奈良県 山辺郡山添村松尾 一本松庚申板碑
県道80号、奈良名張線の室津バス停の南方直線距離にして約350mの山中にある。室津との境界線に当たる水間から松尾へ通じる間道脇の木立の中にひっそりと佇む。北面して現状地上高約71cm。幅約29.5cm。石材は花崗岩と思われる。大和でよく見かけるスタイルの板碑で、背面は粗整形のままで上端を山形に整形し、山形部分の正面に径約13.5cmの線刻の円相月輪を描き、内にキリークを大きく陰刻する。その下には中央に稜を持たせた幅約7cmの二重の切込部分を作る。切込といっても縦断面が逆三角にはならずに単なる二重の鉢巻状の突帯である。ただし、中央に稜を設けるのは大和の板碑に多い特長で留意しておきたい。下端は地面に埋まって確認できないが、下方は碑面より2cm程厚く厚みを残したままにしており、地面に埋けこんだものと思われる。
碑面は丁寧に平ら整形している。碑面中央に約40.5cm×12cmの長方形に彫沈めを設け、内に「奉供養庚申待結願」の陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。輪郭の束部分にも刻銘があり、向かって右に「弘治元年乙卯」、左に「潤十月廿九日結衆各敬白」の陰刻文字が見られる。弘治元年は西暦1555年。毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いがあった年で、閏10月29日はちょうど茶人武野紹鴎が亡くなったその日に当たる。その時期、戦国時代まっただ中の東山中における地域信仰の所産であり、大和最古とされる庚申待信仰を示す銘文が貴重である。
所謂「庚申さん」は、近世以降は青面金剛を本尊とすることが多いが、本例はキリーク(阿弥陀)を本尊とすることから、浄土信仰と密接に関係していたことを示すと思われ、あるいはこの頃の庚申待ちは念仏講のようなものを母体としていたのかもしれない。
庚申板碑の向かって左側には自然石に五輪塔を平板に刻んだ自然石塔婆がある。石材は花崗岩か花崗片麻岩と思われ、現状地上高約60cm。平らな正面に高さ約40cmの舟形光背形を線刻し、舟形内いっぱいに五輪塔形を刻出する。五輪塔のアウトラインを浮き出させるように舟形の内側の最小限度の範囲だけを彫り込んだような手法で、手間を抑えた効率化の進んだ上手なやり方といえる(が、悪く言えば手抜き)。江戸時代初め頃のもので、空風輪から水輪にかけてキャ・カ・ラ・バ・アの梵字を陰刻し、水輪の下方に線刻の蓮華座を描いているのは珍しい手法。花托を表現したと思われる曲線の意匠が面白く蓮弁の形状もこの時期にすれば優れている。地輪部に三行の陰刻銘が見られる。向かって右から「慶□四年」「行泉大得」「正月九日」のように読んだ。慶長と見たが慶安だったかもしれない。「大得」は「大徳」のつもりなのだろうか。
周囲には特に何もない寂しい場所であるが、なぜこの場所にこうした石造物が残されているのかは定かでない。原位置を保っているのかどうかもわからないが、仮に元はよそにあったとしてもそう遠くない場所から運ばれたものだろう。
今でこそ通る人もない間道だが、あるいは往昔には賑いを見せた旧街道なのかもしれない。
参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術
土井 実『奈良県史』第17巻金石文(下)
前から気になっていましたが、ランドマークになるようなものもない山深い場所で、だいたいの見当はついていても、これでは教えてもらわないとちょっと行けません。最近、偶々知り合えたまだお若いのに石仏歴30年以上というすごい御仁にご厄介をおかけしてようやく邂逅できました。この場をお借りして改めて御礼申し上げる次第です。年の瀬の夕暮れ迫るひと時、寂しい場所にひっそりと佇む県内最古とされる庚申板碑と向き合って感じたのは、よくもまぁこんな場所にあるのを最初に見つけた人は偉いなぁということ。つくづく感心します。やはり昔の人はよく歩かれたものなんでしょうね。先人の恩恵に与る有難味を痛感します。いろいろと時間が取りにくくなってきまして気が付けば12月はこれ1件だけ……しょうがない……、来年はもっと頑張ろう。ということで今年はこれでおしまい。皆様、どうか良いお年をお迎えください。