goo何気無い日々が心地よい安寧

何気無い日々が続く様に。生きていく事の大変さがカナン。ある種空気の様な存在になりたいもの。

1時間に1秒行うだけで視力が回復する…目が乾きすぎた現代人に眼科医が勧める"完全まばたき"のすごい効能 202407

2024-07-20 23:12:00 | 生活編

1時間に1秒行うだけで視力が回復する…目が乾きすぎた現代人に眼科医が勧める"完全まばたき"のすごい効能
 プレジデントOnline より 240720  綾木 雅彦


疲労、肩こり、目の疲れ。夏の体調管理にまずすべきことは何か。
 眼科医の綾木雅彦さんは「病は目からやってくる。デスクワークやスマホを見る時間が長い人は、目の保湿機能が平均2割以上も低下している」という――。

⚫︎目のトラブルの多くは「涙不足」が原因
 多くの人は、まばたきを意識することがさほどありません。

 でも、人は1日に2万回、まぶたを閉じたり開いたり、つまり「まばたき」をしています。その理由は、とても単純。目は、閉じるたびにダメージから回復するからです。

 試しに、上まぶたを完全におろし切って、下まぶたとしっかり1秒、くっつけてみてください。そして、目を開けてみましょう。いかがですか。目がすっきりして、手元、あるいは遠くがくっきり見えてきたのではないでしょうか。

 目は、涙によって守られています。目を開けたままでいると乾燥してしまうので、それを防ぐために、私たちはまばたきをするのです。

 人の涙は、「油層」「水層」「ムチン層」の3つの層から成り立っています
最も表面を覆う「油層」は、涙が蒸発するのを防ぐ役割があります。この油は「マイボーム腺」という、まぶたの際にある器官から分泌されます。
 真ん中は、涙の約98%を占める「水層」。おもに水分ですが、たんぱく質や酸素、脂質なども含まれます。
 3つめの「ムチン層」は粘り気のあるムチンからなっていて、涙が流れ落ちないよう、目の表面(角膜)に糊のように粘着しています。

 以上、涙の3つの層が何らかの理由で均一でなくなり、目の表面からなめらかさが失われてデコボコになると、光が適正に目に入らず、散乱します。すると、目がかすんだり、見えにくくなったり、まぶしさを感じたりするのです。

⚫︎まばたきが減っている現代人
 想像以上に涙液の分泌が大事なことが、おわかりいただけたかと思います。

 この分泌かつ涙液を均一に目の中に広げる方法、それが、まばたきです。
十分に涙を生み、3層の成分をきちんと整えて眼内にゆき渡らせることは、まばたきにしかできないのです。

「人は1日に2万回、まばたきをしている」と先述しましたが、実は、現代人はまばたきの回数が減っています。
 すると、目は涙が不十分になって乾いてしまい、それによってさまざまな目のトラブルが生じてしまいます。

 まばたきの回数が減っている主な原因は、「ストレス」と「スクリーン(デジタル画面)の凝視」。この2つといえるでしょう。

 忙しく仕事に追われていたり、人間関係で頭を悩まされたりなど、ストレスがかかって緊張していると、自律神経のうちの交感神経が優位になります。
 交感神経が優位になると目が開き、まばたきの回数が不十分になります。さらに、涙の分泌量も減ってしまいます。

 また、パソコンやスマホなどの画面を凝視するなど、集中してものを見ていると、おのずとまばたきが減ります。
 オフィスで長時間パソコンと向き合っていたり、スマホのゲームに夢中になったりしていると、目がパシパシと乾く感覚を覚えることがありませんか。それが「ドライアイ」です。では、ドライアイについて詳しく説明しましょう。

⚫︎ドライアイは現代病でもある
 私は2015年から毎年、計1万2000人以上の患者さんの目の乾き具合を記録しています。

 その結果、コロナ禍以降、涙の量は平均13%減少、目の保湿機能は平均23%低下していることがわかりました。
 主な要因は、在宅勤務によるパソコン作業の増加や、スマホ時間の増加、環境の変化によるストレスだと考えられます。

 さらに、マスク着用でも目が乾きやすくなっています。マスクの隙間から、息が“直接の風”となって目に当たるからです。

 まばたきの回数が減り、涙が少ない状態が続くと目の表面がどんどん乾燥し、ドライアイになります。それによって涙の3つの層の状態が不安定になり、視力の低下も引き起こす。これが現代病ともいえる、ドライアイの正体です。

 現代人の目は、乾きやすい状態にあるので、「意識的に目にうるおいを取り戻す=まばたきをする」必要があるのです。
 要するにまばたきは、目に必要な涙を供給し、角膜の表面を自ら整えることができるセルフケアというわけです。

 角膜が車のフロントガラスだとしたら、まぶたがワイパーで涙が洗浄液。まぶたをすることで、まぶたがワイパーのように目の表面をなぞって、涙を塗り広げてくれます。細かなごみもきれいに取り除き、適度なうるおいを与えて目の表面を整えてくれるため、「ものを見る力」も実際に高まります。

⚫︎まばたきは実用視力を改善する
「え? ホント?」と驚いた方もいるでしょう。
ほんとうです。まばたきで、「実用視力」を最大限に高めることができるのです。

 視力には、「瞬間視力」と「実用視力」の2種類があります。
「瞬間視力」は私の造語です。眼科検診など「Cマーク」の切れ目を瞬間的に見分ける方法で計るのが瞬間視力。いわば、ものを見る能力の最大限の努力値です。

 一方、より専門的な機械で60秒、継続的な検査で測るのが「実用視力」。瞬間視力よりも計測時間が長いため、その人が日常生活で感じている見え方により近い結果が得られます。

 瞬間視力は、一時的になら簡単に上がります。
目を細めると、遠くが少し見えるはずです。それは「球面収差(きゅうめんしゅうさ)」、つまり視線の中心と周辺での光のばらつきが減るからで、目を細めて視野が狭まることで焦点が絞られ、見えやすくなる現象です。

 しかし、それはその場しのぎでしかありませんし、いつも目を細めて生活するわけにもいかないでしょう。
 重要なのは、「安定して、よりよく見る」ための視力、すなわち実用視力。まばたきは、その実用視力を守り、改善してくれるのです。

⚫︎あなたのまばたきは間違っている?
 ところで「まばたきなら簡単。すぐできる」と思っていませんか? 
「しょっちゅうまばたきをしているけど、目が乾く」という人もいるかもしれません。

 実は、すべてのまばたきのうち5回に1回が、まぶたが閉じきっていなかったり、速すぎたりして“不完全なまばたき”に終わっていると推計されています。

 不完全なまばたきの割合が多いと、まばたきによる圧力を十分に受けることができず、涙の油分をつくるマイボーム腺がふさがって機能しなくなり、涙の質が低下することがわかっています。
 また、まばたきが速すぎると涙は十分に出ず、眼内にそれが塗り広がりません。

 そうです。まばたきは、まぶたの上げ下ろしの回数よりも、グイッと一度、まぶたをしっかり閉じきることが大切なのです。

 そこで、ぜひ行っていただきたいのが「完全まばたき」です。
やり方は簡単で、上まぶたと下まぶたを、0.5〜1秒、しっかりくっつけるだけでOK。

 現代人のまばたきは、平均0.3秒といわれているので、いつもより少し長めに目を閉じる意識で、ぐいっと1回、まぶたをしっかり下ろしきるようにしましょう。

 とはいえ1日に2万回ほどまばたきを、常に意識するというのは現実的ではありません。
朝起きたときや昼休み、そして気がついたときにいつでも、この完全まばたきを行ってみてください。

 私の患者さんに完全まばたきを1カ月ほどしてもらうと、「よく見えるようになった」と喜んでくださる人がたくさんいらっしゃいます。

⚫︎デスクワーカーは「極深まばたき」を
 長時間デスクワークをしたり、ついついスマホの画面を見続けてしまう人に行っていただきたいのは、完全まばたきよりも長い時間、まぶたをしっかり下ろす「極深(ごくぶか)まばたき」です。

 完全まばたきは、1回0.5〜1秒ですが、極深まばたきは2秒。1時間に1回を目安に毎日行いましょう。
 極深まばたきは、とくに若い人におすすめです。

 目の網膜が薄い年配の人より、網膜の厚い若い人のほうが目が疲れやすいからです。
一般的に、全身の筋肉は「若い人ほど筋力があり、疲れにくい」という傾向がありますが、目の網膜に関しては逆。
 若い人は網膜が厚くて感度がよく、目の透明度が高い分、光によるまぶしさから痛みや不快感が出やすい傾向があります。

 よく、「歳を取って目が疲れやすくなった」といいますが、実は「若い人ほど目は疲れやすい」。ですから、よく目の疲れを感じる人は、まだまだ若い証拠です。私がしっかりと、保証します。

 いかがですか。「たかが、まばたき」と侮るなかれ。

 まばたきのおかげで1日2万回、目には自己回復のチャンスが訪れます。
今日から1回でも多く、上まぶたと下まぶたをきっちりつける「完全まばたき」をするよう心がけましょう。

▶︎綾木 雅彦(あやき・まさひこ)
眼科専門医・慶應義塾大学医学部非常勤講師 1982年、慶應義塾大学医学部卒業。
1994~1997年、ハーバード大学に留学(医学部研究フェロー)。昭和大学医学部眼科准教授、国立病院機構埼玉病院眼科医長、国際医療福祉大学三田病院眼科准教授などを歴任。慶應義塾大学眼科学教室の研究者として知見を深めながら後進の指導にあたるほか、日本抗加齢医学会評議員などの要職も数多く務める。「ブルーライト研究の第一人者」としても知られる。著書に『視力防衛生活』(サンマーク出版)など。
(構成=鈴木裕子)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🚶…宇治橋…槙島農地🔀…宇治川高架橋…Alp📚… 240720

2024-07-20 20:33:00 | 🚶 歩く
🚶…右岸堤防道…宇治橋…巨椋池水の道…里尻…槙島農地🔀(大幡…幡貫…吹前…郡)…宇治川高架橋…Alp📚百均💊…右岸堤防道…>
🚶10589歩2kg

⛅️風やや強く心地よく雲多く陽射しうっすら,直射無いと楽。槙島水田の青々と美景観

📚日本史の謎は地形で解ける/環境民族編/文明文化編,京都の最強神社,怖いこわい京都,宗教で読み解く世界史,真-日本の歴史,CAPA8月
















 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1階ひがしパフォーマンスinイズミヤショッピングセンター六地蔵  2024 年8 /8,10,11,17,20,25

2024-07-20 10:57:00 | 〽️ 行事・新案内等 控え
◆1階ひがしパフォーマンスinイズミヤショッピングセンター六地蔵
  観覧無料!みんな集合!
   
イズミヤショッピングセンター六地蔵の1階東側催事場の夏休みイベントとしてコンサートなどが開催される。※このイベントは、やむを得ず急遽変更・中止になる場合がある。

⚫︎開催日時
 2024年8月8日(木)~8月25日(日)
    11:00~15:00
 ▶︎備考:開催日:8/8, 8/10,8/11,8/17,8/20,8/25
⚫︎会場
 イズミヤショッピングセンター六地蔵
  京都府京都市伏見区桃山町西尾12番地1
⚫︎料金  無料
⚫︎アクセス
▶︎公共交通:京阪宇治線「六地蔵」駅下車徒歩8分/JR奈良線「六地蔵」駅下車徒歩10分
▶︎車:-駐車場あり 375台

⚫︎お問い合わせ 075-623-0666(イズミヤショッピングセンター六地蔵)
⚫︎ホームページ https://h2o-scdev.co.jp/SC/rokujizo/index.html
イベント備考-
※掲載の情報は天候や主催者側の都合などにより変更になる場合があります
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《「倭」「ヤマト」の意味とは?》邪馬台国の場所を知るカギとなる「日本語に隠されたヒント」とは? 202407

2024-07-20 10:19:00 | なるほど  ふぅ〜ん

《「倭」「ヤマト」の意味とは?》邪馬台国の場所を知るカギとなる「日本語に隠されたヒント」とは?
  文春Online より 240720  桃崎 有一郎


 邪馬台国はどこにあったのか――。歴史学者・桃崎有一郎氏は、まず「邪馬台」の読み方は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」であり、そこから多くのことが見えてくるという。続けて桃崎氏が着目するのは、「倭」「ヤマト」という二つの言葉の、古代における定義や使い分けだった。

【画像】「倭」と「ヤマト」の範囲と対応関係


◆◆◆

⚫︎入れ子構造の発生
 飛鳥時代のように行政区分としての「ヤマトノクニ」を「倭国」と書くと、女王卑弥呼のもとで中国・朝鮮半島諸国と国交した王朝の「倭国」と、区別がつかなくなる。
 そこが重要だ。「倭」は、「ヤマト(最上層)」と「ヤマト(中間層)」という、規模が違う2つの領域を示す意味を持ったのである。

 しかも、先に述べた通り、「ヤマト(中間層)」は、その内部にさらに「ヤマト(最下層)」を包み込んでいた。そして、その「ヤマト(最下層)」も最終的に「大和」と書かれた以上、ほかの「ヤマト」と同様に、古い一時期には「倭」と書かれたと考えねばならない。
 事実、その「ヤマト(最下層)」を支配した「ヤマトのクニノミヤツコ」は、『日本書紀』や『古事記』で「倭、国造」と書かれている。

『古事記』には14例「倭ヤマト」が現れるが、そのうち大多数の12例が確実に「ヤマト(中間層・最下層)」である(残る1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話で本州を指す「大倭国やまとのくにの豊秋とよあき津つ島しま」〔神野志隆光説〕)。
 さらに、(歌謡を除く)地の文に現れる「倭ヤマト」という地名は8例すべて、「ヤマト(最下層)」と解釈して問題ないことも判明している(直木孝次郎説)。

 以上のように、日本語地名「ヤマト」も、漢字地名「倭」も、3つの異なるスケールで使われた。その関係は、「倭ヤマト(最下層)」を「倭ヤマト(中間層)」が包み込み、それをさらに「倭ヤマト(最上層)」が包み込むという、マトリョーシカのような入れ子構造だった。
 これら3つの「倭ヤマト」は、別々に独立して生まれたはずがない。一つ以上がまず最初に生まれ、残りが派生したと考えるのが自然だ。

⚫︎「倭」には固有の意味がない
 ところで、「倭」を「ヤマト」と読むのは、当然ではない。「倭」に「ヤマト」という日本語を宛てることは、日本語話者(倭人)が意図的に、強い理由に基づいて行ったことだ。
では、「倭」を「ヤマト」と読むべき必然性は、どこにあるのか。

 そう思って調べてみると、面白いことがわかる。「倭」という字には、意味がない、、、、、のだ。「倭」の字の意味とされているものはすべて、ベースになった「委」の字が持つ意味であり、「倭」の字には固有の意味がない。
 正確にいえば、〈「委」という発音の人や土地を指す固有名詞〉という意味しかない。「倭」は、固有名詞を表すためだけに「委」に人偏をつけて生み出された字らしい。

 通常、漢字に日本語の訓を宛てる時は、その漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てる。ところが、「倭」の字には意味がないので、機械的に訓を宛てられない。
「倭」と「ヤマト」は,〈この2つが同じ地域を指す〉という政治的判断や決定、、、、、、、によって結合したと考えなければならない。

 ところが、前述の通り、「倭」も「ヤマト」もそれぞれ、3つの規模の地域を指した。
では、どの規模の地域を指す「倭」と「ヤマト」が、なぜ、いかにして結合したのか。
それを知るには、「倭」と「ヤマト」がそれぞれ、原義としてはそもそもどこを指す地名だったのかを、踏まえなければならない。

「倭」については簡単だ。「倭」は、後漢(25〜220年)までに中国が〈日本列島・日本列島人を呼ぶ固有名詞〉と決めた言葉であり、そう決まって以後、中国人も朝鮮半島人も、その用法を逸脱しなかった。「倭」は、数十の小さな「国」を内部に持つ一つの民族全体、、と、彼らの居住する一つの広い地域全体、、を指した。
 前述の通り、『日本書紀』でも、注に引用された中国や朝鮮半島の史書は100%例外なく、「倭」をその意味だけで使った。
 つまり、「倭」は明らかに、統一王朝の国号へとつながる最上層の用法から始まっていた。その数百年の伝統を経た後に出現した中間層や最下層の「倭」は、後から生まれたと考えるしかない。

⚫︎「ヤマト」は狭い地域の地名
 では、「ヤマト」も同じように考えられるかというと、できない。統一王朝の国号を「ヤマト」と呼んだ最も古い確実な用例は、8世紀前半の『日本書紀』まで下るのである。
「ヤマト」が本来、かなり狭い地域の地名として出発した証拠は、いくつもある。

『万葉集』をはじめ、主に和歌において、「ヤマト」が「シキシマ」という枕詞を伴うことがあった。「磯城島」「式島」「志貴島」「之奇志麻」など様々な字で書かれたが、「シキシマのヤマトの国」で一つの成句となり、統一王朝の国号か奈良地方かを問わず、「ヤマトの国」を修飾した。後には「シキシマ」だけでそれらの「ヤマト」を意味し、たとえば〈和歌の道〉のことを「敷島の道」と呼ぶようになった。

 この「シキシマ」は、崇す神じん天皇の「師木しき島しまの大宮」(『古事記』)や、欽明きんめい天皇の「磯城しき島しまの金かな刺さしの宮みや」(『日本書紀』)など、王宮の所在地として現れる。欽明の王宮がそう呼ばれたのは「倭やまとの国くに磯し城きの郡こおり磯城島」にあったからで(『日本書紀』)、「シキシマ」は明らかに奈良地方の「ヤマト(中間層)」に含まれた磯城郡内の地名である。
磯城郡は「ヤマト(最下層)」を含むから、「シキシマのヤマト」という結合はこの狭い地域でまず起こり、後に統一王朝の国号へと拡大したと見るほかない。

 同じことが、「秋あき津つ島しま(秋津洲)」にもいえる。「秋津島」は統一王朝の国土全体や本州を指す美称で、国土全体や本州が「蜻蛉あきつの臀と呫なめ(トンボの交尾の姿)」に似ているという神じん武む天皇の感想が語源だと『日本書紀』に伝わる。
 しかし、孝安天皇が葛城の室むろという地(令制の大和国葛上かつらぎのかみ郡牟婁むろ郷。今の奈良県御所ごせ市室むろ)に設けた王宮が「葛城かつらぎの室むろの秋津島の宮」と呼ばれたように(『古事記』『日本書紀』)、「秋津島」もやはり奈良地方の「ヤマト(中間層)」内部の、極めて狭い地域の地名だった。

 これら「シキシマ」や「秋津島」が、狭い地域の地名から統一王朝の国号の代名詞となった理由は、枕詞などとして結びついていた「ヤマト」が拡大して、その道連れになった結果と考えるしかあるまい。それはつまり、「ヤマト」が本来この小さな地域名から出発したことを意味する。

 では、「ヤマト」という地名そのものの最も古い用例は何か。それこそ、『魏志』倭人伝に見える3世紀前半の「邪馬台ヤマト」にほかならない。
 つまり、卑弥呼の時代には、統一王朝全体を指す「倭」と、その内部の小国を指す「ヤマト」が、混じることなく別々に存在した。これが「倭」と「ヤマト」の初期状態だ。


▶︎本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「画期的新説 邪馬台はヤマトである」)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤ノ木古墳と舟塚古墳の大発見! 同じ石棺に埋葬された成人男性2人は一体何者なのか!? 202407

2024-07-20 00:32:00 | 📚 豆知識・雑学

藤ノ木古墳と舟塚古墳の大発見! 同じ石棺に埋葬された成人男性2人は一体何者なのか!?
  歴史人 より 240720  柏木 宏之


 大きな駐車場の隅にある円形の植え込みが、実は横穴式石室の円墳だったことが実証されました。
 法隆寺のそばにある古墳をピックアップしてみましょう!

■法隆寺のすぐそばで発見された舟塚古墳
 前回ご紹介した奈良県生駒郡斑鳩町の世界遺産法隆寺に私は何十年とお邪魔してきましたが、びっくりするようなニュースが2022年に飛び込んできました。

 実は以前から古墳だといわれていたらしく、丸木船のような割竹型の木棺が出土したという話があって、舟塚という名前が付けられていたようです。
 子供のころから大ファンだった法隆寺にばかり目が向いていたので、この小型古墳は植え込みだとばかり思っていました。また、どう見ても植え込みにしか見えないのです。

 今は法隆寺参拝用の広大な駐車場の隅で、駐車場受付とトイレのすぐ目の前に何げなくあるのですが、これがなんと横穴式石室の古墳でした!

 斑鳩町教育委員会と奈良大学が発掘調査をした結果、小型の円墳であることが確認され、出土物から6世紀後半の古墳だと考えられています。

 墳形は円墳で、直径が8.5m、高さは1.5m、そして裾部分は後世の造作でしょうが、よくある植え込みと同じように30cmほど石垣で囲まれています。石室は長さ3.8m、幅1.6m、残存している高さは0.9mだそうで、幅1.2mと推定される羨道もある立派な横穴式石室だったのです。
 今は調査も終わり埋め戻されていますが、玉類・太刀・鉄鏃・馬具や須恵器に土師器が出土しています。

 面白いのは古墳の封土内から飛鳥時代の軒丸瓦の破片が出土していることでしょう。
古墳自体は西暦550年以降の築造だと推定されているので、600年代の飛鳥時代の瓦片が埋土に混ざりこんでいるのが不思議ではありますね。おそらく壊されたり修復されたりした痕跡でしょう。
  [写真]植え込みにしか見えない駐車場の舟塚古墳

■藤ノ木古墳にまつわる謎 
 そして斑鳩町最大の謎の大型古墳といえば、何といっても藤ノ木古墳でしょう。直径約50m、二段築造の大型円墳で高さは10m弱あります。築造推定年代は6世紀の末期、つまり西暦500年代末期ですから、先ほど紹介した舟塚古墳の方がやや古いということになります。
 [写真] 未盗掘だった藤ノ木古墳。大きな二段円墳である。 

 1985年の調査で未盗掘古墳であることがわかり、石室内から大量の祭祀土器や副葬品が発見されました。くり抜き型の家形石棺には朱が塗られ、その後開封された石棺内からは驚くほど豪華な副葬品が大量に出てきました。
 埋葬時から一度も開けられていないのですから、実に貴重な史料でもあるのです。
もちろん1400年余りの時を経ていますので、さまざまな地震にも見舞われていますし石棺内には雨水が侵入して溜まってしましたので、副葬品は劣化していて鉄製品はさび付ついています。
 とはいえ、黄金の輝きを放っている石棺内をファイバースコープで覗いた研究者たちからは大きなどよめきが起きました。完璧な未盗掘古墳だったのです。

 そしてこの藤ノ木古墳最大のミステリーが、一つの家形石棺に男性が二体埋葬されていたことでしょう。
 わが国の古墳にはほとんどの場合墓誌などはありませんので、被葬者が判明することがまずありません。藤ノ木古墳もまたしかりで、誰と誰が埋葬されているのかなんてわかるわけがありません。しかしながら、これほど異常な状態の埋葬状況を知ると、なんとか被葬者とその埋葬事情を推理したくなるものです。

[写真]藤ノ木古墳羨道から石棺を臨む。現在は石棺に埋葬されていた男性2体の遺骨を容器に移して石棺内に安置している。

 6世紀末期に二人同時に埋葬される大型円墳で、副葬品は大王級の豪華な工芸品ばかりです。この時代の天皇(大王)は、用明・崇峻・推古のお三方でしょう。
 同時代には蘇我氏は馬子・蝦夷、物部氏は守屋・贄子、皇子なら厩戸(聖徳太子)・穴穂部(あなほべ)・葛城・茨城・宅部などの各皇子でしょうか。
 どうしても気にかかるのは、用明天皇が即位してすぐに病気で崩御したことにより、蘇我氏と物部氏が戦った西暦587年の丁未の乱(ていびのらん)周辺の大王位を奪い合う権力闘争でしょうね。
 この時代は蘇我馬子の父親である稲目が、外戚となるために娘を二人、大王に入内させていたので、俗に蘇我腹といわれる皇子皇女が大勢いました。聖徳太子の父親の用明天皇も母親の間人(はしひと)皇后も異母兄妹でどちらも母親は稲目の娘でした。また穴穂部皇子は間人皇后とは実の姉弟です。
 穴穂部皇子は大王位に就く野心が強く、さまざまな事件を起こしますので、馬子はこの皇子を即位させるつもりはなかったようです。そこで穴穂部皇子は蘇我腹皇子でありながら、敵対する物部守屋に接近して後ろ盾にしようと動いたようなのです。年齢はおそらく穴穂部皇子よりも上なのかと思いますが、宅部(やかべ)皇子がこれに賛同して動き回ります。

 これに立腹した馬子は刺客を送って穴穂部皇子と宅部皇子を殺害してしまうのです。この事件をきっかけにして丁未の乱が開戦したといって良いでしょう。
 という話があると、時代といい状況といい、異常な二人一緒の埋葬といい、被葬者はこの二人ではないかと思ってしまいますが、真相はわかりません。
 ただ、法隆寺の200mほど真西の藤ノ木古墳に誰と誰がどういう事情で埋葬されたのかは、同時代の聖徳太子はよく知っていたはずです。

 にもかかわらず、聖徳太子は一文字もこの古墳についての真相を書き残していません。
なぜなのでしょうか? もしかすると二人一緒に埋葬して供養をしたのは聖徳太子その人だったのかもしれません。
 穴穂部皇子は太子の叔父ですから、実の姉であり太子の母である間人皇女が暮らす斑鳩に古墳を造営したのかもしれませんね。

 太子は真実を語ると叔父の不明を恥じることになり、蘇我一族の暗部をさらすと思ったのかもしれません。蘇我氏の皇子なら方墳であってもおかしくないのですが、蘇我を裏切った皇子なので円墳でカモフラージュしたのかもしれません……。

 こうなると朝まで妄想話で盛り上がりそうになりますが、これも歴史遊びの楽しい所なのでご容赦ください(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする