石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)

2017-12-30 23:54:58 | 層塔

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)
 石塔寺は、石塔(いしどう)町集落の北側の丘陵麓にある古刹である。北側の石段を上った丘陵上の石造
層塔は、我が国最古にして最大の三重層塔として古くから著名な存在である。


 花崗岩製で高さ約7.5m。方形の土檀の中央に、無数の五輪塔に
囲まれて悠然と建っている。11世紀初頭の寛弘年間に土中から発見され再建されたと伝えるが、その詳しい場所はわかっていない。
 相輪は後補で、先端には五輪塔の火輪と空風輪のようなものが載せてある。軸部と笠石を別石とし、軒の出が大きい低平な笠石と縦長の軸部が外形的な特長である。鎌倉時代以降に普遍化する軸笠一石づくりの石造層塔とは明らかに一線を画する構造形式である。基礎は大半が埋まって全容が確認できないが、幅は優に2mを超える自然石で、平らな上端部には軸部受の方形の窪みと排水溝の造作が認められる。初層軸部は縦方向に組み合わせた二石からなり、高さ約1.4m。初層笠石は高さ約59㎝に比して幅は約2.5mと幅が広く低平で、軒口は薄く軒反りはほとんどないに等しい程度である。軒口をやや内斜に切っているのは、分厚い軒口を垂直に切る鎌倉時代以降の石塔と異なり見逃してはならない特長である。二層目と三層目の笠石も概ね同じ形状で軒裏には薄く垂木型を表し、中央には方形の塔身受の窪みがある。上端は薄い段を設け、初層と二層目には内側には塔身受の窪みがあるらしい。二層目、三層目の軸部は一石で三層目軸部の中央やや上寄りの南側には方形の穴(目測だいたい20㎝くらい)が見えるが奉籠穴だろうか。
 造立時期について、奈良時代前期説と平安時代後期説がある。今のところ奈良前期説が有力である。朝鮮半島に残される百済系の石造層塔との類似点や、『日本書紀』天智天皇8年(669)にある百済からの渡来人が蒲生郡に移住した記事から、渡来人の子孫によって造立されたとものと考えられている。平安時代説では、手本となったとされる韓国の長蝦里塔の造立が10世紀代まで降るのではないかという点と、平安末期頃の阿育王八万四千塔信仰の高まりや土中から発見された阿育王塔が11世紀初め頃に再建されたという伝承を踏まえた考え方である。いずれにせよ、石塔が定型化する以前の非常に古い石塔であることは疑いがない。重要文化財指定。
 石塔寺についての文献資料として、平安時代末の
『後拾遺往生伝』に「蒲生郡石塔別処…阿育王八万四千塔…」という記述が、同じく『兵範記』に「詣蒲生西郡石塔…」の記述があるというから平安時代末にはこの地に阿育王の石塔信仰があったことは確認される。また、『源平盛衰記』や鎌倉時代前半の紀年銘のある大般若経の識語に、石塔寺あるは石塔院という言葉が確認されているという。鎌倉時代末までに原形ができたとされる『拾芥抄』には「蒲生石塔、阿育王八万四千塔…」の記述があるというから、石塔寺が遅くとも鎌倉時代前半頃には存在したことは疑いない。それが現在の石塔寺と同じ場所にあったかどうか、寺が原位置を保っているならば、遺構や遺物から証明されなければならないが、この点は今一つ明確でない。これはとりもなおさず層塔が原位置を保っているのか移建されているのかという点とも関わる今後の課題である。石塔集落の南方数百mの綺田町には、奈良時代の古代寺院跡が確認されている点は示唆深い。
 軸笠別石の層塔は同じ滋賀県内や京都などにも確認されているが、遡ってもせいぜい平安末期で、規模も小さいものが多い。石塔寺の層塔は規格外のサイズで、外形的な印象も合わせ少々趣きが異なるように思われる。また、
2つの石材を縦方向に継いだやり方は、五個荘金堂馬場の五輪塔地輪(正安2年(1300)在銘)に共通するが、石塔寺の層塔が影響している可能性もある。(続く)

※ たいへんご無沙汰をいたしておりました。ぜんぜん記事UPができない一年でしたが、せめて大晦日までには何か書いておこうという悪あがき、情けない次第です。今更ながらの石塔寺、何度も来ているところですが、休暇を利用して久しぶりに訪れました。暮れも押し迫る平日、晴天の下で貸し切り状態でした。割合に暖かい日で、無数の石塔に囲まれてまったりと石造三昧の午後でした。参考図書は続編にまとめて記載します。


滋賀県 近江八幡市浄土寺町 縁切地蔵石仏及び天神社層塔

2011-07-31 23:58:45 | 層塔

滋賀県 近江八幡市浄土寺町 縁切地蔵石仏及び天神社層塔

湖東平野に横たわる独立山塊である雪野山を東西に貫く雪野山トンネルの西側の坑口の約100m程西側から北に折れて200mほど進むと、西側を流れる日野川の高い堤防が山際に取り付くすぐ北側が天神社という神社の参道になっている。01雪野山から北西に細長く延びる尾根(安吉山と呼ばれている)の南麓にある浄土寺町の集落側から見れば南東のはずれにあたる。02この土手の南側、神社参道側から見て土手のすぐ裏手に杉の巨木が聳えている。その根元に笠石仏が祀られ“縁切地蔵”と呼ばれている。俗世界のしがらみや悪縁を断ち切ってくれるのにご利益があるのだろうか、詳しいことはわからないが周辺はきれいに掃き清められ香華が絶えない様子である。周囲には一石五輪塔や小型の石仏や五輪塔の残欠などが集められている。笠石仏は下端が埋まって確認できないが、宝珠先端までの現状地表高は約160cm。軸部は現状高約110cm、幅約118cmで、最も厚みのある下端付近の厚さ約47cmの平べったい自然石で、その上に別石の笠石と請花宝珠を載せている。地蔵菩薩は西側面に刻まれている。平らな面の中央を高さ約95cm~99cm、幅下方で約62cm、上端で約46cmの縦長のやや不整形な方形に深さ5cm前後の深さに彫りくぼめ、内に蓮弁を線刻した蓮華座上に像高約80cmの立像を半肉彫している。04頭部のまわりには径約30cmの頭光円を線刻している。この円光背の上方は彫りくぼめた枠の外側に少しはみだしており、その分だけ彫りくぼめを拡げているのがおもしろい特長である。03右手には錫杖を執り、左手に宝珠を乗せた通有の印相で、大きい錫杖頭の中は五輪塔2基を縦に並べたような珍しい意匠になっている。彫成は全体に丁寧で、面相の表現に優れ、親しみのもてる円満童顔の表情が印象的である。蓮華座の蓮弁の形状は悪くないが、体側線の描き方や小さい手足の意匠表現には稚拙感が否めず、衲衣や衣文もやや簡潔に過ぎる。石材は花崗斑岩ないし流紋岩と思われ、自然石のままの表面は茶褐色だが像容も含めた彫りくぼの内側の色調は黒っぽい。笠石は花崗岩で間口が広い宝形造で軒幅約69cm、奥行き約47cm、高さは約21cm。軒口の厚みは約6cm、隅で約7cmとさほど重厚感はなく、緩めの軒反にはあまり力がこもっているとはいえない。笠裏は素面で垂木型は見られない。笠石上端は幅約25cm×20cmの平坦面となり、中央に径約8cmの枘穴がある(枘穴は硬くしまった土で埋まっており深さは不詳)。01_2現在笠上に載る請花宝珠は高さ約29cm、やや大き過ぎの感を禁じえない。また、わざわざ枘を少し削って安定を図って置いているので本来のものではない。五輪の梵字が四方に刻まれており五輪塔の空風輪であろう。元はこれよりひとまわり小さい請花宝珠が載せられていたと思われる。02_2造立時期について、清水俊明氏は南北朝時代末期頃と推定されている。小生も概ねそのくらいで大過ないと考えるが、あるいはもう少し新しいかもしれない。表面の風化が少なく像容の遺存状態は良好で、一具と思われる笠石がセットで残っている点も希少価値が高い。なお、自然石に刻まれた地蔵石仏に笠石を載せた事例は湖南市の少菩提寺跡の地蔵三尊の中尊に見られる。近江でも室町時代以降に多数造立される笠仏や箱仏(石仏龕)のあり方を考えていく上で貴重な存在と言えるだろう。

さて、天神社の鳥居をくぐり、参道を進むと山麓に拝殿があり、さらに山道に続く石段を300mほど登っていくと立派な層塔が忽然と姿を現す。社殿からは一段下がった場所で、基壇などは特に設けられておらず、枯葉の積もるような地面に直接基礎が置かれている。花崗岩製で現高は約3.5m。初重軸部と最上層を除く各笠石は軸部一体式の通有のもので、現状は六重。最上層七重目の笠石だけは傍らに置かれている。相輪は亡失。少し前まで最上部に小型の宝篋印塔の笠石(笠下請花)が相輪の代りのように載せられていたようだが、現在はどこにも見当たらない。基礎は各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配している。格狭間内は珍しく素面で近江式装飾文様は見当たらない。幅は約93cmもあり、高さは約54.5cm。塔身(初重軸部)は高さ約52cm、幅約46cmと高さが勝り、各側面とも線刻の蓮華座上に舟形光背型を彫り沈め、内に四方仏座像を刻出する。薬壺を手にする薬師如来が確認できるので釈迦、阿弥陀、薬師、弥勒の顕教四仏と考えられる。像容表現は優秀で、保存状態も悪くない。弥勒と思われる面の光背外側の左右に「正和二季癸丑三月日/願主藤原氏女」と陰刻されているのが肉眼でも確認できる。正和2年は鎌倉時代後期、西暦1313年である。初重笠石の軒幅は約78cmと基礎の幅に比してやや小さ過ぎることなどから、田岡香逸氏は元は十三重であったのではないかと推定されている。もっとも元々七重、あるいは九重であった可能性も否定はできない。各層とも垂直に切った軒口は重厚である。軒反は上端が力強く下端を水平に近くしている。これは一般的に江戸時代に降る新しい手法とされるが、鎌倉後期にもこういう例があるようである。また、各層とも笠裏は素面で垂木型は認められないが最上層の笠裏だけには垂木型があるらしく、これだけが別物と推定されている。ただしサイズや風化度合い、石の質感に特段の違和感はない。仮に十三重であった場合の高さは6.6mに達したと推定されている。相輪を失い、笠石の欠落や寄せ集めの疑いが提起されてはいるが、小生は元々今のままの七重層塔であったとしてもそれほど不都合はないようにも思うがいかがであろうか。ともあれ湖東における層塔の在銘基準資料として貴重な存在である。

 

参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』

   田岡香逸 「近江旧蒲生郡の石造美術(前)-近江八幡市と蒲生町-」『民俗文化』183号

   清水俊明 『近江の石仏』

 

近江は層塔もすごいです。その象徴的存在が日本最古とも言われる石塔寺の三重層塔だと思いますが、中世における造立数は大和の比ではなく恐らく日本一ではないかと思います。笠石の残欠をいたるところで見かけますし優品や在銘品も少なくありません。数多い石塔類の中で最も本格で保守本流を行くのが層塔ですが、五輪塔や宝篋印塔などに比べると意外に基礎的な調査や研究が遅れているように思われます。それと近江には古い石灯篭もかなりの数があります。大和には四角型の超宝庫である春日大社があるので、まぁ四角型を除くならば中世の石灯篭の残存数もたぶん近江が日本一だと思います。その象徴的な存在は河桁御河辺神社のものになるのでしょうか…。石灯籠は作るのに手間がかかるという点(つまり美術的要素が強くしたがって高価なんでしょうねたぶん…)で石造の中でもトップクラスだと思いますが、やはり近江では基礎的な調査や研究の面で層塔と同様に遅れているような印象があります。じつにもったいないことです。

 

たまたま現地で地元の方から聞いたところによると、縁切地蔵の周囲に集められた小石仏や五輪塔は近くの田んぼの中から出たとのことです。また、天神社のある付近から浄土寺集落の間の山手には古い寺院があったらしく、山林中に火葬のための大きい穴(詳細不明)があるとのこと。その付近には五輪塔や石仏が地中にゴロゴロしているらしいとのことでたいへん興味深いお話でした。地名の元になった寺院がそれなのか、詳しいことはわからないそうです。天神社には立派な鎌倉後期の石造層塔が残されていることから、やはり中世寺院がこの付近のどこかにあったのは疑いないでしょうね。汗を拭き拭き石段を登り、夕暮れ迫る木陰に忽然と勇姿を現した層塔を見た時は感動的でしたが、まぁ蚊が激しく早々に退散せざるをえませんでした。石造探訪には防虫対策は必須、この時期の基本ですね、ハイ。それにしても、かつて載せられていた宝篋印塔の笠はいったいどこへ行ったんでしょうか?雪野山の山頂には有名な雪野山古墳があり、同古墳への上り口のすぐ近くなので、車は古墳見学者用の駐車場にとめておけます。


滋賀県 守山市中町 田中大日堂層塔

2009-08-10 22:20:13 | 層塔

滋賀県 守山市中町 田中大日堂層塔

川田町田中の集落の西側にある大日池は近江妙蓮と呼ばれるハスの珍種が咲くことで知られる。近江妙蓮は花托が無く、千枚単位の花弁を持つ驚くべき多弁のハスであり、一茎多頭の花をつける極めて珍しいもの。01藤原鎌足の長男の定恵、あるいは慈覚大師円仁が中国から請来したとの伝承がある。また、近江守護の六角氏から足利将軍家に献上されたとも伝えられ、ご先祖がその六角氏から命じられ代々妙蓮を保護してきた地元の田中家で中世以来守り継がれてきたという。しかし明治期にとうとう咲かなくなり、ハス研究の大家として有名な大賀一郎博士の尽力もあって、江戸時代にここから株分けされた加賀妙蓮を再移植して昭和38年に復活したという。05その後、天然記念物に指定され、資料館が建てられるなど池の周囲は近江妙蓮公園として整備されている。現在田中の集落は川田町にあるが道路を町境にして大日池は隣町の中町に属している。この大日池のほとりに大日堂があり、境内の小さい墓地にいくつかの石造物が見られる。その中で特に目を引くのは石造層塔である。花崗岩製でかなり風化が進んだ印象を受ける。現在の地表面からの高さは約245cm。基礎下端が埋まり、上層部分を失い現在相輪の残欠が載せてある。基礎は4石からなり、田の字状に四分割した構造となっている。基礎の幅は約82.5cm、下端が埋もれ確認できないが現高約17cm。田岡香逸氏の報文によれば下端は不整形でその高さは27.7cmというから現状で10cm程度埋まっていることになる。02側面は各々輪郭を巻いて格狭間を入れているので二区輪郭の外見を呈する。格狭間内は素面。輪郭は束部分のそれぞれ外側が幅3.5cm。内側、つまり接合面側では1.5cmと狭くしている。この束部分の幅の違いは、左右ふたつが重なる内側の束部分の幅と外側束部分の幅がだいたい釣り合うようにした意匠表現と考えられ、4つの基礎石材が寄せ集めではなく当初からのものと判断できる材料になる。基礎を田の字に四分割する構造は珍しいものだが、市内金ヶ森の懸所宝塔や愛荘町金剛輪寺宝塔など大形の石造宝塔に例がある。塔身は幅約42.5cm、高さ約51.5cmとかなり背が高い。各側面は、高さ約38cm下端幅約28.5cmの舟形背光形に彫り沈め、線刻の蓮華座上に坐す四仏の像容を厚肉彫りしている。03像高は約33cm、像容は風化が進み顕教四仏なのか金剛界四仏なのか不詳だが定印の阿弥陀が北面しているのがわかる。笠は軸笠同石式とする通有のもので、現在6層目までが残る。恐らく当初は7重ないし9重であったと推定される。笠の軒幅は初層で約61cm、6層目で約45.5cm。各層とも軒の厚みの隅増しはそれほど顕著ではなく、軒口中央の水平部分が狭く隅に向かう反転部分を広めにして重厚な軒反を示している。笠裏には垂木型は見られない。相輪は残高約25cm、九輪部分上半5輪分と上請花を残すに過ぎない。サイズや風化の程度、石材の質感など違和感は感じられないが、当初からのものか否かは不詳。特異な構造の低い基礎、背の高い大きい塔身、垂木型のない笠などの特長は鎌倉時代中期に遡り得る古様を示す一方、格狭間や塔身像容の蓮弁の形状など細部にはやや時期が降る要素がみられることから、鎌倉時代中期でも末頃、概ね13世紀後半頃の造立と考えたい。このほか、墓地には宝篋印塔の笠、キリークを刻んだ板碑、変形石鳥居とも考えられる謎の石門(仮称)、箱仏、一石五輪塔などが見られる。

参考:田岡香逸「近江守山市と中主町の石造美術-守山市田中と中主町吉川・六条・五条-」『民俗文化』98号

写真上左:層塔の隣に"石門"(仮称)が見えます。これはいったい何でしょうか?パッと見ではけっこう古そうです。写真下左:基礎の田の字構造がわかりますでしょうか?写真下右:キリーク板碑です。室町時代中頃のものと田岡氏は推定されています。なお、田岡報文当時は空風火輪を一石彫成した五輪塔の上半が層塔の頂に載せてあったようですが、今は、かの五輪塔は層塔の傍らに置かれていました。それから近江妙蓮は一見の価値があります。花弁が千枚の単位、四桁ですよ、すごい!普通は二桁です。資料館の解説などを見ましたが、いくらなんでも定恵や円仁というのは怪しい感じですが、室町以降の伝承はそこそこ信憑性があるように思われます。それと古代ハスで有名な流石の大賀博士でした。妙蓮に限らずハスは早朝に咲き昼頃には閉じてしまいます。ぜひ午前中に見に行ってください。午後からノコノコやってきた小生が見たものは閉じたハスか散りかけのハスばかりでお見せできるような写真は撮れませんでした。


滋賀県 米原市上丹生 松尾寺層塔

2008-09-25 00:21:39 | 層塔

滋賀県 米原市上丹生 松尾寺層塔

国道21号線をJR東海道本線醒ヶ井駅前で南に曲がり、丹生川の清流沿いに山手に進み、右に折れて川を渡り険しい山道を徒歩で標高約400m余りの場所に位置する松尾寺まで登って行くルートは山裾からは1時間以上はかかる行程である。41松尾寺は標高504mの松尾寺山山頂から南東に少し降った斜面に立地している。お寺の機能は山麓の里坊に移転しているため、現在この山上伽藍は無住となっているが、定期的に手入れされている様子がうかがえ案内看板もある。本尊は観音菩薩、寺伝では役小角開基、義淵僧正の弟子とされる宣教創建による霊仙寺7子院のひとつで、息長氏出身で唐に渡り彼の地で非業の最期をとげた霊仙三蔵修業の地といわれ、伊吹山の三修の高弟松尾童子が中興とされるなど、修験道系の山岳信仰との深い関わりを示す古いエピソードを伝えている。39また「飛行観音」として航空関連の崇敬を集めているとのこと。標高は先に紹介した大吉寺跡に比べると低いが、人里離れた山深い雰囲気は共通する。往昔は子院50余を数え、本坊・子院をあわせて松尾寺という集落を形成していた。茶が特産であったというが明治時代に上丹生に合併した。急な石段を上がると正面に本堂跡の方形土壇がある広い平坦地付近が本坊の跡である。本堂は江戸初期、彦根藩の庇護のもと整備された寛永期の建築であったが惜しくも昭和56年1月、豪雪により倒壊、今も片隅に朽ちかけた当時の建築部材が集積してあるのが何とも痛ましい。46本堂跡の向かって左には蔵が残り、その手前に鐘楼か塔の跡と思われる石積の方形壇がある。その奥、斜面裾の細長い平坦面に目指す石造層塔がある。ごつごつした岩盤が露呈した場所に直接基礎を据えた高さ約5mの九重塔である。逓減率が大きく、全体に安定感がある。花崗岩製。基礎は側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、側面のうち三面は、格狭間の左右に一対、宝瓶に挿した未開敷三茎蓮花の浮き彫りがある。山手の背面のみは宝瓶三茎蓮花はみられず格狭間の左右に刻銘がある。「願主法眼如意敬白(向かって右側)/文永七年(1270年)庚午八月日(向かって左側)」。各側面とも輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は上辺がまっすぐ水平に近く肩はあまり下がらない。宝瓶三茎蓮花のためのスペースをとる必要性からか格狭間の側線が少し窮屈になって意匠表現上の苦心の跡がうかがえる。12一方、刻銘のある面だけは格狭間の側線はスムーズで整った形状を示す。また、基礎上面には低い一段を設けて塔身受座を刻みだしているもあまり例の多くない珍しい手法といえる。初重軸部は蓮華座を線刻した上に舟形背光を彫り沈めて顕教系の四方仏坐像を厚肉彫りしている。36彫りが深く、像容は体躯の均衡よく面相も優美で、この種の四方仏の中では最も優秀な範疇に入るだろう。笠の軒口の厚みはあるが隅増がなく反転も比較的緩いもので、屋だるみも目立たない。初重屋根と二層目軸部、二層目屋根と三層目軸部が一体彫成されるが、三層目屋根から六層目までは軸部と屋根がそれぞれ別石となる。さらに二層目軸部の四面中央に月輪内に五大四門の梵字「ア」、「アー」、「アン」、「アク」を陰刻し、三層目にも同様に「バ」、「バー」、「バン」、「バク」が見られる。川勝政太郎博士は五輪塔と同様にキャ・カ・ラ・バ・アの五大梵字の四門展開が六層目から二層目にわたる軸部にあったものが、後補した際に省略したものと推定されている。表面の観察からでは軸部のみ後補なのか笠も後補なのかは明らかでない。六層目屋根と七層目軸部以上は最上層を除き軸部と屋根が同体になっている。最上層笠の頂部には露盤を刻みだしている。43 各笠裏に垂木型は見られない。相輪は先端宝珠に少し欠損があり、九輪の上で折れたものを接いである。おもしろいのは九輪の上、水煙か下請花あたる部分が立方体になって各側面には舟形背光形に彫りくぼめて半肉彫り四方仏坐像を配している点で他に例を知らない。04 以上のようにこの松尾寺塔には通常の層塔に比べると個性的な構造と特殊な意匠表現が随所に見られる。まとめると、(1)格狭間の左右に配した基礎の宝瓶三茎蓮レリーフ、(2)基礎上面の軸部受座、(3)笠と軸部を一体整形した層と笠と軸部を別石とする層が混在している、(4)軸部に五大四門の種子を配する、(5)笠裏に垂木型がみられない、(6)相輪の九輪上にある四方仏を刻出した龕部、(7)各層の逓減率がやや大きいといったことがあげられる。これらは作風が定型化する前の創意工夫の過程における個性の発揮と考えて差し支えないものと考えられ、近江式装飾文様のあり方や近江の層25_2塔を考えていくうえでこの松尾寺塔は欠くことのできない存在といえる。(1)について、川勝政太郎博士は、戦前に早くも初重軸部の本尊ないし四方仏への供花の意味合いがあることを指摘され、一般的には格狭間内に配する近江式装飾の蓮華文様のレリーフの初現的な意匠表現と推定されている。その後、格狭間内に三茎蓮花を持つ建長三年(1251年)銘の大吉寺跡宝塔(長浜市)や寛元4年(1246年)銘の安養寺跡層塔(近江八幡市)が世に知られるようになったため、松尾寺塔を近江式装飾の初現そのものとすることはできなくなっているが、早い段階のあり方やルーツを考えるうえで貴重なヒントを与えてくれる、そういう意味においては川勝説の根幹は今日もその意義を失ってはいない。また、(3)は軸部別石手法の消長を考える上からも注意すべき点である。このように見てくると松尾寺塔が近江の層塔を考えていくうえで示唆に富む特長を備えた興味深い事例であることがわかると思う。そして何よりも山深い寺跡の木陰に凛と佇む姿は見るものを惹きつける。いつまでも眺めていたい、立ち去り難い気分にさせてくれる、数多い近江の層塔中の白眉といえる。風化による表面の石肌荒れや細かい欠損はあるが総じて保存状態もよく、13世紀後半の紀年銘も貴重。後世に長く伝えていかなければならない優品。重要文化財指定。

なお、少し離れた岩盤上には14世紀中頃のものと思われる宝篋印塔の基礎があり、上に相輪を欠いた15世紀代に降るであろう小形宝篋印塔が載せてある。ほかにも小形の五輪塔の残欠や一石五輪塔が各所に散見される。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 247ページ

   〃 新版『石造美術』 75ページ

   〃 『近江 歴史と文化』 187~188ページ

   平凡社『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系25 882ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 44~45ページ

写真右上:素晴らしい像容の四方仏、写真左中:基礎上面の軸部受座、写真左下:相輪の上部の龕、写真右中上:格狭間脇にある宝瓶三茎蓮花、写真右中下:文永七年の紀年銘が格狭間左側にある、写真右下:軸部の月輪内の梵字・・・どれもわかりにくいイマイチの写真ですいません。とにかく四方仏の面相が優美、つまりハンサムです。なお、直線距離にしておよそ1.5kmほど北西、三吉集落の南東の山裾にある八坂神社にも元亨三年(1323年)銘の九重層塔があります。あわせて見学されることをお薦めします。よく似た規模の層塔ですが、四方仏の出来映えにはずいぶん違いがあります、ハイ。