京都府 相楽郡和束町湯船 湯船熊野神社跡宝篋印塔
和束町の東に位置する湯船は和束川沿いの山深い場所である。信楽方向に抜ける道路を進み湯船の五ノ瀬地区にさしかかると北側の山手に樹齢数百年はあろう杉と銀杏の巨木が並んで聳えているのが目に入る。その巨木を目途に道路から少し北に歩いていくと広場があり中央に不動明王を祀る小堂が建っている。ここは熊野神社の故地で、広場の東寄りに石積みの区画と神社跡を示す石碑が残る。広場の東端、巨木の根元近くに立派な宝篋印塔が建っているのがすぐにわかる。早くから知られた著名な宝篋印塔で諸書に紹介されている。石積み基壇の上にあるがこれは新しくしつらえたもので、塔の基礎は基壇上端にコンクリートで固着されている。台座や古い元々の基壇らしきものは見当たらない。当初の相輪を失って後補のものが載せてある。笠上までの現存塔高は約139cm、元は七尺塔であろう。花崗岩製。基礎は上二段で各側面とも素面、幅約65cm、高さ約45.5cm、側面高は約36cm、段形上端の幅は約42cmである。基礎西側の側面に陰刻銘があり、「弘安十年(1287年)/丁亥八月/二日願主/佐伯包光」と四行にわたり刻まれているのが肉眼でも何とか確認できる。銘の彫りは浅いが文字は大ぶりで筆致も力強い。このように銘の文字を割合大きく刻むのは鎌倉中期に遡るような事例にまま見られる古い手法とされる。塔身は幅約37cm、高さ約38.5cm、わずかに高さが勝る。各側面には径約31cmの月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫りする。種子は力強いタッチで雄渾に表現される。四仏の現状方位は正しく、西側キリーク面は他の面に比べるとやや摩滅が激しい。笠は上六段、下二段の通有のもので、軒幅約63.5cm、高さ約52cm、軒の厚みは約7.5cm、軒と区別して少し内に入ってから立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で基底部幅約15cm、高さ約19cmである。素面の輪郭内は平板にせず中央に少しふくらみを持たせている。側面素面で段形式の基礎、雄渾な塔身の種子、内側が素面の二弧輪郭の隅飾といった特長は大和系の宝篋印塔に多くみられ、南山城にあって峠のすぐ向こうは近江信楽であるこの地の石造物に大和の影響が及んでいたことを示す事例と考えられている。二弧輪郭の隅飾を持つ在銘の宝篋印塔では最も古い例で、隅飾の二弧輪郭が少なくとも13世紀後半に遡ることを示している。
北側に近接してもう1基、ほぼ同規模の宝篋印塔がある。基礎と笠だけの残欠で笠の隅飾は全て欠損している。表面の劣化も激しいので火中した可能性もある。花崗岩製で基礎は上二段、幅約65cm、高さ約50cm、側面高は約38cm、各側面とも素面。笠は特に破損が激しく、段形上部は原型をとどめないが、元は上六段、下二段であったと思われる。軒幅約63cm、現状高約44cm、軒の厚さ約7.5cmである。笠の上には五輪塔の部材が重ねて載せられている。わずかに残る西南側隅飾突起の基底部から、本来は軒から少し内に入ってから立ち上がり、輪郭を巻いていたことが推定される。基礎の二面には陰刻銘があるらしく一面は「正応四□/五月十日/願主□□/山村氏女/大工行長」、もう一面は「□□阿□/□□□□/東塔一□/西塔一□」とのことである。風化摩滅が進み、現在はかすかに文字の痕跡らしいものが認められる程度である。正応4年は1291年。「大工行長」とあるのは、長野県飯田市、文永寺にある五輪塔を覆う石室(弘安六年(1283年)銘)に名を刻む「南都大工菅原行長」と同一人物と推定されており非常に興味深い。また、「行」は伊派石工名によく用いられる文字であり、伊派の通字とも考えられることから菅原行長と伊派石工との関連も考慮すべきかもしれない。ただし、吉野鳳閣寺宝塔などの作者として知られる名工「伊行長」の活躍時期は14世紀中葉から後半頃で、その間約百年弱の隔たりがあり別人である。生駒付近の石造物に名を残す13世紀末~14世紀初頃に活躍した「伊行氏」と永享二年(1430年)銘の奈良市霊巌院の弥陀三尊石仏龕にある「大工行氏」も別人であり、2代目、3代目のような名乗りがあったのか、伊派の始祖である伊行末にちなんでか単に「行」が石工名によく用いられる文字だったのか、そのあたりの真相はわからない。
二基の宝篋印塔に加え、周囲には火輪や水輪を礎石や手水鉢に加工した中型の五輪塔の残欠があり、山深いこの場所にかなり有力な寺院があってこうした石塔が林立していたであろうことは想像に難くない。その背景にはこの地が近江と南山城、大和を結ぶ交通路であったことも考慮しておかなければならないだろう。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』
川勝政太郎 新版『石造美術』
田岡香逸 「近江石造美術の源流―南山城和束町と加茂町の石造美術―」『民俗文化』147号
文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。
それにしても格狭間や蓮弁などの装飾は見られず、質実剛健というか、実にシンプルな意匠の塔ですが各段形の彫成は鋭く精緻で造形に力がこもっているように感じられます。こうした印象は拓本や実測図ではなかなか伝わりにくいものですが、現地で実物を間近に見れば容易に体感できると思います。後補の新しい相輪はちょっとへんてこでいけません。それと新しい基壇ごと巨木の根に押されて少し傾いてきているのが気になります。
初めてこの宝篋印塔を見たのはもう5年以上前になりますが、残雪の残る寒い冬の日で、五ノ瀬という以外に詳しい場所がわからず、あてずっぽうに霜柱を踏みながらうろうろと歩いて、巨木の下で静かに建っている姿を見付けた時の印象は忘れえないものがあります。
ここ和束町は南山城でも山深い僻遠の感のある別天地ですが、この湯船塔の他にも、金胎寺宝篋印塔、撰原峠地蔵石仏、白栖磨崖仏など釈迦入滅2千何年というような銘のある鎌倉時代の石造があって注目すべきところです。そういえば、正元元年銘の生駒市輿山往生院の宝篋印塔もそうでしたよね、これらの石造の謎を紐解くきっかけが見え隠れする気がします…。