奈良県 天理市柳本町 長岳寺地蔵石仏笠塔婆
長岳寺は山辺の道沿いにある古刹で、高野山真言宗、釜口山と号する。境内や付近には見るべき石造美術が多い。境内は季節の花々や紅葉が美しく、石造のみならず仏像や建造物も優れたものが残されている。本堂前、向かって右手、やや奥まった不動石仏の前に笠塔婆が立っている。現在載せられている笠石は、境内にあった適当なものを見繕って載せられたものというが、当初の姿を彷彿とさせるには十分である。軸部は現状高約151.5cm、幅約33cm、厚さ約18cmの扁平な角柱状で、花崗岩製。本堂前から一段上った大師堂に通じる石階段の下から5段目の延石に使われていたのが、昭和50年6月、石階段修復のためひっくり返すと像容と刻銘が見つかったため、取り出され現在の位置に移された経緯がある。上端面には枘の痕跡が認められたという。右側隅が一様に欠損しているのは石階段に転用された際に打ちかかれたものだろう。正面上方に舟形光背形を彫り沈め、内に像高約45cmの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、衣文はやや簡素であるがプロポーションはまずまず整っており、表情は端正で、錫杖の彫り方などは丁寧である。蓮華座は光背彫り沈めの下端外側に線刻に近い薄肉彫りで表現され、蓮弁は5葉の請花の下に反花7葉を組み合わせており、凝った表現と言える。正面中央に約28cm×約18cmの横長の長方形を浅く彫り沈め、その中に相対する一対の僧形像を薄肉彫りしてる。向かって右側の像は岩座のようなものの上にあって経机前に端座しているように見える。左像は膝をついて合掌し右像を拝んでいる。師弟の僧の姿を表していると見られている。その下方の平坦面に中央に一行の陰刻銘がある。「元亨二年(1322年)壬戌卯月日僧行春」と判読されている。清水俊明氏は、願主が行春で、師僧の供養のために造立されたのではないかと推定されている。さらに、境内に残る、初重軸部に珍しい獅子に跨る文殊菩薩を刻んだ層塔が西大寺叡尊(1201年~1290年)による供養塔と伝えられ、弘安年間にここで叡尊が梵網経を講じたとも伝えられることなど、当時の長岳寺が叡尊と関わりがあったこと、そして元亨二年が叡尊の三十三年忌に当ることから、供養の対象になった師僧が叡尊ではないかと推定されている。となれば刻まれた師僧像は叡尊その人の像である可能性があって注目されるが、摩滅が進んで像容が見えづらくなっているのが惜しまれる。
写真左下:師弟の僧と思われるレリーフ。左側が願主の行春、そして向かって右側こそが思円上人か?
参考:清水俊明 「長岳寺元亨銘石仏と暗峠弘安銘笠塔婆」『史迹と美術』456号
〃 『大和の石仏』(増補版)
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
文中法量値は清水俊明氏の報文によります。同報文によると、昭和の初めに石階段を修復した際に転用されてしまったらしく、昭和50年の6月20日、偶然石材から石仏と刻銘の一部を見つけられた御住職からの連絡を受けて清水氏がその日のうちに飛んでいったそうです。刻銘部分には昭和の初めの頃のセメントがこびりついており、御住職と清水氏が協力し取り除かれたそうです。
昭和の初めから40年くらいの間は石段として人々に踏まれてきたわけで、何ともおいたわしいことでしたが、こうして再び陽の目をみることになったのは喜ばしい限りです。
弥勒石仏、板五輪塔婆、宝篋印塔、層塔、五智墓の石塔群、奥の院の不動石仏等々境内と付近には石造ファン必見の優れた石造がたくさんあってとてもいっぺんには紹介しきれません。折々ご紹介していきたいと思います。長岳寺さんはご本尊、楼門など数々の優れた文化財に加え、何より、いかにもな大和の古寺の風情が色濃く残り、静かで風光明媚な佇まいが素晴らしいお寺です。それからお寺でいただけるそうめんもお薦めです。