交流のあった外国といえばおもには日本海側の朝鮮や中国であった日本にとって、反対側の太平洋から突如、異国の船が出現したことは衝撃的でした。
 日本の近代化はこのとき始まったといってもよいでしょう。

 ペリーには、長い歴史をもつ閉ざされた神秘の国の扉を最初に開けるのは、新興国の米国でありたいという強い意識があったようです。日本についての資料を読み込んで研究した彼は、幕府を開国させるには毅然とした態度で圧力をかけることが必要であると確信し、多数の新式大砲を備え、防水・腐食のためのタールを黒々と塗った「サスケハナ」を旗艦とする大型蒸気船をそろえて視覚的にも威圧感を強めたのです。
 この「黒船」作戦が奏功し、日本は200年以上も閉ざしていた港を開かざるをえませんでした。

 ただし、この初めての日米両国の接触で驚いたのは日本人ばかりではなかったようです。
ペリーの日本来航時のエピソードをまとめた『日本遠征関連逸話集』(在NY日本国総領事館のウェブサイト)によれば、ペリーは寺子屋や藩校などで学ぶ日本人の教育水準の高さや、職人の腕のよさ、礼節を尊ぶ国民性に感嘆しています。
 そして中国や他の東洋諸国では女性が夫の従属物のように扱われ無知の中に放置されているのに対し、日本女性は夫の伴侶であり、教育や品位があるとし、既婚女性のお歯黒は奇異ではあるが一夫多妻制もない日本は、道徳や規範において東洋諸国のなかで異質であると、好感を表しています。

 とくにペリーは日本人が潜在的にもっている技術力の高さを見いだし,こう述べています。

「日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮するとき、彼等の手工業上の技術の完全なことはすばらしいもののようである。
 日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。
 他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速さによって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。
 日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」

この言葉がやがて、現実のものとなっていくのです。

さらに連載記事<なぜ「日本」は「世界一の鉄砲大国」に? その「意外な要因」>では、戦国時代の日本の「凄すぎる技術」について解説します。

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