石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 山辺郡山添村広代 菅原神社(天満宮)石灯籠

2012-02-07 00:44:39 | 奈良県

奈良県 山辺郡山添村広代 菅原神社(天満宮)石灯籠

名阪国道山添インターを降りて国道25号の旧道を東に向かうとやがて広代集落に着く。地図で見た印象より高低差のある地形で、思ったより山深い場所である。02大和の東山中でも東寄りで伊賀に近い。03国道から南に折れ、しばらく狭い道を登って行くと集落の南のはずれの尾根上に菅原神社(天満宮)がある。社殿前方、向かって左手に石灯籠がいくつか並んでいる。左から二番目が目指す石灯籠である。花崗岩製の四角型。『奈良県史』には高さ217cmと記されるが、現地の案内看板には193cmとある。おそらく方形切石の基壇(泥板)を含むか否かの差だろう。この基壇は当初からのものかどうかは定かでないが、中世以前の古い石灯籠は社殿や仏堂の正面に一基だけ置かれることが多いので、今立っている位置は本来の位置からは多少とも移動されていると思われる。

基礎は側面素面、上端は複弁反花で竿の受座を方形に刻みだす。部分部分の比が異なるので一目で石灯籠向けに作られたものとわかるが、基本的な意匠のパターンはよく見かける五輪塔の反花座と同じで、四隅に間弁を持ってくるのは大和の反花の特長である。竿は素面で向かって右側面に「建武五年寅戊十一月廿五日」の陰刻銘がある。彫りは浅く風化が進んでいることや光線の加減もあって肉眼でははっきり確認できない。建武五年は南北朝時代初め、北朝年号と思われ西暦では1338年、この年の8月には暦応に改元されており、11月は本当なら暦応元年になるべきところだが、05改元に気付かなかったのか、彫った時点で間に合わなかったのかは詳らかでない。もっともこのように改元前の年号を刻むケースは時々見られる。04中台は最下部に方形の竿受を設けて下端は覆輪付単弁の請花とし、側面は二区に枠取りして内に浅い格狭間を彫る。上端は二段にして火袋を置く。火袋は外側に狭い輪郭で枠取りし、井桁状に低い桟を入れて中央に方形火口を前後に穿ち、左右は蓮華座のレリーフ上の円窓とする。中央上段は二区の横連子、下段は素面の二区とする。笠は伸びやかだが、軒口の厚み、軒反とも力が抜け重厚感は感じられない。軒口に段を設けて桧皮葺屋根風とするのは、桜井市浅古会所の宝塔などとも共通する手法。笠裏には隅木と垂木型を薄く刻み出している。請花宝珠は一石彫成で、請花下端には裾広がりの頸部が見られ、隠れているが最下部には枘があって笠頂部の枘穴に差し込むものと思われる。請花には覆輪付単弁と見られる蓮弁がある。宝珠は先端の尖りまで良く残り、重心の低い完好な曲線を示す。

簡素かつ飾り気の少ない意匠表現で、際立った特長にも乏しい。基礎反花の蓮弁や宝珠請花の蓮弁などは彫りが浅く抑揚感に欠け、出来映えにも正直いまひとつのところもあるが、全体にすっきりしたデザインに上手くまとめて好感が持てる。四角型の石灯籠としては大きい部類で、笠の軒先の一部に少し欠損部があるものの、14世紀前半代の四角型灯籠で、基礎から宝珠先端まで当初の部材が全部揃うのは稀有の例である。特に火袋がよく残る点は貴重で、火袋の残る四角型の石灯籠としては大和でも在銘最古の基準作として注目される。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎・岩宮武二『燈籠』

 

向かって左隣の石灯籠は、パッと見、そっくりですが、竿の正面に「常夜灯」と刻み、近世に建武のを模して作ったレプリカです。蓮弁や宝珠など細部を観察するとその出来映えの違いは明らかです。隣どうし並んだ両者をよく見て比べるのは作風や手法を知る上で勉強になりますね。

さて、案内看板があるのはとても結構なことですが、立っている位置が写真撮影や観察には少々近過ぎるようです。また、「改元後3年もつづいて以前の元号を用いている例は珍しい」と書いてあります。まさか建武が2年で終わると思ってるんじゃ…。建武は南朝年号でも3年2月まで、北朝年号ではちゃんと5年8月まであります。二重に間違いを犯しているかもしれません。看板を立てて石造美術をきちんと顕彰していこうというのは素晴らしい取組みですが、立てる位置といい内容といい、もう少し何とかなりませんかねぇ…。いや、これも石造ファンのわがままですね、口が過ぎたようです、ハイ。

 

 

四角型の石灯籠は、橿原市浄国寺の正和5年(1316)銘のものが在銘最古の遺品で、これに続くのが元亨3年(1323)銘の春日大社のもの。境内の御間道にあって今は春日大社の宝物館に移されている重要文化財で意匠表現の上からも四角型の最高傑作と言われています。これらはともに当初の火袋は失われています。実は大和は四角型石灯籠のメッカで、とりわけ春日大社には非常にたくさんの室町時代後半の在銘品が残されています。延慶2年(1309)に作られた『春日権現霊験記絵巻』という絵巻物に四角型の石灯籠が既に描かれており、鎌倉時代後期頃に神社向けにその形が考案され、春日大社で使われ始めたのだろうというのが川勝博士の説です。


奈良県 奈良市長谷町 塔の森層塔

2012-01-09 15:30:53 | 奈良県

奈良県 奈良市長谷町 塔の森層塔

南田原町から南下し白砂川を遡り、長谷町の南西、天理市山田町方面へ抜ける峠の道路から西に入って狭い坂道をしばらく進むとやがて日吉神社に至る。01_2神社脇の広場の山寄りにはいくつか石造物が並んでいる。02中央の石仏は近世以降のものだが、その台になっているのは立派な花崗岩製の宝篋印塔の基礎で、近くには釣り合うサイズの笠石が見られる。基礎上二段で側面は素面。四隅間弁の反花座を備えた大和系の宝篋印塔で、笠上は珍しく七段、笠下は地面に埋まって確認できない。隅飾突起は二弧輪郭式である。塔身と相輪は亡失するが元は六尺塔くらいの大きさがあったと思われる。清水俊明氏は南北朝後期頃のものとされているが、もう少し遡るかもしれない。03_2舟形背光五輪塔には天文二十年(1551年)、同二十一年(1552年)の紀年銘が見られる。また、地輪から水輪部にかけて舟形光背を彫り沈めて地蔵石仏を刻んだ立派な半裁五輪塔も目を引く。04また、居並ぶ石造物の中に現高約39cm、幅16cm角の花崗岩製の方柱がある。何らかの石造物の残欠で、上端に枘があって笠塔婆の塔身か四角型石灯籠の竿のように見えるが、元はどういうものだったのかよくわかっていない。「右為父母/貞和五乙丑」との刻銘があるとされ肉眼でも確認できる。貞和5年は南北朝時代前期の1349年。このほか近世の宝篋印塔等も見られる。こうした仏教関係の石造物の存在から、この広場にはかつて日吉神社の別当寺があったと考えて差し支えないだろう。広場脇の山道を10分程爪先上がりに登っていくとやがて石段が現れ、これを上りきると尾根のピークに達する。稲荷の小祠が祀られ、その奥に目指す層塔がある。周囲には金属製の保護柵が設けられている。場所としては天理市福住町との境に近い。01_5凝灰岩製。きわめて珍奇な層塔として古くから著名なもので、昭和29年には県史跡に指定されている。現状高約245cm。現在六層に積まれているが、02_2傍らに笠石やその残欠が少なくとも3枚分以上あって、元は十三重であったと推定されている。基礎は大小2つ上下二段だったと推定されている。小さい方の基礎、つまり上段の基礎は笠の残欠といっしょに傍らに置かれている。現状の基礎は即ち下段の基礎で、対向側面間の幅約102cm、高さ約28cm、各側面には輪郭を巻かずに直接幅の広い格狭間を入れる。03_4格狭間の形状は通常目にする石塔基礎などにあるものとは明らかに異なる。これは従前から言われているように、東大寺正倉院に残された奈良時代の器物の床脚等に見るような古い格狭間に通じる形状で、確かにそのように見える。上段基礎は破損が激しく、各側面には下段基礎と同様に輪郭を巻かず直接格狭間を配し、格狭間内には素単弁八葉の蓮華文のレリーフがある。いかんせん遺存状態が悪く、04_2蓮華文レリーフは確認できるが、格狭間の様子ははっきりしない。05_2上端には受座を刻出し、中央に方形の枘の痕跡が残っている。初層軸部は高さ約38.5cm、対向側面間の幅約52cm、側面には輪郭を巻き、輪郭内中央に径約13cm程の素単弁八葉の蓮華文のレリーフがある。輪郭に囲まれた羽目部分は長方形ではなく、下端が狭く、上に行くに従って幅が広くなる。上端が欠損するのか上部輪郭は確認できない。初層を除く軸部は笠石と一体型で、軒の張り出しは大きい。現状初層の笠石は対向する軒の幅約105cm、軒口は欠損が目立つがあまり厚みはなく緩い反りがあるようで、降棟を突帯状に刻み出す。06_2笠裏は水平にせず軒口から内側に抉りこんで軸受けと隅木を刻み出している。08_2 この笠裏の手法は、明日香稲淵の竜福寺層塔(天平勝宝三年(751年))にも見られる。傍らに置かれる笠石を見ると、軸部上端の受座中央に方形の枘があるのがわかる。特長をおさらいすると、1凝灰岩製、2平面が六角形、3低平な二重の基礎を備える、4笠軸部一体である、5軒の出が大きい、6笠裏が抉り込んでいる、7降棟を突帯で表現する、8隅木を突帯で表現する、9軸部の受座を刻出する、10初層軸部並びに上段基礎の側面を素単弁の蓮華文のレリーフで飾る、11初層軸部の側面は輪郭を巻くがそれは長方形ではない、12枘(方形)を有する…といったところだろうか。07鎌倉時代以降の一般的な近畿地方の石造層塔に比べるとそのデザインは独創的かつ特異なもので、笠裏の手法、格狭間の形状などから、奈良時代後期頃の造立とされている。古いのは間違いないだろうが、奈良時代にまで造立時期を繰り上げて考えてよいものか、正直いって少し躊躇を感じるが、竜福寺塔や正倉院に残されるような遺品の格狭間などしか比較検討できる類例もない以上、今のところ積極的にこれを否定することはできないだろう。少なくとも平安時代末期以前に遡るのは間違いないと思う。なぜこのような山深い場所に特異な古い層塔がぽつんと存在しているのか、謎である。東大寺の境内ないし勢力範囲の一端を示す牌示標識の役割があったとか、付近にかつて存在したらしい塔尾寺という山岳寺院関連の経塚の標識塔であるとかの説があるようだが、不詳とするほかない。全体に破損が激しいことが惜しまれるが、概ね主要部分は残っており、造立当初の装飾的かつ優美な姿を想像することも十分可能である。独創的な古い石造層塔として類例のない貴重な存在である。

 

 

写真最上段左右:一具のものと思われる宝篋印塔の基礎&反花座と笠石、上から2段目右:貞和5年銘の謎の石柱がこれ、上から2段目左:所謂半裁五輪塔、上から4段目右:層塔の笠裏の様子、上から5段目右:上段基礎がこれ、蓮華文レリーフが見えますでしょうか、上から4段目左:初層軸部の輪郭と蓮華文レリーフ、上から5段目左:傍らの笠石、六角形で降棟の突帯、受座や方形の枘が見てとれます、左最下段:基礎の格狭間です。たしかに正倉院チックなところがあります。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

      川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

     〃   新版『石造美術』

   太田古朴 『美の石仏』

 

笠石の残骸が折り重なって傍らに置かれています。周囲には埋もれた部材がまだ眠っていそうです。実に何というかエキセントリックな層塔で蓮華文がチャーミングです。蓮華文の蓮弁の割付が真っすぐにならずに少し斜めにズレているのを見ると、意外にテキトーというか、凝ったデザインなのに細部にこういうおおらかなところがあるのは確かに奈良時代風かもしれませんね。数年ぶりに訪ねましたが、曲がる道を間違えて集落奥の狭い狭いとんでもないところに入り込んでしまい立ち往生、バンパーをガリガリやってしまいました。ポイントポイントにはちゃんと案内看板がありますのでご安心を。雪が残っていて、いや寒かった。


奈良県 天理市柳本町 長岳寺地蔵石仏笠塔婆

2011-11-30 21:41:24 | 奈良県

奈良県 天理市柳本町 長岳寺地蔵石仏笠塔婆

長岳寺は山辺の道沿いにある古刹で、高野山真言宗、釜口山と号する。01境内や付近には見るべき石造美術が多い。02境内は季節の花々や紅葉が美しく、石造のみならず仏像や建造物も優れたものが残されている。本堂前、向かって右手、やや奥まった不動石仏の前に笠塔婆が立っている。現在載せられている笠石は、境内にあった適当なものを見繕って載せられたものというが、当初の姿を彷彿とさせるには十分である。軸部は現状高約151.5cm、幅約33cm、厚さ約18cmの扁平な角柱状で、花崗岩製。本堂前から一段上った大師堂に通じる石階段の下から5段目の延石に使われていたのが、昭和50年6月、石階段修復のためひっくり返すと像容と刻銘が見つかったため、取り出され現在の位置に移された経緯がある。上端面には枘の痕跡が認められたという。右側隅が一様に欠損しているのは石階段に転用された際に打ちかかれたものだろう。05正面上方に舟形光背形を彫り沈め、内に像高約45cmの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、衣文はやや簡素であるがプロポーションはまずまず整っており、表情は端正で、錫杖の彫り方などは丁寧である。蓮華座は光背彫り沈めの下端外側に線刻に近い薄肉彫りで表現され、蓮弁は5葉の請花の下に反花7葉を組み合わせており、凝った表現と言える。04_2正面中央に約28cm×約18cmの横長の長方形を浅く彫り沈め、その中に相対する一対の僧形像を薄肉彫りしてる。向かって右側の像は岩座のようなものの上にあって経机前に端座しているように見える。左像は膝をついて合掌し右像を拝んでいる。師弟の僧の姿を表していると見られている。その下方の平坦面に中央に一行の陰刻銘がある。「元亨二年(1322年)壬戌卯月日僧行春」と判読されている。清水俊明氏は、願主が行春で、師僧の供養のために造立されたのではないかと推定されている。さらに、境内に残る、初重軸部に珍しい獅子に跨る文殊菩薩を刻んだ層塔が西大寺叡尊(1201年~1290年)による供養塔と伝えられ、弘安年間にここで叡尊が梵網経を講じたとも伝えられることなど、当時の長岳寺が叡尊と関わりがあったこと、そして元亨二年が叡尊の三十三年忌に当ることから、供養の対象になった師僧が叡尊ではないかと推定されている。となれば刻まれた師僧像は叡尊その人の像である可能性があって注目されるが、摩滅が進んで像容が見えづらくなっているのが惜しまれる。

 

写真左下:師弟の僧と思われるレリーフ。左側が願主の行春、そして向かって右側こそが思円上人か?

 

参考:清水俊明 「長岳寺元亨銘石仏と暗峠弘安銘笠塔婆」『史迹と美術』456号

     〃  『大和の石仏』(増補版)

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

 

文中法量値は清水俊明氏の報文によります。同報文によると、昭和の初めに石階段を修復した際に転用されてしまったらしく、昭和50年の6月20日、偶然石材から石仏と刻銘の一部を見つけられた御住職からの連絡を受けて清水氏がその日のうちに飛んでいったそうです。刻銘部分には昭和の初めの頃のセメントがこびりついており、御住職と清水氏が協力し取り除かれたそうです。

昭和の初めから40年くらいの間は石段として人々に踏まれてきたわけで、何ともおいたわしいことでしたが、こうして再び陽の目をみることになったのは喜ばしい限りです。

弥勒石仏、板五輪塔婆、宝篋印塔、層塔、五智墓の石塔群、奥の院の不動石仏等々境内と付近には石造ファン必見の優れた石造がたくさんあってとてもいっぺんには紹介しきれません。折々ご紹介していきたいと思います。長岳寺さんはご本尊、楼門など数々の優れた文化財に加え、何より、いかにもな大和の古寺の風情が色濃く残り、静かで風光明媚な佇まいが素晴らしいお寺です。それからお寺でいただけるそうめんもお薦めです。


奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

2011-11-28 21:39:42 | 奈良県

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

天理市苣原は市街地から東方、布留川を遡った山間の静かな集落で、大念寺は集落のほぼ中央、公民館とは国道25号の旧道を挟んだ北側に位置する。01_2融通念仏宗で向台山来迎院と号する。本堂向かって左手に一際目を引く立派な十三仏が立っている。03以前は旧本堂前の門前右側にあったが近年本堂改修に伴って現在の場所に移建された。花崗岩製で高さ約2m、幅約52cm、正面を平らに整形し、十三仏を半肉彫りしている。全体の姿は縦長の板状ないし偏柱状で上端を山形にした板碑形を呈する。よく見ると下端はやや幅が狭く、下から3/4程まではほぼ同じ幅で立ち上げ、上部1/4ほどは上端に向かって少し幅を狭くしてから先端の山形につなげている。側面から背面は粗く整形したままである。虚空蔵菩薩を除く12尊は三列四段とし、像高は約20cm前後で各尊とも蓮華座に座す。十三仏は各回忌の本尊を供養するもので、十王信仰から発展したと考えられている。1初七日:不動明王、2二七日:釈迦如来、3三七日:文殊菩薩、4四七日:普賢菩薩、5五七日:地蔵菩薩、6六七日弥勒菩薩、7七七日:薬師如来、8百ヶ日:観音菩薩、9一年:勢至菩薩、10三年:阿弥陀如来、11七年:阿閦如来、12十三年:大日如来、13三十三年:虚空蔵菩薩という順列が定まってきたのが室町時代初めの14世紀末から15世紀初め頃とされている。04その頃の古いものは十三仏を種子で表すが、像容で表す例も室町時代を通じて次第に増加してくる。05_2また、各尊の配列にはいろいろなパターンがあって興味深い。本例における配列は、右下からスタートして、3・2・1、6・5・4、9・8・7、12・11・10で右から左に進み、一度右に戻って上の段に進んでいく。なお、上段の中央は阿閦如来で大日如来が中央にない。古い例ほど変則的な配列になるといわれている。各尊像を見ていくと、1不動明王はいかめしい表情で右手に利剣を携えている。2釈迦如来は施無畏与願印、3文殊菩薩は三ないし五髻の童子形で剣を右手に持つ。4は菩薩形で蓮華か何かを持つようで普賢菩薩、5地蔵菩薩は声聞形で持物は錫杖と宝珠、6弥勒菩薩は胸元に塔のようなものを捧げもっているのでそれとわかる。02_27は胸元の左手に薬壺らしいものを乗せる如来形で薬師如来、8は菩薩形で大きい蓮華を捧げ持つ観音菩薩、9の勢至菩薩は合掌している。10の阿弥陀如来は指で輪を作った両手を胸元に掲げた説法印。11阿閦如来の印相は普通左手で衣の一端を執り、右手は降魔印とされるがこれは左手は胸元にあって右手は肩の辺りに上げた施無畏印のように見える12は智拳印とわかるので金剛界の大日如来である。上部に単独で配される13虚空蔵菩薩は、やや大きめに作られ、左手に剣、右手は何かを胸元に捧げ持つ(三弁宝珠か?)。面相部の残りも他に比べると良く、端正な表情が印象的である。頭上には立派な天蓋のレリーフがある。下端近くの平坦面に陰刻銘がある。右端に「天文廿二二年乙卯」、左端に「二月十五日」とある。その間に六行にわたり「琳祐 衛門/道西 弥六/妙西 源六 道善/妙光 助九郎 三郎二郎/道慶 助五郎/三弥 又三郎」と結縁者名が刻まれている。天文廿二二(=24年)は西暦1555年、室町時代後期16世紀中葉の造立である。時代相応で各尊ともやや頭でっかちでお人形さん風の像容になってはいるが、2mもある良質の花崗岩を用いて蓮華座や面相、持物など細部の意匠表現まで丁寧に仕上げており、大和でも最も大きく作風優秀な十三仏として著名なものである。このほか境内には箱仏や双仏石などが多数見られる。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   清水俊明 『大和の石仏』

   土井 実 『奈良県史』第17巻 金石文(下)

 

十三仏もなかなか興味深いテーマでこれからも見て行きたいと思っています。庶民レベルの信仰の表われと考えられているようですが、これだけ立派なものを作れるのはそれなりに有力な人達だったと思います。中世の終りから近世初め頃にかけてちょくちょく作られているようで、近畿では大和に特に多いようです。諸書に取り上げられて著名なものですが大和の代表選手ということでご登場願うこととしました。そうそう、これまた難読の地名ですが「ちしゃはら」ないし「ちしゃわら」と読みます。


奈良県 奈良市川上町 若草山十国台出世地蔵石仏

2011-11-07 00:08:04 | 奈良県

奈良県 奈良市川上町 若草山十国台出世地蔵石仏

奈良奥山ドライブウェイを上っていくとやがて十国台と呼ばれる尾根のピークに達する。03ここを過ぎるとすぐ道路は下り坂の急カーブになる。この急カーブの途中、道路の北側に面してひっそりと地蔵石仏が立っている。十国台からはほぼ真南、直線距離にして約200m程のところである。02オーバーハングした馬酔木の葉陰に隠れるように立っており、よほど注意していないと見落とす。川上町と雑司町の町境で道路の南側は雑司町である。上面が平らな自然石の上に約40cm×40cmの平面を粗く方形に整形した高さ約15cmの台石を置き、その上に現状高約99cm、最大幅約47cmの光背と一体成型の厚肉彫りの石仏を載せている。台石は当初から一具のものかどうかは不詳。花崗岩製、ほぼ南面し、像高は約75cm。像容は右手に錫杖を執り、左手に宝珠を載せる通有の地蔵菩薩立像で、下端には覆輪付単弁八葉の蓮弁を並べた蓮華座を刻む。光背上部は一見すると円光背のように丸くなっている。これは光背上部の周縁が欠損しているためで、頭頂上の光背面が前方にせり出していることから当初は舟形光背形であったと考えられる。さらに上から1/4ほどのところ、ちょうど像容の肩から首にかけての辺りで折損している。幸い面相部の遺存状態は良好で、眉の線から鼻筋の処理の仕方、まぶたや頬から口元にかけての表情の作り方は市内伝香寺の永正12年(1515年)銘地蔵石仏に通じる作風である。光背面、向かって右下寄りに「良源房」と陰刻銘があるが、紀年銘はない。衣文表現は簡略化が進み、頭部がやや大きめで袖裾が蓮華座に達するなど室町時代も後半の特長が現れている。造立時期は16世紀前半から中葉頃と見て大過ないと思われる。出世地蔵と呼ばれているようだがその所以については不詳。なお、傍らにも高さ40cm程の小型の地蔵石仏がある。

 

参考:太田古朴・辰巳旭 『美の石仏』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

 

正倉院展に行ったついでに再訪し、やっと見つけましたのでUPします。どうでもいいのですが出世地蔵が見つからないままというのもちょっと気になるもんです。十国台に駐車し徒歩での探索に切り替えて見つけました。先にご紹介した三体地蔵のように特に標識もなく木陰に隠れて自動車では非常にわかりづらいお地蔵さんでしたが、道に面しているので徒歩なら難なく見つけられると思います。光背上半の欠損が目立ちますがそれ以外の残りは悪くありません。なかなかいい表情のお地蔵さんでした。付近には十国台以外に適当な駐車スペースはなく、たぶんこれが唯一のアクセス方法ですが、ドライブウェイの名のとおり基本的に自動車向けの道路で徒歩向きではありません。しかも下り急カーブの途中にあり見通しも良くないので歩かれる場合は自動車の通行に十分注意してください。


奈良県 奈良市川上町 若草山十国台三体石仏

2011-10-04 00:12:45 | 奈良県

奈良県 奈良市川上町 若草山十国台三体石仏

若草山の山頂に通じる奈良奥山ドライブウェイを上っていくと道は急カーブを繰り返しながらやがて十国台と呼ばれるピークに達する。04_4十国台には駐車スペースがあってここから山頂までの道の勾配はいくぶん緩くなる。01十国台から山頂に向かってさらに400m余り行くと、道路の北側に「三体地蔵」と書かれた標柱が立っている。この標柱から北側の緩斜面を100m程歩いて下っていくと木立の中に石柵が目に入る。この石柵の内に三体石仏が置かれている。ドライブウェイから一歩入ると道らしい道はないが、起伏の少ない緩斜面で下草はほとんどなく木々が疎らで視界はきくので、05北方向に真っすぐ歩いて行けばすぐにわかると思う。ドライブウェイを通過する自動車が少ない時には辺りは静寂そのもので、落ち葉を踏み分ける鹿の足音に驚いてしまうような環境である。訪う人も極めて少なく、賽銭として供えられた10円硬貨のくすんだ表面がそれを物語っている。石仏は幅約115cm、奥行き約65cm、現状地表高約40cmの不整形の自然石を台石とし、その上に高さ約135cm、幅約102cmの舟形光背形に整形した本体をほぼ東面して載せ、光背面を共有する三尊石仏が半肉彫りされている。03石材は三笠安山岩(「カナンボ石」)である。「三体地蔵」と言うが、石仏一般を総称して石の地蔵さんと言うに異ならず、三尊形式であっても地蔵菩薩はそこに含まれてはいない。中尊は阿弥陀如来、脇侍は向かって右側が観音菩薩、左側も如来像である。いずれも立像で頭光円は見られない。下端は厚みを残して単弁八葉の蓮華座を刻むとされるが蓮弁ははっきりしない。中尊は像高約94cm、右手を上げ左手を下げて、両手とも親指と人差し指で輪をつくる来迎印である。重なりあう衣文の表現はやや平板ながら整って荘重感があり、面相表現も優れている。02_3向かって右の観音像は像高約68cm、十一面観音と思われ、頭上の丸い突起は宝冠上の小面であろう。手元があまり判然としないが、持物の宝瓶とそこから伸びる蓮華らしいものが外側の肩上に表現されている。左側の如来像は像高約70cm、右手は施無畏印、下した左手先は剥落しているが与願印ないし蝕地印で弥勒如来と推定されている。観音菩薩の現生利益、未来仏たる弥勒如来への下生願望、阿弥陀如来は極楽往生と尊格の信仰特性を踏まえ造立願意を慮るのもこうした石仏造立の背景を考えていく上では有意義なことである。総じて作風優秀であるが、体躯に比してやや頭部が大きく、衣文表現に少し平板なところが見られる。無銘のため造立時期は不詳とするしかないが、従前から鎌倉末期頃のものと推定されている。プロポーションや裳裾の処理の仕方などから小生はもう少し降るのではないかと考えている。なお、太田古朴氏、清水俊明氏によると、この地は東大寺法華堂の千日不断花の修行場で行場の本尊として祀られていたとのことだが、法華堂の千日不断花の修行なるものがいかなるものなのかは不詳。

 

参考:太田古朴・辰巳旭 『美の石仏』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。

清水先生は観音様の持物を念珠と蓮華瓶とされていますが、念珠がよくわかりませんでした。

落ち葉を踏み分けて進む雰囲気が何とも言えないロケーションですが、下草がないので割合歩きやすく、個人的には下手に整備された通路などはない方がいいと思います。木立の下の静寂の中で石仏と向かい合えるのは至福のひと時です。ただ、案内の標柱がないとまずたどり着けない。しかも標柱の文字が下り車線からしか見えないので見落としやすく上り車線からも見えるようにしてもらって、もう少しだけ文字を大きくしてほしいと思います。なお、十国台近くには「出世地蔵」という地蔵石仏があるとのことで目を凝らして運転していましたがついぞ見つけることができませんでした、無念。料金所でもらうパンフには三体地蔵や出世地蔵も見どころと記載されていますが小さい見取図で、あまり現地に行くための参考にはなりません。森林環境を損なわない範囲で結構ですので何とか最低そこに行けるように地図や案内表示だけはしっかりしてほしいところです。ま、これも石造マニアのわがままでしたかね。関係者の方にはどうかお許しを。

 

千日不断華の修行について、少し判明しました。不動明王、観音菩薩、地蔵菩薩などの諸尊に千日間にわたって花を供える修験道的色彩の強い行法で、「当行」と称されるものだそうです。

東大寺には平安時代前期、真言密教が導入されましたが、こうした密教的山岳修行が行なわれるようになったのは、醍醐寺の開祖であるかの理源大師聖宝によるところが大きいとのことです。なお、最近は行なわれなくなっているそうです。


奈良県 奈良市春日野町 洞の地蔵石仏並びに仏頭石

2011-09-29 00:19:08 | 奈良県

奈良県 奈良市春日野町 洞の地蔵石仏並びに仏頭石

奈良県新公会堂の前を過ぎて春日大社の神苑を西に進み、若草山と春日山に挟まれた谷から流れる水谷川(みやがわと読む)を遡っていくとやがて道路は未舗装になり、04_5さらに少し歩けば道路の北側に、「天然記念物春日山原始林」と刻まれた大きい石柱が立てられている。01その奥、道から山側に15mばかり入った斜面上の木立の下にあるのが洞の地蔵と仏頭石である。どちらも古くから知られた著名な石仏で、北東側に立つ石柱状の方が仏頭石、その南西側に横たわる平らな自然石に刻まれたのが地蔵石仏で、両者の間に高さ約50cm程の小型の地蔵石仏2体がある。付近は紅葉の名所として知られるが石仏は忘れられたようにひっそりと佇み、周囲は木柵と金網で囲まれて保護されているがそれも朽ち果てつつある。

「洞の仏頭石」は現状高約109cm、下端は地表下に埋まって確認できないが、さほど深く埋まってはいないようである。04花崗岩の六角柱の上端に仏頭を丸彫りし、こけしのように見える特異な形状を示す。あるいは石幢の一種と考えるべきかもしれない。柱部分側面は現状高約69cm、横幅約20cm。各面とも下端近くに水平方向に一条の線を陰刻し、その上に蹲踞し対向する一対の狛犬を線刻する。しったがって狛犬は6対、合計12体になる。春日大社の神苑という場所も考慮すれば、この狛犬は神仏習合を示唆するものと考えていいかもしれない。さらに狛犬に守護されるように円光背を伴った観音菩薩像をその上に薄肉彫りで表現する。05_3観音像は各面ごとに異なり、正面から左回りに十一面、准胝、如意輪、聖、千手、馬頭の六観音像とされている。立膝をついて座る如意輪観音以外は蓮華座上の立像で、像高約35cm内外。如意輪観音像だけは蓮華座の下に波紋のような複雑な凹凸が表現される。やや表面に風化が見られるものの、いずれも温雅な面相でプロポーションも悪くない。六観音は六地蔵と同様に六道輪廻の衆生を救うとされ、それぞれ地獄道=聖観音、餓鬼道=千手観音、畜生道=馬頭観音、修羅道=十一面観音、人道=准胝観音、天道=如意輪観音とそれぞれ受け持つ世界が決まっている。02准胝観音を採用するのは真言系で天台系では不空羂索観音がこれに代わるという。正面十一面観音像の向かって右に「□仙権大僧都覚遍木食」左に「永正十七年(1520年)庚辰二月日」、准胝観音像の向かって右下方に「円空上人」と陰刻銘がある。07肉眼でも部分的に判読できる。「木食」とあるのは穀断ち戒を守る「木食上人」のことと思われ真言系の修験者の関与を示唆するものとして注目される。上端の仏頭は肉髻のある如来形で完全な丸彫り。螺髪の一つひとつを刻出し、額には白毫がある。頸部の三道までが表現されている。やや角ばり平板な面相はお鼻がにえつまって表情も硬い感じであまり眉目秀麗とは言えない。観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍であり、六道抜苦救済の延長には欣求浄土があると考えられることから一説に阿弥陀如来とされるが、頭部だけでは判断できない。三道の下、胸元に当たる場所に約19cm×約3.5cm、深さ内側で約5cm、外側で約2cmの溝が彫ってあり何かを載せたりするための造作とも思われるが不詳。一般的に石造物の没個性化や粗製化が蔓延する室町時代中期にあって、六角柱に六観音、狛犬を配し、丸彫りの仏頭を頂く類例のない独創的な造形と凝った意匠は特筆すべきものである。01_2

一方、横たわる地蔵石仏は「洞の地蔵」と称される。03_2安山岩の一種で三笠山付近に産出する在地の石材である「カナンボ石」の板状の自然石の表面に地蔵菩薩立像を薄肉彫りする。石材の長径は約135cm、最大幅約57cm、厚さ約20cm。像高は約77cmで頭光背、身光背を負い蓮華座上に立つ。蓮華座は斜め上から見たようなデザインで、蓮弁が反花状になっている点は珍しい。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の姿で、胸元には瓔珞が表現され錫杖頭も大きく細密に描かれている。02_3面相は目鼻立ちが大振りで温雅な中に厳しさを秘める。特に浅く彫り沈められた切れ長の眼が印象深い。衣文表現も的確で、肩幅が広く手足が大きいので力強い迫力があり、意匠表現全体に伸びやさや奔放さが感じられる。

像容の向かって右、身光背部分に「建長六年(1254年)八月日」、左側は光背の外に「勧人多門丸」と比較的大きい文字で印刻されているのが肉眼でも容易に判読できる。「勧人」は勧進者の意味と考えられている。07_2足元向かって右側の周縁部に若干の欠損があるようだが硬質の石材のせいもあって表面の風化は少なく保存状態は良好。作風も優秀で、13世紀中葉、鎌倉時代中期の紀年銘が貴重。奈良市街近辺の在銘の地蔵石仏では平安後期の春日山石窟仏を除くと最古のものである。05_4

なお、現在は横たえてあるが古い写真を見るときちんと立っている。下端が細く不安定な形状なので倒れやすいが、本来は地面に差し込むようにして立っていたのであろう。あるいは龕を伴うことによって安定を図っていた可能性もあるかもしれない。

元々原位置を保つものではないらしく、仏頭石とともに付近から移されてきたとのことであるが不詳。それでもあまり遠くない場所にあったと思われる。

 

参考:川勝政太郎『日本の石仏』

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸・辰巳旭『美の石仏』

   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

 

 今更小生が紹介するのもおこがましい古くから知られる著名な石仏ですが、若草山まで来てこれに触れないわけにはいきませんのでいちおうご登場の運びとなりました。

 六観音は次第に六地蔵に取って代わられてしまうので例が少なく珍しいものです。春日大社の本地仏や興福寺南円堂、さらには東大寺三月堂本尊のことを思うと准胝観音でなく不空牽索観音でもよさそうな気がしますが意外や天台系で採用するんですね。地蔵さんは素晴らしいの一言です。伸びやかで迫力があります。

 

法量数値、寸法をコンベクスによる実地略測値に改めました。H23/9/30

コンベクスで採寸すると従前から言われている数値より2~3cm程大きいようです。何故でしょうか。先学は拓本から測定値を出したので乾いて縮んだ分小さくなったのでしょうか?小生の測り方に問題があるのかもしれませんが念のため確かめてみることも大切だと思います。石の凹凸だけでも数mmの違いは当然あります。対象の大きさにもよりますが精緻な実測図を作るための測定でなければだいたい1cm以下の違いは誤差の範疇としてよいと考えています。まぁ、いつも申し上げているように所詮コンベクス略測ですので、多少の誤差はお許しください。

そういえば「木食(木喰)」、「円空」は江戸時代の有名な仏彫家の呼称、こっちは永正ですから関係はありませんが、偶然とはいえ面白いことです。


奈良県 奈良市春日野町 若草山地蔵石仏

2011-09-24 17:29:07 | 奈良県

奈良県 奈良市春日野町 若草山地蔵石仏

若草山の山麓、土産物店の並ぶ道から少し東に入った場所にある。01(若草山の入山料を支払わないと近くには行けない。02_2南側の入山口からすぐ東の木立の下に見える。)高さ、幅とも3m余の岩塊の平滑な西側面に地蔵菩薩立像を線刻する。像高約183cm。「カナンボ石」と称される安山岩の石材は、三笠山周辺に普遍的に見られるため「三笠安山岩」と呼ばれる。硬くきめが細かいが打撃には脆いところがあり、古来奈良近辺では古い寺院の礎石などの石材として利用されてきたものである。真新しい割面は滑らかで鮮やかな黒色だが表面が風化するとざらついた茶褐色になる。同じ安山岩で石器の材料となったサヌカイトにちょっと似ているがあれ程は緻密でない。線刻の跡が黒々としているのはそうした岩質のためで、観察には好都合である。

像容は蓮華座に立つ真正面を向いた声聞形の地蔵菩薩像である。胸前に上げた右手は錫杖を執らず人差指と親指で輪を作る。左手はみぞおち辺りで横にして中指を曲げ親指の先にあてて輪を作っているように見える。05あるいは曲げた中指と見たのは掌にある宝珠かもしれない。07_308錫杖を持たないこの印相の地蔵菩薩像は矢田寺式の地蔵とも呼ばれる。矢田寺(金剛山寺)の本尊と同じ形であることからこのように呼ばれる。指で輪を作る印相は阿弥陀如来の来迎印と同じで、地蔵と阿弥陀の両性を具有する像容と考えられる。地蔵菩薩に引接され阿弥陀如来の西方浄土に迎えられたいと願う信仰の現れなのだろうか。像容表現に優れ、蓮華座の形状も概ね整い、均整のとれた体躯、重なり合う衣文表現は極めて写実的で、端正な面相とあいまって洗練された絵画的な趣きを示している。一方でどことなくぎこちなく線に元気がないようにも感じられる。フリーハンドで奔放に描いたというより下絵をトレースしたような感じというと伝わりやすいかもしれない。また、光背が表現されていない点も迫力が感じられない一因と思われる。

像容の左右に造立銘がある。向かって右側に「天文十九年(1550年)庚六月日好淵敬白/南無春日大明神」、左側に「奉造立供養地蔵菩薩/勧進衆等乃至普利」と達筆な書体で陰刻されているのが肉眼でも確認できる。03_2春日大社の主祭神のひとつ天児屋根命の本地仏が地蔵菩薩であることから、春日明神を供養するための作善で、好淵という法名の人物が関わり勧進の手法により造立されたことが知られる。地蔵、阿弥陀そして春日明神への信仰が混然一体となって少々複雑な様相を呈する神仏習合のひとつの現れであろう。

04_2石造物も粗製乱造の時代と言える室町時代も後半の作であるが、流石に藤原氏の氏神、春日大社のお膝元にふさわしい洗練された典雅な表現で、この時代の一般的な石仏とは明らかに一線を画する優れた作品と言えよう。恐らく石工のフリーハンドではなく絵師の描いた下絵を元に丁寧に鏨を当てていったであろうと推測される。作風優秀で造立紀年銘が貴重ではあるが、こういうケースでは蓮華座の形状、衣文の表現など一般的な石造物の様式観はそのまま当てはまりにくいだろう。

また、岩塊の向かって右側面にも「南無阿弥陀佛」の六字名号が陰刻されており気になるが、筆致がやや拙く恐らく後刻と思われる。さらに背面には支えになるようにしてふたまわりほど小さい石があり、そこにも刻銘があるがこれは新しいものである。倒れていたものを立て直した際の記念か何かであろうか、詳しくは後考を俟ちたい。

なお、"元の木阿弥"の逸話で有名な筒井順昭が亡くなったのがちょうど天文19年の6月であるが何か関連があるのだろうか。

 

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

      清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

 

写真左下:写真では今ひとつ伝わりませんが若草山の鮮やかな芝の緑をバックにした素晴らしいロケーションです。写真右中:刻銘、肉眼でもぜんぜんいけます。右下:後ろから見たところはこんな感じです。画面左手の小さい石にも刻銘があります。

 

自由奔放な表現と対極にある没個性的で型にはまった表現がちょうどこういうお顔なのかもしれません。同じように写実的な地蔵像でも、程近い場所にある鎌倉中期の"洞の地蔵"のお顔と比べると、端正ですが何というか覇気、迫力がない気がします。これは感覚的な印象なのかもしれませんが実物を前にするとわかると思います。実測図や写真、拓本等ではなかなか伝わりにくい感じだと思います。

ただ、こうした「感覚的」なものを「非科学的」と決め付けて一概に排除してしまう風潮はいかがなものかと思います。むろん「客観性」や「合理性」は非常に重要ですが、「モノに対する感受性」というものはやはり養ってしかるべきかと思います。そのために石造美術においては「標準的なものをなるべくたくさん見る」ことだと川勝博士は書かれています。その言葉を胸に精進していきたいと思います、ハイ。


奈良県 奈良市高畑福井町 新薬師寺地蔵十王石仏

2011-06-17 23:51:12 | 奈良県

奈良県 奈良市高畑福井町 新薬師寺地蔵十王石仏

新薬師寺(華厳宗別格本山)は著名な天平寺院であり今更説明の必要はないと思うが、ここには見るべき石造物が多いことを知る拝観者は少ないだろう。01山門を入ってすぐ左側の塀沿いにある吹さらしの覆屋に居並ぶ石仏群に注目して欲しい。天平仏の面影を伝える尊格不詳の如来立像、舟形光背を負った典型的な室町時代の地蔵菩薩立像が2体、鎌倉末期の作風を示す丸彫りに近い厚肉彫りの阿弥陀如来立像は作風が尼ヶ辻の阿弥陀像にそっくりでこれを模したものかもしれない。01_2このほか室町末期の大きい六字名号碑が2基ある。錚々たる石造美術が居並ぶ中で一際小さいのが今回紹介する地蔵十王石仏である。下端が地面に埋め込まれているが高さは約1m、縦長の丸い光背面を平らに整形し、中央に地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。通常の地蔵像では右手に錫杖を持つことが多いが、胸の辺りに差し上げており、一見すれば施無畏印とも見えるが、よく見ると親指と人差指で輪を作った来迎印である。02左手は大きめの宝珠を胸元に捧げ持つ。この印相はアジサイで著名な大和郡山市の矢田寺(金剛山寺)本尊と同じで、矢田()型の地蔵と呼ばれる。石造でも時々見かけるスタイルで古い地蔵石仏に多い。体部は全体に厚みのある板彫り風に仕上げ、印相部や衣文はやや平板ながら丁重に刻まれる。03_2面相はほとんど摩滅し鼻筋部分だけが残る。やや頭が大きいが撫肩で肘の張った体側線は東山内に見られる鎌倉時代の地蔵石仏の雰囲気を伝える。光背面左右に五体づつ中国風の衣冠姿の立像を平板陽刻風に薄肉彫で表現している。足元に一対、肘の辺りに二対、肩の辺りに二対で計十体、いうまでもなく閻魔王や泰山府君(太山王)などの冥府十王である。さらに地蔵の頭部の左右と頭頂部を取り巻くように蛇行する突帯陽刻があってその突帯の上部にも小さい像容が陽刻されている。向かって左端は馬で、頭頂部をめぐるように4人の人物が右に向かって歩いているように見える。右端は何か判断できないが炎に包まれる釜だという。02_2これらは地獄で獄卒に呵責される人畜を表すものとされる。蛇行する陽刻突帯は三途の川かもしれない。あるいは左の馬を畜生、右の釜らしいのを地獄とし、中央の4人の人物風に見えるのを天、人、餓鬼、阿修羅とみて六道を表すとの説もある。Photo十王を脇侍に配する地蔵石仏は白毫寺、大和郡山城から発見されたものなど大和にはいくつか例があるが、地獄ないし六道の様子を刻むのは独創的で、中世の地蔵信仰のあり方を端的に示すとともに当時の死生観をも凝縮して表現する点でその価値は高い。無銘で造立時期は不詳だが、鎌倉時代後期とされる。平板な衣文表現ややや頭の大きいプロポーションを考慮するとあるいはもう少し新しいかもしれない。

このほか本堂正面にある石灯籠、お寺や神社で見る石灯籠は左右一対になっていることが多いが、対にするのは概ね中世末頃以降になって普及したスタイルで、古い石灯籠は堂宇や社殿の真正面に一基あるのが基本。新薬師寺の石灯籠は古い位置を保っている。ただし竿以上は後補と考えられ、古いのは基礎だけで鎌倉時代中期のものとされている。さらに地蔵堂の裏手には箱仏、双仏石の類がたくさんあり、中に作風優れたものも少なくない。地蔵堂横の凝灰岩の層塔(伝・実忠和尚供養塔)は後補部材が多いが平安後期のものと思われる。また、本堂裏の毘沙門天の石仏町石、長谷寺型観音石仏も見落とせない。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   川勝政太郎『石の奈良』

   太田古朴『大和の石仏鑑賞』

   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

 

写真右上:居並ぶ石仏達、阿弥陀像の量感溢れる体躯、衣文表現は特筆に値します。光背上部の色が違うのは近くの川から上の部分が偶然発見され、ぴったりくっついたとのこと。

左下:奈良時代末の造立とされる如来像、優美なプロポーション、儀軌に基づかない特異な印相や裳裾の窄まり具合など芳山石仏によく似ていると言われてます。右下:自然石の名号碑は永禄11年の紀年銘があり念仏講一結衆敬白と刻まれています。蓮華座の蓮弁の出来はこの時期のものとは思えない優秀なものです。

 

中国の偽経などを元に鎌倉時代初め頃、日本で成立した偽経とされる所謂「地蔵十王経」が伝える恐ろしい地獄の様子、六道輪廻する衆生を救う地蔵菩薩への信仰がこうした地蔵十王石仏の背景になっていると思われます。地獄や六道と地蔵を結びつけた信仰は中世以来今日に至るまで宗派を越えた拡がりと根強さを見せています。地蔵菩薩は最も救われない境遇の者に身を挺して救いの手を差し伸べると言われています。辛く苦しい境遇と同じ目線にまで降りて来て身代わりになってくれる、つまり他の仏様よりも上から目線的でないというのが地蔵さんだと言えるのかなぁ…。無数に残る地蔵石仏には救いを求める祖先達の祈りや思いがこもっていることを忘れてはいけないと思います。この覆屋に居並ぶ石仏群は近年まで地蔵堂(現観音堂)内にあったもので、元はお寺の周辺から集められたものと言われています。赤い前掛けを着け金網フェンスで保護されていたため、詳しく観察することができませんでしたが、最近訪ねたところフェンスは取り除かれ、前掛けも無くなって観察し易くなったのは喜ばしい限りです。もっとも、祖先の信仰や思いを伝える貴重な遺産であることに鑑み、むやみに触ったり擦ったりするのは控えましょう。ちなみにこの地蔵堂(現観音堂)は方一間の小さいお堂ですが鎌倉時代の建物で"蟇股"の素晴らしさにご注目ください。


奈良県 宇陀市室生区大野 大野寺尊勝曼荼羅種子磨崖仏

2011-02-13 11:18:44 | 奈良県

奈良県 宇陀市室生区大野 大野寺尊勝曼荼羅種子磨崖仏

近鉄室生口大野駅の南方約400m、宇陀川の右岸、川岸にそそり立つ高さ約30mの溶結凝灰岩の岩壁面に有名な大野寺弥勒大磨崖仏がある。鎌倉時代初期、01興福寺雅縁僧正のプロデュースにより、宋人石工らの手で刻まれたと伝えられ、元弘の乱で焼失し今は痕跡をとどめるだけの笠置寺本尊の姿を写したものとされる。後鳥羽上皇の臨幸を仰いで承元3年(1209年)に竣工したと伝えられる。03総高約13.6mの壺型の光背型を深く彫り沈め、内側を平滑に仕上げて像高約11.5mもある優美な弥勒如来の立像を線刻する。自然豊かな周囲の景観とよくマッチして、石造ファンならずとも一見の価値がある全国でも屈指の磨崖仏である。この弥勒大磨崖仏は諸書に取り上げられている著名な観光スポットでもあるので、ここではこれ以上詳しくは述べない。

今回は大磨崖仏の足元、向かって左側約5mばかり離れた壁面に刻まれた種子曼荼羅について紹介したい。ほぼ垂直に切り立った岩壁面は、縦約4m、横約3mほどの範囲がほぼ平らになっており、その中央に径約2.2mの大月輪円相を浅く彫り沈めて、大円相内には中央に一つ、その周囲に八つの小月輪を線刻する。各小月輪内には優美な蓮華座を細く線刻し、それに乗る種子を月輪内いっぱいに大きく薬研彫している。中央の小月輪は一際大きく、主尊である金剛界大日如来の種子「バン」を配する。文字は太く端正で、雄渾なタッチと彫りのシャープさが相まって実に見事なものである。大日如来を囲む周囲の種子は、八大仏頂尊のものとされる。06_2仏頂尊とは、仏の頂相(つまり頭のてっぺん、肉髻の部分)を尊格化したもので、極めて密教的な概念仏である。八大仏頂尊の種子も、大日如来同様どれも雄渾でシャープな彫整が際立つものだが、類例の少ない珍しい梵字なので判読は意外に手強い。先学の書物でも一つひとつを解説したものをこれまで知らない。空点に大きい仰月点を備えたものが多く、真上から時計周りに「キリーン」(光聚仏頂)、「シロン」(発生仏頂)、「ラン」(白傘蓋仏頂)、「シャン」(勝仏頂)、「コロン」(尊勝仏頂)、「トロン」(広生仏頂)、「シリー」(最勝仏頂)、「ウン」(無辺声仏頂)と仮に読んでおきたい。また、大月輪の下方向かって左下には三角形、右下に半月形の彫り沈めを設けて、三角形の内側に不動明王の種子「カーン」を、半月形の中に降三世明王の種子「ウーン」を薬研彫で表している。どちらもその文字は大きく、彫り沈めの内側に収まりきれないで若干外にはみ出している。さらに、大月輪の上方には、左右とも同じように浅く彫り沈めた三つの小さい円相を三弁宝珠のような位置関係に配置し、内に「ロー」(須陀会天≒飛天)の種子を都合六つ、薬研彫している。

尊勝曼荼羅は、別尊曼荼羅の一種で、息災・増益に高い効験が期待され、平安時代以来絶大な信仰を集めた「尊勝陀羅尼」の根源につながる曼荼羅で、密教の加持祈祷修法の本尊として描かれてきた。善無畏訳の二巻軌と不空訳の一巻軌の少なくとも二種類の典拠があるとされるがメジャーだったのは前者だという。典拠により詳細部分には不統一なところがあるようだが、主尊は大日如来、その周囲八方を八大仏頂尊が囲み、下方手前に不動、降三世の明王が並び、上方左右に須陀会天が飛ぶ。さらに上方中央に天蓋、下方手前中央に香炉を配するのだそうで、天蓋や香炉までは確認できないが、この磨崖種子の構図は、まさにこの尊勝曼荼羅のスタイルに相違なく、石造ではあまり類例のない特殊な事例として注目される。

絵画の別尊曼荼羅は、密教の世界観を表した金・胎の両部曼荼羅と異なり、特定の目的(息災・増益等)のもとに行われる修法の本尊として作成され、その修法が終わればその役割も終る。04_2修法後の扱われ方はよくわかっていないが、大切に保管され今日に伝わることから、同様の修法の際等に再利用された可能性もあったかもしれない。しかし、その使用は基本的に即時的・一時的であって、反復継続して用いられる前提のものではないと考えられている。そしてこうした修法は師弟相伝等の秘密性の高いものであったという。こうした性格の別尊曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を、永久性が期待される石という素材で、人々の目に触れやすい川沿いの岩壁に作った意義は何であったのだろうか。弥勒大磨崖仏との教義上の直接的な関連性はないと思われるが、確かなところはわからない。あるいは尊勝曼荼羅、あるいは尊勝陀羅尼の持つ効験を半永久的に弥勒磨崖仏に献じた供養だったのかもしれない。紀年銘はなく、造立時期は不詳とするしかないが、端正で雄渾な種子や蓮弁の様子などから鎌倉時代中期を降らない時期のものと考えられている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿編

   林 温 「別尊曼荼羅」『日本の美術』NO.433

   望月友善 増補版「種子抄」『歴史考古学』第53号

 

対岸の大野寺の境内にしだれ桜が満開になる頃が一番のお薦めシーズンですが、新緑の頃、紅葉の頃も素晴らしいです。弥勒像は1209年に出来たということなので800年前ですね、その間の世の移ろいを微笑みながら眺めておられるわけで、まったく感心します。曼荼羅種子磨崖仏は弥勒像の足元にあるので、あまり目立たず、対岸からは距離もあるので観察には双眼鏡が必要かもしれませんね。小生はたまたま減水時にズボンの裾をまくって渡河を敢行しましたが、川原石は水苔で滑りやすく、転倒するとカメラはパーになりますし、溺れる危険もあり、ハラハラでした。まねはしないでください。何よりご本尊のお膝元ですのでその辺りも心してください。なお、弥勒像は対岸から眺める優美なお姿と違って、真下から見上げるとその壮大さと存在感に圧倒されます。深く彫り沈めた光背の側面には細かいノミ跡が無数にあってその作業のたいへんさを知ることができます。