石造美術紀行

石造美術の探訪記

川勝博士怒る

2013-02-09 22:39:05 | うんちく・小ネタ

川勝博士怒る
 川勝政太郎博士がひどく怒っている記事を見つけました。生前に親しく謦咳に接する機会はありませんでしたので、実際の人となりを知っているわけではありませんが、少なくともお人柄について書かれたものは、おしなべて穏厚な人格者で、博士の文章を読んでも、常に啓蒙的なスタンスから高度な内容を平易に述べる穏やかな文体で、文章からもそのお人柄がうかがえます。また、他者への反論や批判めいたことを書かれることは多くなく、その場合でも言葉を選んでやんわりと書かれていることが多いように思います。(このあたりが舌鋒鋭い西宮のT先生と違うところですが…)
 その川勝博士が珍しく厳しい口調で怒っておられます。それは「京都林泉協会の「石造美術」に対する説明について」という文においてで、昭和42年2月1日発行の『史迹と美術』第372号に載せておられます。内容は、京都林泉協会編のある書物の中に、石造美術という語がそもそも庭園の関係から生まれ、庭園に配置される石灯籠や見立物に転用された石塔類に注目して研究がスタートし、やがてそれ以外の石仏や石標、石橋なども含めて扱うようになったという趣旨のことが書いてあったことに対する反論です。以下一部を引用しますと、「我田引水を通り越して、事実を曲げる文章である。昭和八年五月に発行された京都美術大観『石造美術』を私が執筆した。この時に石造美術という語がはじめて生まれ、この書物の第一頁に「石造美術という名称は、石で作った美術という意味で、従ってこの名称の下に属するものは頗る広汎に亙るわけである。今その種類を挙げて見ると。石仏・五輪塔・宝篋印塔・層塔・多宝塔・宝塔・板碑・石幢・石燈籠・石鳥居・石龕・石壇・狛犬・石橋・手水鉢等を含むことになる。」と述べているのである。石造遺物の総合研究のために生まれた語であって、「庭園の関係から生まれた語ではない。」…中略…(石灯籠と石塔類以外の石仏なども)最初から対象にしている。私たちは石造美術の形式学的研究、文化史的研究にとりくんでいるのであって、庭の石造品のためにやっているのではない。庭園研究家がこれを利用されるのは当然であるが、公開の単行本の上での暴言に対しては黙っているわけにはいかない…後略」
 京都林泉協会は川勝博士と関係浅からぬ重森三玲氏が主催された庭園を扱う有志の研究会で、川勝博士も創設以来役員か何かの委員をされておられたはずです。戦後すぐの一時期、重森邸に居候させてもらったこともある川勝博士の史迹美術同攷会とは友好関係にあったはずですが、その京都林泉協会の書物に対して強い口調で反論されるからには、よほど腹に据えかねたのだと思われます。庭の石造品のための研究というのは確かに本末転倒で言語道断、石造美術という用語の産みの親である川勝政太郎博士の思いが伝わる興味深いエピソードです。なかんずく「石造遺物の総合研究のため」、「形式学的研究、文化史的研究にとりくんでいる」という表現に我々は注意する必要があると思います。


滋賀県 湖南市岩根 岩根不動寺不動磨崖仏

2013-02-04 00:29:33 | 滋賀県

滋賀県 湖南市岩根 岩根不動寺不動磨崖仏
岩根山(十二坊)の山腹に位置する天台宗の名刹善水寺は、岩根集落の里坊の東側から石段を歩いて上るのが本来の行き方であるが、この石段の参道を東に回り込んで本堂近くまで上っていく車道が通じている。01この車道を上って進んでいくと、間もなく左手の小渓流の対岸山腹に花崗岩の巨岩が張り出す場所がある。02高さ6mはありそうな巨岩の南側に懸造の小堂が寄りかかるように建てられているのが不動寺である。現在は黄檗宗とのことだが、本来は善水寺の子院のひとつだろう。垂直に切り立った岩壁面に刻まれた不動明王の磨崖仏が本尊で、整備された階段を登って堂に入り、小窓からわずかにのぞく尊顔を拝するのである。この堂下にもぐりこむように降りて見上げるとその全容を目にすることができる。堂があるのと足場が悪いので正面からの観察は難しい。
岩壁面に高さ2.2mの縦長のだ円形の光背面を彫りくぼめ、内に像高約1.5mの不動明王の立像を厚肉彫りしている。光背面に火焔光背が刻まれていないため、清水俊明氏は火焔光背を彩色で表現していたのではないかと推定されている。04_2自然面を岩座に両足先を外に向けて佇立し胸を張って虚空を見据える姿で、正面はやや平板な感じだが、腰から下の衣文の表現は写実的である。03頭部は小さく体躯とのバランスもよくとれている。いかり肩で右肘を外に張って腰の辺りに添えた拳に利剣を握り、左手は肘をやや曲げて下に下げ、握りしめた拳は手の甲を見せるがあるべき羂索は見当たらない。拳に穴があるので、この穴に実際の縄を差し込んでいたのかもしれない。面相部は風化が進みはっきりしないが、左眼はよく残り、口元がにえつまったようなしかめっ面で牙をむき出した瞋怒の表情が見て取れる。また、お顔の向かって右側には結い纏めた弁髪が垂れている。
像の向かって右側に「建武元年(1334年)三月七日卜部左兵衛尉入道充乗再作之」と刻まれているというが、下から見上げる限りよくわからない。卜部はウラベと読み、充乗という人物は、名乗り方から在俗出家者のようだが、この姓は今も続くこの寺の代々の住職の姓だということである。文末の「再作之」は「造之」とする説もある。「再作之」とすれば、元の像が崩落などで失われたので改めて一から彫り直したのか、何らかの原因で一部が破損したのを加工補修したのかのいずれかと思われる。紀年銘も貴重な近江の不動磨崖仏の傑作のひとつである。
なお、堂下には一石五輪塔や小型の石仏龕が多数並べられているが、これらも室町時代の作である。
 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   清水俊明 『近江の石仏』
   
池内順一郎 『近江の石造遺品()
 

今年は善水寺の節分会が休日と重なったのを幸いにお参りしてきました。甘酒を馳走になり、本尊前に設えられた護摩壇を中心に厳かな修法の後、御住職の法話を聴いていると貧・瞋・痴の煩悩三毒の権化である青鬼・赤鬼・黄鬼がおどろおどろしい姿で奇声を上げながら乱入してきます。幼い子どもが泣き出して堂内は盛り上がりをみせます。02_2この三毒を御住職が布施・忍辱・智慧を象徴する御幣・錫杖・般若経により降伏し、餅や豆が撒かれます。最後には改悛した鬼達が参詣者一人ひとりに三つの徳を授けるという展開で、有難くも実に楽しい法会で貴重な経験でした。最前列に居並んだ黄色の法被を着た厄年の人達の背に鮮やかに描かれた本尊薬師如来の種子「バイ」の見事な刷毛書体が印象に残りました。毎年節分に行なわれますのでぜひ一度いらしてみてください。
善水寺は、湖南三山の一角として最近売り出し中ですが、南北朝時代の古建築の本堂(国宝!典型的な天台仏堂建築)を中心に優れた文化財の宝庫で、石造物も鎌倉時代末から南北朝頃の宝篋印塔・層塔・石灯籠等の残欠、室町期の一石五輪塔や磨崖仏などが境内に残されています。静かな佇まい、眺望、自然景観と古建築がマッチしてとにかくお勧め、いいところです。
また、岩根(十二坊)山から菩提寺山・三上山にかけての丘陵地帯には善水寺のように現役寺院も含め中世山岳寺院の跡がいくつかあってたいへん興味深い土地です。また岩根という地名が示すように、往昔は良質の花崗岩の産地だったらしく、見るべき石造物がいくつも残され注目されます。これらも追々ご紹介したいと思います。