石造美術紀行

石造美術の探訪記

「石造美術」という言葉について(その3)

2018-12-16 21:26:09 | 石造美術について

「石造美術」誕生秘話
 『言語生活』158号に掲載されたコラムの後半は「石造美術」という言葉が辞書に載った話です。
 終戦直後、川勝博士は、友人であった美術史の土居次義博士(19061991)が当時課長をしていた京都市文化課の事業として計画された京都
書の一冊として『石造美術と京都』を著されました。これは後の名著『京都の石造美術』につながっていく著書です。円山公園の料亭「左阿弥」(当時は六阿弥と呼ばれる安養寺の子院だった)で催された打合せに集まった、執筆担当の老大家や中堅どころに混じって言語学者の新村出博士(18761967)がいて挨拶すると、「川勝君、石造美術という言葉はどういうことですか」と問われて説明すると、新村博士はノートに書き留められた。新村博士は当時辞典を編集しており、その材料にするとのこと。その後、昭和24年3月、新村博士編で『言林』が発行され「石塔石灯籠などの美術的鑑賞の価値あるもの」されたのが、辞書に載った最初であったといいます。その後出た『広辞苑』にもそのまま出ていたとのことです。新村博士の「美術的鑑賞の価値あるもの」というのは、川勝博士のお考えとちょっとズレてなくもないように思いますが、川勝博士は「私としてはまことに光栄に感じないではいられない」と述べるにとどめています。とにかく、権威ある辞典に載って社会的に広く認知されることに重要な意義があると考えられたのではないでしょうか。石造美術、石造物を学ぶ人は、ただ『広辞苑』の記述を鵜呑みにするのではなく、こうしたエピソードがあったことを知っておくべきではないかと小生などは思ってしまいます(と言いつつ最新版の『広辞苑』を確認してない小生です…コラ!)。ちなみに新村博士は、天沼博士とは同い年、『広辞苑』のイメージが強いですが、言語文化史にも造詣が深く、同じ京都帝大で考古学の濱田青陵教授(18811938)のカフェ・アーケオロジーのメンバーだったそうです。
 最後に印象深い川勝博士の次の言葉を抜粋します。「戦後、文化財という言葉が生まれ、近頃は石造文化財という人もある。なるほどいい言葉だと思う。昭和八年に文化財の言葉があったら、私もそうしたかもしれない。しかし、私には石造美術という言葉を使って来た長い年月にからむ愛着もあり、これを使う学者研究者も多い。石造文化財よりも暖かみのある言葉だとひそかに思ってもいる。私の仕事は歴史考古学と美術史にわたる。できるだけ関係の学問を広くとり入れて、偏頗にならぬようにしたいというのが、私の方針である」(合掌)
 間もなく川勝政太郎博士の命日です。「石造美術」という言葉は次第に使われなくなりつつありますが、石造研究は今も熱心な人々によって脈々と続いています。川勝博士そして石造美術よ永遠なれ!と空に向かって叫びたい小生であります。『言語生活』の記事をご教示いただいた先達N氏に感謝いたします。


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