石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 葛城市当麻 当麻寺六字名号板碑・手水船

2012-07-25 12:28:03 | 奈良県

奈良県 葛城市当麻 当麻寺六字名号板碑・手水船

奈良時代創建の古刹当麻寺(高野山真言宗、浄土宗)について今更説明の必要はないと思う。01元来の本堂は金堂であるが、中将姫の蓮糸曼荼羅を安置した曼荼羅堂が現在は本堂の役割を果たしている。02この本堂(曼荼羅堂)の向かって右手に地蔵を祭る小祠があり、その脇に見上げるような板碑が立っている。総花崗岩製。高さ2.5m余。やや不整形な複弁反花座上を地面に置いて、その上に立てられている。おそらく本体下端に設けた枘を台座の枘穴に差し込んで固定するようになっているのではないかと思われるが確認できない。反花座は平面長方形で、短辺は2葉、長辺には5葉の蓮弁を配し、上端に薄い受座を設けている。受座は碑本体下端の大きさに比してかなり広く作られているが、特に不自然な感じは受けない。一具のものと考えて支障はないだろう。各蓮弁の形状は古い五輪塔の台座などに見られる大和系反花の系統を受け継いでいる覆輪部のある複弁式のものであるが、彫成はかなり平板で意匠表現的には退化傾向がうかがえる。全体に蓮弁の大きさが不揃いで、しまりのない間延びしたような印象を受ける。03また、間弁(小花)も表現されていないように見受けられる。始めから反花座として造形したというより、平べったい自然石の台石の表面に蓮弁を刻出したという方がいいかもしれない。長方形の反花座は石龕仏の台座など時々見かけるが、五輪塔の台座に見るように平面正方形の反花座を見慣れた眼には少し珍しく映る。板碑本体は、先端部を山形に整形し、正面中央に稜を設けて、その下に2段の額部を作る圭頭稜角式と呼ばれる典型的な大和系の板碑で、平らに整形した碑面には輪郭を枠取りして内側を浅く彫り沈め、「南無阿弥陀仏 三界萬霊」を大書陰刻する。六字名号はやや崩し気味の行書風で、「三界萬霊」の四文字は堅実な楷書体としており、書体が異なる。六字名号の功徳を三界の万霊の供養の為に献じようとしたものと思われる。輪郭束部分下方、向かって右側に「大永七年(1527年)丁亥四月八日」左に「願主宗胤敬白」の陰刻銘が認められる。輪郭内の下端には蓮華座が薄肉彫りされており、蓮弁の形状は写実的でよく整い、戦国期の蓮弁としては異色の出来ばえを示す。背面は粗く整形しただけで断面はかまぼこ形を呈する。中央付近、「陀」の文字のあたりで折損したのを上手く接いである。この種の名号板碑は大和では普遍的に見られるが、これ程の大きさのものは稀で、紀年銘とあいまって典型例として注目しておきたい。01_3

 この名号板碑と本堂の間に手水船が置かれている。平面長方形で断面は上端を大きく下端を小さくした台形箱型を呈する。長辺上端幅約150cm、下端幅約140cm、短辺上端幅約100cm、高さ約53cm。02_2花崗岩製。上端面は外周縁に15cm程の厚みを残し内側を長方形に抉り込んで水溜部分を作る。よく見かける手水鉢と特段変ったところはないように見えるが、実はこの種のものの中では我国で最古クラスの在銘遺品なのである。周囲は地面を延石で区画して掘り沈め、内側をセメントで塗り固めて排水を流すよう工夫されている。また、下端面の下には四隅に4個の自然石を置きその上に載せられている。水道管を底から抜いて中央の竜口から給水し、短辺中央に彫り付けた溝からオーバーフローした水が流れ出るようになっている。03_2こうした給排水まわりの造作は近年のものと思われるが、底の貫通孔や上端面の溝は当初からのものを利活用している可能性がある。文様や装飾的な意匠表現を排した質実豪健なコンセプトである。本堂側の長辺側面に陰刻銘があり、鎌倉時代末の造立であることが知られる。「南無阿弥陀仏/奉施入/當麻寺/石手水船壱居/右為二親幽犠往生佛土/兼法界衆生平等利益/又自身決定證大菩提(…この「菩提」の文字は一文字ですがフォントが出ませんので悪しからず…なお、「菩提」ではなく「菩薩」説もありますがこれでは意味が通りませんね…)/施入如件/元徳三年(1331年)辛未/正月日(…三月説もありますが実見した限り正月と見えます…)/大施主僧寂心/尼心妙/大工藤井延清/各敬白」。施主の寂心・心妙という法名のおそらく在俗の夫妻が、この作善行為と南無阿弥陀仏の六字名号の功徳をもって、両親の浄土往生と法界衆生の平等利益、自分自身の得道に繋げようとする願意が述べられている。また、大工名がある点も貴重で、藤井延清について、川勝博士は、『天龍寺造営記』暦応五年(1342年)に「大工石作二人武久、延清」と見える延清と同人であろう、とされている。当時はさぞかし名のある石大工であったのであろうか。

水船とは水を溜める容器で、水盤と呼ぶ場合もある。石造水船は基本的に手洗い用の手水鉢と石風呂の浴槽という2つの用途に種別されることが想定されており、本例は、手洗い用の水船としては屈指の古い在銘品で、体裁の整った銘文も貴重。700年近い歳月を経て今日なお現役で用いられている点は実に驚くべきことである。

 

写真左下:銘文の紀年銘部分のアップですが、ちょっと見えづらいですかね…。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実『奈良県史』第16巻 金石文(上)

   川勝政太郎『石造美術』

    〃  新装版『日本石造美術辞典』

 

小生の大好きな当麻寺は、建築や仏像等それこそ綺羅星のごとき文化財の宝庫です。ここの梵鐘と金堂正面の凝灰岩製の石灯籠はともに無銘ですが、いずれも奈良時代のもので、それぞれ日本最古のものとして著名です。ここではあえてご紹介しませんでしたが当然お忘れなきようご参考までに。


奈良県 奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂弥勒石仏

2012-07-05 21:46:18 | 奈良県

奈良県 奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂弥勒石仏

布目ダム東岸の湖岸道路を腰越から東に折れ、ダム湖に東から流入する支川の南岸の細い道を川沿いにしばらく進むと道の南側、谷間に張り出した尾根の先端部分、道からは少し高い位置に隠れるように佇む石仏がある。01通称「のど地蔵」。05一見して頭頂に肉髻があるのがわかるから如来像であるのは明らかで、地蔵というのは石仏一般に対する通称的な呼び名であろう。「のど」といういのは「野堂」という小字から来ているらしい。かつては人の行き来する古道だったのであろうか。そして、想像を逞しくすれば、この石仏は道沿いの小堂内に祀られ、行き交う旅人や山仕事をする人々が手を合わせて仏の功徳を祈っていたのであろうか。やがてお堂は朽ち果て、忘れ去られたように露天に佇むようになったのかもしれない。草深いこともあって現地にはお堂の存在をうかがわせるような痕跡は確認できないが、そんなことを想像させるような地名である。場所は北野と月ヶ瀬桃香野との町境を桃香野側に越えて間もない辺りになる。02逆に桃香野からであれば北野の奥から高山ダム方面へ抜ける道路から西に折れて茶畑の間を縫うように伸びる起伏のある農道を南西に進んでもたどり着けるがわかりにくい。04いずれにせよ道標等案内も無いので探し当てるには多少の苦労を要する。古い紀年銘が発見され、この石仏の価値が認められるようになったのは、それほど古いことではないようで、このような奥深い谷間の山陰にひっそりと存在していることを考えれば、世に知られず埋もれていたというのも無理からぬことかもしれない。花崗岩をやや厚みのある板状の二重光背形に整形し、平滑に仕上げた光背面の真ん中に如来立像を厚肉彫りする。頭光円の下方は、正面に小さい段を設けて肩先に向かって弧を描いきながらつなげている。石材の下端は厚みを残し、そこに蓮華座があるように見えるが、ちょうど蓮華座上端面以下がセメントで固められ地中に埋まっているので蓮弁は確認できない。背面は粗く整形したままとする。06_2現状地上高約117cm、頭光円の幅約40cm、厚みは厚いところで約21cm。像高は約106.5cm。印相は、右手を肩付近にかかげ、左手は太腿辺りに下ろし、一見施無畏与願印に見えるが、よく見ると左手は親指が内側にあることから手の甲を見せる触地印で、弥勒如来の立像であることがわかる。03肉髻が低めの頭は大き過ぎず、体躯のバランスのとれたすらりとしたプロポーションで、表面の風化が進んでいるが衲衣・衣文の表現が流麗で写実的な趣きがある。特に足元の裳裾の処理の仕方に特長がある。面相部はかなり風化が進んでいるが、やや面長の端正なお顔で、その表情は穏雅である。さらに手先、足先の造形にも抜かりなく、優れた作風を示す。板状に整形された身光背の向かって右側面に、割合に大きい文字で浅く陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。「當来導師弥勒佛建長七年(1255年)…」で最後の方は埋まって見えないが鎌倉時代中期の造立と知られる。当来導師というのは56億7千万年後に都率天での修業を終えこの世に下生して衆生を導くとされる弥勒仏の呼称のひとつである。大和でも屈指の古い在銘品として貴重な存在で、在銘の弥勒石仏としては大和最古のものである。

 

 写真右中:刻銘のある側面部分と背面の様子。右下:足先や裳や袖の裾の処理の仕方にご注目ください。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

   岡本広義『奈良市石造物調査報告書-都祁・月ヶ瀬地区所在指定文化財等石造物-』 奈良市教育委員会

 

大和の東山内付近には建長銘の石仏がいくつか見られます。「奈良建長クラブ」のメンバーのお一人です。どうも場所がわかりにくく行きあぐねていた石仏で、最近斯道の大先輩に教えていただきようやく邂逅できました。自然豊かな別天地、静かで実にのどかな場所にありました。文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。近くに旧月ヶ瀬村時代に立てられた案内看板があります。やや離隔距離をとって見学に支障にならない位置にあるのは有難いことですが、案内文中の銘文の漢字表記に一部不正確なところがあります。また、「快慶の作風」、「伊行末系統の石工」という言葉が踊っています。それも首肯されるだけの卓越した優品であることは間違いありませんし、可能性もゼロではありませんが、石仏自体には快慶や伊行末との関わりを具体的に示すものは何もありませんので、ウーンこれはちょっと言い過ぎかもしれませんね…。