滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか
常念寺の広い境内は、周囲の林に隔てられ国道沿いの喧騒が嘘のように閑静な佇まいである。山門を入って右手に層塔が立つ。重要美術品指定。褐色がかった花崗岩の石肌が美しい。現在五重、最上部には宝篋印塔の笠以上が載っている。現高約256cm。仮に十三重で復元すれば約5.4mに達するという。石造美術王国近江には層塔もたくさんあるが案外十三重は少ない。可能性からいえば元は七重程度でなかったかと推定する。基礎は側面四方とも輪郭を巻き格狭間を配している。格狭間は、上部花頭がまっすぐで、側線の曲線もスムーズで、整った形状を示す。基礎自体はやや背が高めである。格狭間内は素面。背面には後世に破壊を試みた鏨の痕と思われる穴が痛ましく並んでいる。塔身は三方に陰刻蓮華座を配し舟形背光型に彫りくぼめた中に如来坐像を半肉彫している。金剛界四仏と思われる。像容は端麗で優れた彫成を示す。背面のみは蓮華座上の月輪を線刻してキリークを薬研彫している。文字は大きくないが書体は端正で優れている。この背面の月輪左右に各一行の刻銘があり、右側に「正応元年(1288年)戊子六月五日」の紀年銘があるというが肉眼では判読できない。笠は軸部一体式で総じて軒は厚く、重厚感のある軒反を見せるが上端に比較して下端の反りが緩い。下層軸部とも接面を観察すると四層目の笠裏中央には方形の彫りくぼめがあり、さらにその内側に丸い穴が穿たれているようである。さらに五層目の笠裏にも丸い穴があるのがわかる。穴の外縁が下層軸部から少しはみ出ているので当初からの奉籠穴というより手水鉢等に転用されていた可能性が高いと思われる。また、一層目と二層目以上の逓減観が異なる。基礎は塔身や一層目の笠幅に比較して小さ過ぎ本来一具のものではなく宝塔の基礎とみるべきとの説がある。宝塔基礎説(卯田明氏)に対し、田岡香逸氏は「構造形式が一致するので当初からのもの」とし、「おそらく、層塔の基礎の側面は素面が本格であり、普遍的であることからこのように断定したもので、輪郭は格狭間入や、さらには近江式装飾文を配するものが多い近江の特殊性を理解していない」誤解と断じて卯田説を否定されているが、その論旨こそ一方的憶測に他ならず説得力に欠ける。田岡氏のいうように「構造形式」が一致していたとしても、各部の大きさのバランスという大前提を抜きに論じることはできないと思う。小生は卯田氏の著作を読んでいないが、宝塔の基礎である可能性も否定することはできないと思う。四、五層目が転用されていた可能性があることなども考慮すれば、倒壊しバラバラ状態であったものが寄せ集め的に再構築された蓋然性が高い。基礎を除く笠と塔身については、脱落欠損した笠部があるにせよ石材の質感や風化度、大きさのバランスなどから一具のものと考えてよいだろう。なお、頂部には宝篋印塔の笠と相輪が載せてある。宝篋印塔の笠と相輪が一具のものかどうか不明だが、大きさの釣合いは取れている。隅飾は外傾が目立つ二弧輪郭付で、茨の位置が低い。上6段下2段、相輪は九輪の逓減が目立つもので下請花は複弁、上は単弁のようである。隅飾や相輪の形状から14世紀後半を遡るものではないと思われる。異形一茎蓮を配する石塔基礎、室町後期の宝篋印塔など常念寺境内には他にも石造美術が多く残されているが、とりわけ本堂左手の井戸の傍らで手水鉢になっている石塔の基礎が注目される。一側面が完全に縦断切断されており、その左右の面は不完全で切除面の対面側だけが原型を残す状態で、一面は井戸枠に接し確認できない。原型をとどめる一側面は素面で、判読は難しいが8行程の刻銘があるのが肉眼でも確認できる。田岡氏は寛元元年(1243年)と判読されている。井戸枠に接する面の対面には輪郭を巻き立派な格狭間を大きく配している。格狭間の彫りは浅く、上部中央花頭を広くとってほぼ水平のまま二小弧を左右隅に寄せ、側線の豊かでスムーズな曲線には雄大感がある。脚部はきわめて短く脚間を広くとる。輪郭の幅は狭い。同じく寛元銘のある近江八幡市安養寺跡層塔の基礎は、格狭間内に近江式装飾文様を有するが、この点を除くと、狭い輪郭、雄大な格狭間と、その手法にあい通ずるところがある。格狭間面現状の中央上寄りに排水穴が開けられ、彫りくぼめられた上端の水貯穴につながっている。高さ49cm、幅約71cm。正応銘の層塔の基礎にしては小さすぎサイズが合わないが層塔か宝塔の基礎であろう。鎌倉中期の層塔の基礎にしてはやや小ぶりなので、どちらかといえば宝塔の方が可能性は高いと思う。
寛元銘基礎が宝塔だった場合は、田岡氏の紹介により近江最古銘の石造宝塔として広く知られることになった建長3年銘の大吉寺宝塔に先んじることなり、残欠ながら極めて注目すべき遺品ということができるが、田岡氏はそっけなく層塔基礎として宝塔基礎としての可能性について特に言及されていない点は不審というほかない。なお、寛元頃は我国石造宝篋印塔の初現期間もない頃で、近江では続く江竜寺跡宝篋印塔基礎の弘安2年まで30年以上間隔があり、あまりに古過ぎることから宝篋印塔の可能性は極めて低い。
写真上:基礎の相対的な小ささがおわかりでしょう。アンバランス感が強いと思う。
写真中:笠裏の大きい円穴がすき間からわずかに覗いています。
写真下:写真右側の側面に刻銘があります。刻銘の対面は縦にカットされています。
参考
田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(前)」『民俗文化』 114号
田岡香逸 「近江野洲町・中主町の石造美術(後)」『民俗文化』 115号