京都府 京都市伏見区 深草薮ノ内町 伏見稲荷大社石灯籠
全国に三万とも四万ともいわれるお稲荷さんの総本宮である伏見稲荷大社は近畿最多の初詣客数を誇り、旧官幣大社に列せられた式内社。東面する本殿の南側、能舞台の手前のちょっとした庭のような一画に立っている石灯籠に注目する参拝者は皆無と言って過言ではない。現高221cm。花崗岩製。古いのは中台以下で、火袋と笠、宝珠は昭和29年に川勝政太郎博士が推定復元・設計され新谷素生氏が施工されたものである。八角型で、基礎の過半は地表下に埋まって確認できないが、川勝政太郎博士の『京都の石造美術』202ページに掲載された写真をみれば、基礎の各側面ごと輪郭を設けて内に大きめの格狭間を入れていることがわかる。基礎の上部は、側面からやや内に入って框状の一段を設け、その上に複弁反花を刻出して基礎上端の竿受座を囲んでいる。竿受座は平面円形で、円柱状の竿を受けている。竿はやや短めで、中節は三筋、上下二筋の穏やかな突帯を巻いている。中台下端の竿受も円形で、中台下は各角に間弁(小花)が来るようにデザインされた大きい単弁の請花で飾り、請花の蓮弁は弁央に稜線を設けて先端には反りを持たせて側面より若干外に出しているように見える。また、中台側面は厚みを押さえて各面とも二区に輪郭を枠取りしている。輪郭内は素面。中台上端面には八角形の一段を設けて火袋の受座としている。中台までの高さは126cm。川勝博士の設計で推定復元された火袋以上も簡単に説明すると、火袋は四方の火口を大きくして間面は扉型とし、上区は二区に連子を側面ごとに縦横交互に配し、下区は一区格狭間とする。笠はやや大きめで蕨手は小さく、上端に低い請花を設けて首部付きの宝珠を受ける。
全体に重厚かつ洗練された意匠表現で、それを損なうことなく後補部分もよく調和している。
肉眼では確認できないが、竿の中節の上に「右造立志/者為沙弥西佛沙弥/尼了妙并/与力衆等/□惠□□/□□□□□」、中節の下には「砂子川事/伏水鍵本文右衛門/□□成法/□□善□/…以下6行…/年正月日」と陰刻銘があるとのこと。このうち「砂子川事伏水鍵本文右衛門」は後刻で、江戸時代の再興時のものらしく、元の銘文を叩き潰してその上から刻んでいるらしい。この砂子川こと鍵本文右衛門については不詳だが、伏見の有力者であろう。このおかげで明治初期の廃仏棄釈の際の撤去されずに済んだとの見方もあるので何が幸いするかわからない。今のところ伏見稲荷大社内で唯一の鎌倉時代に遡る石造物である。年号は鍵本による故意または自然風化で摩滅し確認できないとのこと。おそらく鎌倉時代後期も早い頃のものであろう。川勝博士の『京都の石造美術』によれば、以前は「立っている場所が拝殿の後の石段を上った左手で下からは石の玉垣があり、それが中台から下を隠し、玉垣から上に見える火袋と笠・宝珠は全然問題にならない江戸時代の拙い後補で、その下の中台以下が古いものとは気付きにくい。」とあり、現在の場所に移建されたのは昭和29年以降である。また、『京都古銘聚記』図版第9頁には昭和29年以前の様子を川勝博士が撮影した写真が掲載されている。拙い江戸時代の火袋・笠・宝珠を載せて玉垣の脇の松の木の横に窮屈そうに立っている様子がうかがえ貴重である。笠の蕨手の感じから江戸時代前期頃のものように見受けられる。砂子川こと鍵本文右衛門による再興はその頃かもしれない。この写真の背景から、どうも本殿裏の玉垣のそばのようにも見える。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
〃 『京都の石造美術』
〃・佐々木利三 『京都古銘聚記』
なお、『日本石造美術辞典』では砂子川文右衛門が後刻銘を施したのは明治初期のことのように記されていますが、『京都の石造美術』や『京都古銘聚記』を見る限りそのようには読めません…謎?
一月ももう終りですが商売繁盛でたいへん御目出度い伏見のお稲荷さんから本年一発目スタートです。学生の頃以来久しぶりに参詣しました。広い境内には近世の石灯籠や石鳥居、神狐等さまざまな石造物がたくさん残されていますがぜんぜん古いのは見られず江戸時代以降のものばかりです。まぁこれらはこれでまた面白いのですが…。この石灯籠が鎌倉時代、本殿正面にでんと据えられていたとすれば、かの骨川道賢もこれを見ていたかもしれないですね。
ネット検索でヒットした記事によると、どうやら鍵本文右衛門は、赤穂浪士で有名なあの播州浅野家から、元禄年間に伏見稲荷の近くに移住し商売で成功した人物らしく、巣箱状に加工した瓢箪をたくさん吊るしてスズメを賞翫したということで、昔はかなり有名な風流人だったようです。ただ、代々の名乗りのようなので、石灯籠を再興したのが何時なのかは後考を俟つほかないようです。また、砂子川某というこのあたりで有名な侠客がいたそうですが、彼が活躍したのは明治時代も後半以降で、明治の初めの神仏分離・廃仏棄釈の頃とは時代が合わず関係なさそうです。