石造美術紀行

石造美術の探訪記

福井県小浜市太良庄 長英寺五輪塔

2018-06-28 23:35:03 | 五輪塔

福井県小浜市太良庄 長英寺五輪塔
太良庄は、東寺百合文書などに関係史料が多く残され、荘園の研究で名高い所。北側の山塊から延びた丘陵尾根に東西から抱かれるように挟まれた地形で、中央は低平な水田地帯、その南は北川という河川が流れている。東側から北側にかけての丘陵寄りの少し高い所に集落がある。集落からやや奥まった山裾の閑静な場所に曹洞宗泰雲山長英寺がある。小浜藩主酒井忠勝の菩提寺で、禅宗らしい静かで落ち着いた境内の北側、緩斜面の山林内に五輪塔がひっそりと建っている。五輪塔は数本の奇樹巨木に囲まれた目立たない一画にあり、周囲には拳大~人頭大の円礫が多数あるのが見える。円礫は明らかに人為的に搬入敷設されたもので、埋葬施設か経塚など何らかの遺構である可能性が考えられる。五輪塔はその標識的な役割を果たしているように見える。基壇や台座などは見られず、地輪の下端は不整形なままとしている。塔高約165㎝。地輪幅約70㎝、地輪側面高約35㎝。低めの地輪は水輪以上に比して大きめに作られている。水輪の径約58㎝、高さ約47.5㎝。最大径がやや上寄りにあってやや裾すぼまり感がある形状。火輪の軒幅約58㎝、高さ約40.5㎝。軒の厚さは中央で約11.5㎝。空風輪は高さ約41㎝、風輪径約28㎝、空輪径約26㎝。各輪には五大四転の梵字が浅く薬研彫されている。地輪の四転はほぼ正しい方角を指している。地輪には右寄りに各二行の刻銘があるようにも見えるが風化磨滅が進み判読できない。石材は花崗岩とされているが、表面がざらついて気泡のような穴が目立ち、見慣れた花崗岩の質感とは少し異なった印象を受ける。地輪が少々大き過ぎて塔姿の均衡がとれていないようにも見えるが寄集めではないと思う。付近は御所の森と称され往昔の高貴な人物の館跡と伝えられ、五輪塔はその墓塔というが詳細不明。低くどっしりした地輪の形状や火輪の軒反り、梵字の彫り方などから鎌倉時代後期頃の造立と考えられる。
(参考)小浜市教育委員会編『わかさ小浜の文化財(図録)』
           日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館



境内裏手のほの暗い木立の中にあり、奇樹に囲まれて何かスピリチャルな雰囲気、シチュエーションでパワースポットというのはきっとこういう場所を言うのかなと思います。文中法量は例によってコンベクスによる実地略測ですので少々の誤差はご寛恕願います。


奈良県奈良市大平尾町 八柱神社裏山五輪塔

2015-04-30 10:03:56 | 五輪塔

奈良県奈良市大平尾町 八柱神社裏山五輪塔
大平尾町は、奈良市東郊にあり、尾根と谷間の間に田畑と集落が点在する風景が広がる東山内の寒村といったところ。八柱神社の西側の尾根を登っていくと、県道47号天理加茂木津線を南方に見下ろすピーク付近に東西方向に延びる廃道のような山道の痕跡に当たる。この廃道沿いに、背光五輪塔や箱仏などの石造物がいくつか集積されている。もしかすると退転した神社の別当寺か何かがあって、そこに付随した古い墓地の痕跡かもしれないが詳細は不明。
香華を手向ける人も絶え、雑木や落葉に埋もれた様子で、すっかり世間からは忘れ去られているようである。そこに一際立派な五輪塔がある。水輪から上が倒壊して傍らにそのままの状態で放置されており、何か時間が止まってしまったかのような印象を受ける。薄暗い山林であったようだが、最近付近の木が伐採され明るくなったのはせめてもの救いかもしれない。総花崗岩製。反花座を伴う本格的な五輪塔で、反花座を含む総高約183cmの六尺塔である。原位置を動いていないかどうかはわからないが、いちおう反花座と地輪は無事のようである。方位と各側面はほぼ一致している。
反花座は下方が埋まって確認できないが、幅約82cm、高さ約21.5cm。上端受座の幅約62cm、高さは約1.5cm。反花は覆輪付複弁で一辺あたり四枚の主弁を配し、主蓮弁の間には小花(間弁)を伴う。四隅に小花(間弁)を持ってくるのは大和系の反花座の特長。

反花座の下の基壇の有無は確認できない。反花座を除いた塔高は約161.5cm。地輪は幅約56cm、高さ約41.5cm、上端面中央には、外縁部の径約11cm、底部の径約9cm、深さ約2cmの丸い枘穴がある。上端面は真平らではなく、微妙な雨落ちの勾配がつけてあるようである。南東隅には削げ落ちたような欠損が見られる。水輪は高さ約44.5cm、径約56.5cm、上下に枘がある。上の枘は基底部の径約9cm、高さは1cm弱。下の枘は基底部の径約8.5cm、高さ約1.5cmである。火輪の軒幅は約52.5cm、高さ約34cm、軒口の厚さは中央で約10.5cm、隅で約12cm。隅増の少ない重厚な軒口である。底面中央には、浅い枘穴があるが、水輪に接しているうえに腐葉土が挟まりはっきり確認できない。火輪の上端は幅約21cm、中央には外縁部径約11.5cm、底部の径約9.5cm、深さ約3cmの丸い枘穴がある。空風輪は、高さ約42cm、風輪径約30.5cm、空輪約31.5cm、風輪下端にある枘は基底部の径約9.5cm、高さ約2cm。梵字や刻銘は見られない。倒壊している点や地輪の隅の欠損を除けば総じて遺存状態は悪くない。東山内各地に残されている郷塔と呼ばれる五輪塔のひとつと考えられる。反花座の蓮弁の様子や火輪の軒、空風輪の形状などから14世紀前半頃の造立と見て大過ないものと思われる。

倒壊しているため、一具の各部材の接合面を観察できる点は有難い。空風輪の下端及び水輪の上下に枘を作り出し、地輪上端面と火輪底面に対応する枘穴を彫り込んでいる。水輪の枘は低く、空風輪の枘は大きい。
枘は、凸凹を組み合わせ倒壊を防ぐための造作である。各地で五輪塔の残欠を見る機会は多いが、これだけ大きい五輪塔で、一具の各部材接合面を観察できる例はあまりない。枘の有無や位置などに時代や地域色が出ることもあるので、注意が必要である。
 付近の石造物の多くは、雑木の中で腐葉土に半ば埋まったような状態で、粗々眺めた程度であったが、概ね中世末期~近世初め頃のもので、中には平板陽刻した円相内に光明真言らしい梵字を廻らせた背光墓碑や伊勢神宮参詣板碑?(慶長17年銘)など興味深いものも散見された。


参考:元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書

文中法量値は『五輪塔の研究』に依りました(ただし5ミリ単位に切上・切捨。各枘・枘穴と火輪上端、反花座の受座は実地略計測)。同書には、八幡神社裏山とありますが、八柱神社が正しいようです。同書の図版写真に倒壊した五輪塔の横に人が立っている写真が載せてあり、気になっていましたが、最近になって思い出して行ってみました。『奈良県史』石造美術編にも記載がありません。
周囲の木々の様子や火輪と水輪の位置が写真と少し違ってましたが、ほぼそのままでした。元興寺文化財研究所による調査時からはもう20年以上が経過しているはずですが、相変わらず忘れ去られているような状況です
。接合面の観察云々はともかく、これはこれで寂れた風情を感じることができるわけですが、これだけ立派な五輪塔が倒壊したまま忘れられているというのは、五輪塔の宝庫、奈良ならではの贅沢な状況かもしれません。あ、しまった…地輪と反花座の間に奉籠穴があったかどうか見てくるの忘れた…。


京都市伏見区横大路中ノ庄町 飛鳥田神社御旅所五輪卒都婆

2015-03-30 00:36:22 | 五輪塔

京都市伏見区横大路中ノ庄町 飛鳥田神社御旅所五輪卒都婆
羽束師橋の南方、桂川左岸の堤防に近い集落内、飛鳥田神社の御旅所に近接する浄貞院という浄土宗寺院の参道の西側、ブロック塀で仕切られた民家の裏庭のような狭くわかりにくい場所に五輪卒都婆と五輪塔が並んで立っている。

昭和15年、佐々木利三氏が苦心の末に見出されたとのこと。ただし、享保年間の『山城志』には、既に記載されており、寛政11年(1799年)に川口政和という京都人が著した『奇遊談』という書物に、「怪異石塔(ばけもののせきたふ)」と題してこの石塔に触れられていることが、川勝博士の記述により知られる。「…飛鳥田神社御旅所の傍らの榎木の老樹の下に高さ五尺余の細く長き五輪の塔婆あり。古の此村の邑長の塔にして、夜な夜な怪異をなせし石塔なりといふ…」そして、ある時、勇猛の士が石塔の妖怪を切り倒し、石塔にその時の血の痕が残っているというのである。もっとも著者の川口政和は、石の性質上、赤っぽく見えることはままあることで、血の痕でも何でもなく、文永年中を刻んだ何か由緒のある古い石塔だと乾いた見解を述べている。何か赤い地衣類でも付着していたのだろうか。今は石の表面にそのような色調は見られない。いずれにせよ、江戸時代以前には、それなりに知られた石塔であったようである。

五輪卒都婆は、高さ約240cm、約30cm角の方柱状花崗岩の石材の上端に五輪塔を作る。下端近くは少し未成形のままで地中にかなり埋め込んであるように思われる。五輪塔部分には正面にのみキャ・カ・ラ・バ・アの梵字を陰刻する。正面上部、地輪の梵字の下方に舟形光背形を彫り沈め、中に定印の阿弥陀坐像を半肉彫りする。像容の下には線刻の蓮華座がある。さらにその下方に2行「右意趣者以相當慈父一十三年/忌景為滅罪生善證大菩提所造立如件」の陰刻銘がある。地輪側面上方には、向かって右に観音の種子「サ」を、左に勢至の種子「サク」をそれぞれ線刻月輪内に陰刻し、右側面、観音の種子の下方に「文永十一年八月一九日 橘友□敬白」の陰刻銘がある。

文永11年は1274年。同じ文永年間の5年ほど前、高野山によく似た形の町石五輪卒都婆がたくさん作られている。一説には畿内の石工が高野山に結集し町石などの作善に互いに技術を磨いたことがその後の鎌倉時代後期における石造美術の盛期をもたらした要因のひとつと考える向きもある。古くからの水運流通の要衝と目されるこの地に、高野山町石とよく似た形状の五輪卒都婆が作られているというのも興味深い。高野山の町石は、そもそもが町石であって本尊も曼荼羅を元にしており、真言系の所産と知られるが、こちらの卒都婆は、五輪塔に弥陀三尊をミックスした浄土信仰を背景とし、父親の13回忌の供養のために造られている点は留意する必要がある。
 傍らにある通常の五輪塔は、高さ約169cm。花崗岩製で完存し、各輪とも四方に五輪の四転の梵字を薬研彫りする。全体に均整の取れた優品だが、火輪の軒や空風輪の形状にやや線の弱さが看取され、時期は少し降り14世紀前半頃かと思われる。
 
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』
          〃    『日本石造美術辞典』
とにかくわかりにくいところで、目印も何もなく、御旅所そのものがわからない。しかも御旅所の場所がわかってもここにはちょっとたどり着けない…。困った挙句、通りがかりの地元の方に尋ねてみました。たまたまご存じで、ハイハイということで、連れていってあげると、わざわざ現地までご案内くださいました。ご親切に感謝です。実にラッキーでした。飛鳥田神社の御旅所というよりも、浄貞院さんの参道のそばという方がわかりやすいかもしれません。それと、あくまでも御旅所です。ほんちゃんの飛鳥田神社は何百メートルか離れた別のところにありますので注意が必要です。
五輪卒都婆は全体に白っぽい灰色の花崗岩ですが、そういえば背面と左側面に褐色の縦の線(鉄分が多い貫入層?)があります。「怪異石塔」で血の痕か…とするのはこれかもしれません。願主の橘友□というのもどこかで見たような名ですね。石工が願主なのかもしれませんが、最後の文字が判読できないのが惜しまれます。

 なお、お寺の墓地には長岡外史(1858~1933)陸軍中将が揮毫した忠魂碑がありました。長岡さんは、日露戦争では大本営参謀次長を務め、立派なひげがトレードマークで飛行機やスキーにはじめて着目したユニークな明治の軍人です。ハイカラさんのモデルとされる朝吹磯子嬢の御父上であらせられました。


京都市伏見区竹田中内畑町 安楽寿院五輪塔

2015-03-23 00:06:25 | 五輪塔

京都市伏見区竹田中内畑町 安楽寿院五輪塔
塔高約304cm。地輪幅約121cm、高さ約71cm、水輪幅約113.5cm、高さ約85.5cm、火輪幅約107cm、高さ約65cm、空風輪高さ約82.5cm、風輪幅約56cm、空輪幅約52.5cm。花崗岩製。旧本堂前広場にあったというが、現在は老人ホーム脇の一画に辛うじて残されているような状況。安楽寿院は保延3年(1137年)に鳥羽天皇により鳥羽離宮の一画に創建された鳥羽天皇の廟寺的な寺院で、その後、興廃を繰り返しながら命脈を保ってきたが、昭和36年の第2室戸台風で大きな被害を受けたというから、旧本堂はこの時に倒壊したのであろうか。現在は、西の鳥羽天皇陵と南の近衛天皇陵の間に静かな佇まいの境内を構えている。おそらく、かつては付近一帯が境内であったのであろう。さて、五輪塔は、わずかな灌木が生えた草生地の中央にあって三方をフェンスで囲まれ、道路に面した東側は木柵で立ち入りが制限されて近づくことができない。旧本堂前から移築されたとも言われるが、江戸時代の『都名所図会』にも描かれ、鳥羽天皇陵や冠石との位置関係から、現在の位置と変わりないように見える。塚状の高まりの上にあると書かれているが、現状ではごくわずかな高まりに過ぎず塚状とまでは言えないように思う。全体に彫整が非常にシャープな印象で、下端は埋まってはっきり確認できないが地輪はあまり高くなく安定感があり、水輪は裾すぼまり感がやや強めだが、火輪の軒口は厚く隅に向かって力強く反る。やや大きめの空風輪が描く曲線は滑らかで空風輪全体に重厚感がある。台座や基壇は見られない。各輪とも梵字などはない素面。典型的な鎌倉様式の五輪塔で、規模も大きく、遺存状態も良好。地輪北面に7行の陰刻銘がある。磨滅が進んで痕跡をうかがわせる程度であるが、「一□南無阿弥陀佛/□□□□□法□/念仏□□法界□□/一切功徳□□行□/□□□□□□願□/□生縁□□□菩提/弘安十年丁亥二月□□□」と判読されている。浄土信仰の所産と知られ、弘安10(1287)年の紀年銘が貴重。すぐ南側に鳥羽天皇陵があり、鳥羽天皇の発意による如法経塔との伝承があるが時代が合わない。重文指定。
 

参考:川勝政太郎『京都の石像美術』
   竹村俊則・加登藤信『京の石像美術めぐり』
   (財)元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書(文中の法量値を参考とさせていただきました)
 
ここでは取り上げませんが、安楽寿院の境内には享保年間に成菩提院跡から掘り出されたとされる凝灰岩製の三尊石仏3体のうち釈迦三尊と薬師三尊の2体(弥陀三尊は京都博物館に寄託)が置かれています。破損が目立ちますが院政期の希少な石仏ですのでぜひ注目してください。


奈良県 山辺郡山添村松尾 一本松庚申板碑

2013-12-31 15:47:01 | 五輪塔

奈良県 山辺郡山添村松尾 一本松庚申板碑
県道80号、奈良名張線の室津バス停の南方直線距離にして約350mの山中にある。03_2室津との境界線に当たる水間から松尾へ通じる間道脇の木立の中にひっそりと佇む。北面して現状地上高約71cm。幅約29.5cm。05石材は花崗岩と思われる。大和でよく見かけるスタイルの板碑で、背面は粗整形のままで上端を山形に整形し、山形部分の正面に径約13.5cmの線刻の円相月輪を描き、内にキリークを大きく陰刻する。その下には中央に稜を持たせた幅約7cmの二重の切込部分を作る。切込といっても縦断面が逆三角にはならずに単なる二重の鉢巻状の突帯である。ただし、中央に稜を設けるのは大和の板碑に多い特長で留意しておきたい。01_2下端は地面に埋まって確認できないが、下方は碑面より2cm程厚く厚みを残したままにしており、地面に埋けこんだものと思われる。06
碑面は丁寧に平ら整形している。碑面中央に約40.5cm×12cmの長方形に彫沈めを設け、内に「奉供養庚申待結願」の陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。輪郭の束部分にも刻銘があり、向かって右に「弘治元年乙卯」、左に「潤十月廿九日結衆各敬白」の陰刻文字が見られる。弘治元年は西暦1555年。毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いがあった年で、閏10月29日はちょうど茶人武野紹鴎が亡くなったその日に当たる。その時期、戦国時代まっただ中の東山中における地域信仰の所産であり、大和最古とされる庚申待信仰を示す銘文が貴重である。
 02_2所謂「庚申さん」は、近世以降は青面金剛を本尊とすることが多いが、本例はキリーク(阿弥陀)を本尊とすることから、浄土信仰と密接に関係していたことを示すと思われ、あるいはこの頃の庚申待ちは念仏講のようなものを母体としていたのかもしれない。
 庚申板碑の向かって左側には自然石に五輪塔を平板に刻んだ自然石塔婆がある。石04材は花崗岩か花崗片麻岩と思われ、現状地上高約60cm。平らな正面に高さ約40cmの舟形光背形を線刻し、舟形内いっぱいに五輪塔形を刻出する。五輪塔のアウトラインを浮き出させるように舟形の内側の最小限度の範囲だけを彫り込んだような手法で、手間を抑えた効率化の進んだ上手なやり方といえる(が、悪く言えば手抜き)。江戸時代初め頃のもので、空風輪から水輪にかけてキャ・カ・ラ・バ・アの梵字を陰刻し、水輪の下方に線刻の蓮華座を描いているのは珍しい手法。花托を表現したと思われる曲線の意匠が面白く蓮弁の形状もこの時期にすれば優れている。地輪部に三行の陰刻銘が見られる。向かって右から「慶□四年」「行泉大得」「正月九日」のように読んだ。慶長と見たが慶安だったかもしれない。「大得」は「大徳」のつもりなのだろうか。
周囲には特に何もない寂しい場所であるが、なぜこの場所にこうした石造物が残されているのかは定かでない。原位置を保っているのかどうかもわからないが、仮に元はよそにあったとしてもそう遠くない場所から運ばれたものだろう。
今でこそ通る人もない間道だが、あるいは往昔には賑いを見せた旧街道なのかもしれない。

 
参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術
   土井 実『奈良県史』第17巻金石文(下)
 

前から気になっていましたが、ランドマークになるようなものもない山深い場所で、だいたいの見当はついていても、これでは教えてもらわないとちょっと行けません。最近、偶々知り合えたまだお若いのに石仏歴30年以上というすごい御仁にご厄介をおかけしてようやく邂逅できました。この場をお借りして改めて御礼申し上げる次第です。年の瀬の夕暮れ迫るひと時、寂しい場所にひっそりと佇む県内最古とされる庚申板碑と向き合って感じたのは、よくもまぁこんな場所にあるのを最初に見つけた人は偉いなぁということ。つくづく感心します。やはり昔の人はよく歩かれたものなんでしょうね。先人の恩恵に与る有難味を痛感します。いろいろと時間が取りにくくなってきまして気が付けば12月はこれ1件だけ……しょうがない……、来年はもっと頑張ろう。ということで今年はこれでおしまい。皆様、どうか良いお年をお迎えください。


奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川共同墓地五輪塔ほか

2013-06-12 00:44:44 | 五輪塔

奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川共同墓地五輪塔ほか
中ノ川(なかのかわ)町は、奈良市東郊の山手に位置し、北方はすぐ京都府の旧加茂町(現木津川市加茂町)に接する。つまり山向うは浄瑠璃寺や岩船寺で著名な当尾の里である。07_3いうまでもなく当尾は石造美術の聖地でもある。03中ノ川集落の北西の山林中には実範律師が開いた中川成身院の跡がある。実範(?~1144)は平安時代後期の高僧で、後に解脱上人貞慶を経て唐招提寺覚盛、西大寺叡尊らにつながる戒律復興の種をまいた人物である。中川成身院は中近世を通じて興福寺の末寺として法灯を繋いできたが明治初期に廃滅したとされ、仏像や梵鐘など優れた文化財が各方面に流出している。寺跡には子院跡を示す小字が残っているらしく、尾根や斜面などに平坦地や石組などの遺構が残っているようだが現地は鬱蒼たる笹、小竹、雑木に覆われ到底進入困難で確認できない。寺跡の一画には実範上人の供養塔とされる立派な五輪塔が残されている。五輪塔は今も興福寺の管理下にあって供養が続けられているそうである。そうした土地柄を裏付けるように集落とその周辺には古い石造物もたくさん残されている。
集落北方の山林中に地区の共同墓地がある。06_2墓地は南北に細長い尾根上にあり、ほの暗い木立の中に近現代の墓標に交じって中世に遡るような古い石塔や石仏が多く残されている。04奥まった北側に進むと尾根のピークは埋墓(さんまい)であろう、朽ちかけた木製の卒塔婆が林立するその中央に非常に立派な五輪塔が建っている。花崗岩製。半ば地面に埋もれかけた反花座は、一辺当たり主弁4枚、間弁(小花)付きの見事な彫成の複弁反花座で、四隅に小花を配するのは大和に多いタイプ。その上に建つ五輪塔は、塔高約180.5cm、六尺塔であろう。地輪幅約64.5cm、高さ約48cm、水輪径約63.5cm、高さ約50cm、火輪幅約62.5cm、高さ約41cm。05_2空風輪高さ約48.5cm、風輪径約36.5cm、空輪径約36cm。反花座をあわせた総高は200cmを越える。重厚な火輪の軒口、隅の反り方にも力がこもっている。水輪や空風輪の曲面はスムーズで直線的なところはあまり目立たない。地輪が高過ぎず水輪の裾の窄まり感が顕著でないので安定感がある。各輪とも素面で無銘だが、鎌倉後期の五輪塔の特長を遺憾なく発揮しており、
造立時期は14世紀前半を降ることはないだろう。保存状態も良好で、手堅い意匠表現と優れた彫成が特筆される美しい五輪塔であるが、地輪と反花座の間に小石を挟んでいるのが少々目障りである。01_3これは、反花座が東方向に傾いてきたので、塔の倒壊を防ぐために地輪との間に小石を挟み込んで均衡を図っているのであろう。反花座が地面に沈み込むということは、地下に何らかの埋納空間か何かが設けられている可能性があるだろう。
周囲には小型の宝篋印塔の残欠(笠、塔身)、六字名号を陰刻した半裁五輪塔、背光五輪板碑などがある。このほか、墓地の古い石造物でいくつか目に付いたところを簡単に紹介すると、入口の六地蔵の後ろにあった角塔婆。先端部は四方を斜めに切り落とし方錐形に尖らせ、その下に二段の切り込みを入れる。側面観を板碑と同じにする手法である。側面四方に五輪塔を薄くレリーフし、それぞれ五大の梵字の四転を刻む。現状地上高さ約66cm、幅約23cm。あまり見かけない珍しいもの。その近くにあった半裁五輪塔。現状地上高約90cm、幅約23cm。水輪部に、阿弥陀の種子「キリーク」を月輪内に刻む。どちらも花崗岩製、造立時期は室町時代後半頃だろうか。

 

参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
   清水俊明『奈良県史』第7巻

 
久しぶりに行ってみたところ、あちこちにゴミ処理施設反対!の看板が立てられ何やらゴタゴタがあるようです。もとよりよそ者の小生がとやかくいうことではありませんが、平安の昔、実範上人が仏に献ずる花を摘みに来て気に入り成身院を建てたというこの地の環境がなるべく保たれるといいなぁと思います。あと石造ファンとしては地域の貴重な宝である石造物が後世に残し伝えられることを祈念するのみです。それと、できればいまひとつ実態の明らかでない中川成身院跡の遺構の確認と保存は期待したいところです。


奈良県 奈良市大慈仙町 真如霊苑墓地五輪塔及び板碑三種

2013-06-10 23:52:52 | 五輪塔

奈良県 奈良市大慈仙町 真如霊苑墓地五輪塔及び板碑三種
奈良市街から東方、柳生、忍辱山方面に向かう国道369号、東方の円成寺までは1.2Km程のところ、国道から南に100m程入ると地元の共同墓地である"真如霊苑"がある。01墓地は東南から北西に伸びる尾根の先端に位置し、手入れの行き届いた明るい場所にある。02木立に覆われた尾根のピーク部分に平坦地があり、中央に大きい五輪塔がぽつんと建っている。花崗岩製。五輪塔の周囲は古い埋墓(所謂さんまい)のようである。長方形の板状の切石を組み合わせた方形基壇を設え、その上に間弁(小花)付きの複弁反花座を据える。四隅に間弁を配した典型的な大和系の反花座で、一辺あたり主弁は4枚である。反花座の一辺の中央下端に径5cm程の奉籠穴があり、切石基壇の下には納骨のための空間が設けられ大甕か何かが埋けられている可能性がある。反花座の上端の受座と地輪の収まりはまさにピッタリ、ジャストフィットで、当初から一具のものと考えてよい。蓮弁の彫成はまずまずの出来で手馴れた作風。その上に建つ五輪塔は、各輪とも素面、無銘で、塔高約168cm、五尺半塔であろう。03地輪高さ約39cm、幅約57cm、水輪径約55.5cm、高さ約45.5cm、火輪幅約55cm、高さ約37cm、風輪幅約㎝、空輪幅約32cm、空風輪高さ約46.5㎝。地輪は高からず低からず、水輪は裾の窄まり感が強くやや重心が高い。04火輪の軒口は総じて重厚だが、軒反りがやや隅寄りで中央の直線部分が長い。四注の屋だるみにもやや直線的な部分が勝るように見える。軒隅の一端を大きく欠損するのが惜しまれる。空風輪は全体としてよく整った形状ながら風輪の側面の曲線に少し直線的なところが見られ、空輪はまずまず完好な曲線を見せる。宝珠形先端の尖り部分がわずかに欠損する。五輪塔は全体として手堅くまとめてある印象で、規模も特に大き過ぎず小さ過ぎず、逆にこれといった特長に欠けるが大和の五輪塔の一典型と言えるだろう。05造立時期について、水輪や火輪の軒口の形状から鎌倉時代にもっていくのはやや無理があり、南北朝時代に降ると思われ、おそらく14世紀中葉頃とみて大過ないものと思われる。

墓地整理に際して集積されたと思われる多数の石塔、石仏がある。全ては紹介しきれないのでここでは板碑3種を挙げる。07
(1)六字名号板碑。花崗岩製、高さ約180cm、上端を山形に整形しその下の二段の切り込みを設けた圭頭稜角式のもので、背面と側面は粗く整形したままだが、側面の正面に近い場所はやや彫成が丁寧になる。碑面中央を長方形に浅く彫り沈め、独特の書体で「南無阿弥陀佛」の六字名号を大書陰刻し、名号下の枠取り内に蓮座を平板陽刻したレリーフを配置する。向かって右の輪郭部分に、室町時代後期、弘治三年(1557年)丁巳、左に十一月十二日の陰刻銘がある。さらに輪郭下の下端近くに結縁者と思しい十数名分の法名が刻まれている。保存状態良好で良質の石材のせいもあって非常にシャープな印象を受ける典型的な大和系の板碑として見落とせない。
(2)弥陀三尊種子板碑。名号板碑の隣に立つ。06_2山形の頂部と二段の切り込みの稜角式の板碑で、山形の先端が急角度で大きく正面に枠取りを設けない。碑面上端近く中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を陰刻し、その下の左右に観音・勢至の両脇侍の種子「サ」・「サク」を配置する。月輪や蓮座は見られない。三尊種子の下の広い碑面にも刻銘が認められるが、彫りが浅く風化摩滅している。清水俊明氏によれば紀年銘と多数の結縁法名があるらしいが紀年銘は判読できないとのことである。こちらもシャープで美しい外観。造立時期は室町時代後期と推定されている。六字名号板碑よりはやや遡るのではないかと思う。花崗岩製、高さ約155cm。
(3)像容板碑。同様のものが多数あって高さ約65cm前後と名号板碑や三尊板碑に比べてずいぶん小さい。上端を山形に整形するが二段の切り込みは省かれた剣頭式で、正面中央の碑面は上・下端より浅く沈め、枠取りは設けずに中央に来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫する。蓮座は省略されているようで衣文も簡略化が進み、やや頭が大きく稚拙な出来だが、作りはこなれており愛嬌のある面相には好感が持てる。一見すると一般的な舟形光背の石仏のように見える。むろん石仏の範疇に入れることに異論はないが、上部の山形に注目すれば、やはり板碑の一種と解することができる。花崗岩製。概ね16世紀末から17世紀初め頃のものと思われる。これら三種の板碑は、それぞれ形状や大きさが異なるものの、いずれも阿弥陀如来を本尊とする点で共通する。同じ墓地で名号、種子、像容と本尊の表現方法の相違が興味深い。
 
参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
   清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術
   稲垣晋也「奈良県」『板碑の総合研究』2地域編

 
文中五輪塔の法量値は『五輪塔の研究』によります(勝手ながら数値は5mm単位で丸めました)。また、『奈良県史』には何故か五輪塔の記述がありません。奈良県の東山内などでは地区ごとに、共同墓地の惣供養塔として同様の五輪塔があり「郷塔」と呼ばれています。基本的に「さんまい」の中央にでんと構えており、古いものは鎌倉後期からあって、南北朝時代のものが多いようです。特定の個人の墓標ではなく、大勢が資金を出し合って造った墓地全体の供養塔だといわれています。塔下には火葬骨片を収納する施設があって、結縁者(造塔出資者)達の骨だと考えられています。それが大和ではところどころに今も残されているのだから驚きです。
墓地の歴史がそれだけ古いことを物語っているとともに、祖先達が大きい五輪塔を造れるだけの経済力と信仰を紐帯とした強い結束力を持ち合わせていたということを今に伝える貴重な遺産だと思います。なお、奈良県は、石仏では地蔵像が圧倒的に多い土地柄ですが、大慈仙墓地では阿弥陀像も少なからずあります。まったく余談ですが大慈仙(だいじせん)とはかっこいい地名です。


奈良県 吉野郡東吉野村小 天照寺石塔群

2013-05-08 17:24:56 | 五輪塔

奈良県 吉野郡東吉野村小 天照寺石塔群
高見川右岸、小(一文字で「おむら」と読む)の集落の中ほどの小高い場所に天照寺が位置する。01_3境内の一画に、長禄年間の神爾奪還事件で活躍した小川弘光が名高い中世の土豪小川氏の墓所として区画された場所がある。お寺の本堂下の石垣に沿って層塔2基、大型の五輪塔3基がL字形に配置されている。むろん原位置を保っているか否かは不詳とするほかないが立派な石塔が居並ぶ様子は壮観の一語に尽きる。
 層塔は高さ約4m、ほぼ同形同大の十三重の層塔で、並び立つ2基ともに基礎下の切石基壇から相輪まで完存する。02_2特に下から伏鉢・下請花・九輪・竜車・水煙・宝珠と途中で折損して接いではあるものの相輪がほぼ完全に残されている点は特筆に価するだろう。基礎側面は素面、初重軸部(塔身)は金剛界四仏の種子を線刻月輪内に雄渾に薬研彫りする。各層は軸笠一体整形の通有型で、軒は隅にいくに従ってやや厚みを増しながら反転する。03_2ともに無銘だが、種子や軒の様子など向かって右側の方がより力強く、造立時期も遡るように思われる。鎌倉時代後期、14世紀初め頃のものと考えたい。左側は軒が薄めで反りの力強さにも欠けることから、少し遅れ、14世紀中葉頃であろうか。相輪は逆に左側の方が彫成が確かで、古そうに見える。あるいは入れ替わっているかもしれない。なお、傍らにも層塔笠石が一枚置かれている。別の層塔があったのか、どちらかが補修された際に除けられたのかは定かでない。04
 大型の五輪塔は、ほぼ同形同大でいずれも三段の切石基壇を有し、その上に反花座を据えた塔高180cm程の6尺塔で、基壇を含めた総高は約2.5m。05_23基とも完存する。うち一基には基壇上端と基礎の間に径5cm余の奉籠穴があることから、基壇も当初から一具のものと考えてよい。反花座は四隅に間弁を配する複弁反花の大和系のもの。どれも無銘で種子も見られない。これは律宗系の五輪塔の特長とされる。3基のうちでは、向かって右端のものが水輪の裾窄まり感が小さく、空風輪に安定感があって古調を示す。基礎並びに台座の背もやや低いように見え、複弁反花の彫成も優れる。中央と左側のはそれよりやや遅れるようだが、3基が14世紀前半~後半頃にかけて順次造立されたものと考えられる。
 これら石塔の材質はどれも安山岩とされ、表面が全体に茶色っぽく風化し、苔や地衣類のせいもありフレッシュな断面が観察できないため、はっきりしないが、よくある花崗岩の類ではないように見える。あるいは流紋岩(石英粗面岩)や流紋岩質の溶結凝灰岩の一種かもしれない。06
 周辺にはほかに中型の五輪塔5基、石仏数基が残されている。墓所の入口北側に石仏が並べられており、向かって右端のものは、船形光背に半肉彫りされた地蔵菩薩立像で、光背面に天文一三年(1544年)銘がある。08_3持物は錫杖と宝珠の通有のスタイル。下端に素面単弁の蓮華座を刻む。石材は安山岩とされる。高さ約76㎝。また、墓所に近接して俳人の原石鼎(1886~1951)の旧居を移築した石鼎庵という施設があるが、その裏手にも小さい墓地区画があり、中型の五輪塔2基と残欠数点が集積されている。中型の五輪塔は切石基壇上に建ち、反花座は見られない。四尺半~五尺塔(計測を忘れましたので目測)で14世紀後半から15世紀初め頃のものと思われる。

 天照寺は、南泉山と号し現在は曹洞宗だが、小川氏が一族の菩提寺として弘安年間(13世紀後半)に創建した真言寺院と伝えられている。09山間の別天地であるこの地も鎌倉時代には既に興福寺の勢力範囲に組み込まれていたといい、小川氏もこの地に根を下ろした興福寺・春日大社の国民であったとのこと。一方で小川氏は代々丹生川上神社の社司を務めたとされており注目される。しぶとく中世を生き抜いた小川氏も16世紀後半には没落してしまうが、これらの石塔群は小川氏累代の墓塔と伝えられている。伝承どおり小川氏の墓塔であるか否かの判断は慎重であるべきだが、このように保存状態良好な優れた石塔が一ヶ所に集中して残されている場所はそうそうないので貴重である。

 天照寺から川を遡ることわずか数百mの距離に丹生川上神社(中社)が鎮座している。社殿前の石燈籠(重文)には、弘長4年(1264年)の紀年銘と、惜しくも摩滅が進み判読が難しくなっているが石工銘がある。石工は、般若寺笠塔婆の刻銘により伊行末の嫡男として知られる伊行吉とされている。さらに、ここから川を下った北西方向、直線距離で約7㎞程のところにある宇陀市大蔵寺には延応2年(1240年)の紀年銘とともに伊行末その人の名を刻む層塔が残されていることもあわせ、伊派が宇陀吉野方面と何らかの関係があったのではないかという指摘もある。山間の辺境に、優れた石造美術が集中している背景としてそういうことも考慮しておく必要があるかもしれない。

 小川氏墓所に隣接して薬師堂と呼ばれる建物がある。極端に大きい寄棟造の茅葺屋根、奥壁以外壁のない吹さらしで、いかにも素朴で古風な佇まいである。三方に縁側を廻らせ能舞台形式を示すとされる。天正12年(1584年)に建てられたものらしく、県指定文化財との由。装飾を排した質実簡素な建物で、釘を使っていないというから驚きである。小川氏が最後の時を迎えた頃、天正の昔からよくぞまぁ今日まで残っていてくれたと感心する。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術
   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

 

すぐ後ろに高い石垣があるせいかあまり大きさを感じませんがとにかく立派な石塔群です。幸い石垣には階段があって中段に登れるので石塔を上から観察できます。


京都府 京都市上京区 西舟橋町 地蔵祠五輪塔地輪

2013-03-03 23:25:06 | 五輪塔

京都府 京都市上京区 西舟橋町 地蔵祠五輪塔地輪
今出川通り堀川西入ル、今出川通りの北に面して地蔵堂がある。堂というよりは小さい祠と言う方が的確かもしれない。01外車のショールームの西隣のわずかなスペースに消え入りそうに祀られている。
この02小祠の基壇の石積みの中に五輪塔の地輪と思われる石塔の基礎が流用されている。花崗岩製で、層塔の基礎にしては小さ過ぎ、上端面に段形や反花がないので宝篋印塔ではない。宝塔は絶対数が少ないので可能性が低く、五輪塔の地輪とするのが妥当であろう。幅約48cm、高さ約29cm。五輪塔とすれば、元は四尺半から五尺塔程度の規模になろうか。上端面中央から北から西にかけては祠の下に隠れ、北と西の側面は基壇の中に埋め込まれている。上端面の南寄りから東寄りにかけてと、南と東の側面はほぼ全面が表面に現れているが、東側面は建物の壁がぎりぎりまで迫ってほとんど目視できない。03_2正面(南側)には左右に並んだ像容がある。いずれも舟形光背を彫り沈め、内に声聞形の坐像を半肉彫りしている。膝下には線刻の蓮華座がある。表面の風化摩滅が進行しているが、向かって右像(東側)は、合掌もしくは両手を胸前で宝珠か何かを捧げ持っているように見え、左像(西側)は、左手は胸前の掌上に宝珠、右手は施無畏印であろうか。05_2衣文は摩滅してほとんど確認できないが、左像の面相部は割合によく残り、目鼻立ちが整った穏やかな表情が見て取れる。現在東側面は建物の壁との狭い隙間からわずかに覗くことしかできないが、同じように舟形光背形の彫り沈め内に像容があることがわかる。川勝政太郎博士の『京都の石造美術』や『史迹と美術』第413号に佐野知三郎氏の報文に掲載された写真を見ると、肉髻のある如来坐像で、左像(南側)は定印の阿弥陀、右像(北側)は施無畏・与願印の釈迦である。04_2西側面もモルタルからわずかに同様の舟形光背形の彫り沈めの一部が窺える。元々この小祠は町の会所内に祀られていたものを昭和41年に現在地に移されたこと、他の側面にも同様の2体併座の像容があったという地元の人の話が佐野報文に記されている。4つの側面に2体づつ、計8体の像容があったことがわかる。各側面に2体の像容を刻んだ五輪塔地輪の事例があり(大徳寺三門の礎石に転用)、六地蔵と釈迦・阿弥陀二仏であったことから、本例も同様に釈迦・阿弥陀二仏プラス六地蔵と考えられている。佐野氏は像容の彫成や蓮弁の形状から鎌倉時代後期頃の造立と推定されている。
なお、五輪塔地輪のすぐ西側に接した祠下中央に、やや縦長の方形の石材正面に舟形光背形を彫り沈めて内に小さい阿弥陀坐像を刻出した石塔残欠が同じように組み込まれている。花崗岩製で表面の保存状態があまり良くないが、サイズから小型の宝篋印塔の塔身か笠塔婆の残片であろう。これも14世紀代のものである。
 
参考:佐野知三郎 「西陣舟橋の五輪塔地輪」『史迹と美術』第413号
   川勝政太郎 『京都の石造美術』
 
昭和46年春、偶然通りがかってバスの車窓から像容のある残欠に気付いた佐野氏が川勝博士を案内して実地調査され、報文を書かれたようです。当時の写真では、石積みとの間がモルタルで塗り固めてありますが、現在モルタルは無くなっており、その後何時の機会にか取り出されて調べられているかもしれません。
 
 この日は北野天満宮に梅見がてらにお参りした帰り(単なる観光…)、近くの回転寿司に食事に入りました。混んでいて順番待の時間がかなりあったので、時間潰しにぶらぶら今出川通りを歩いていて、ふと目をやった道路脇の小祠の石積みに像容のある石塔残欠が組み込まれてあることに気付き、立ち止まって少し観察しました。確か前にどこかで見たような気がするなぁと思いながら写真を撮っていて、そういえば『京都の石造美術』にこんな感じの写真が出ていたのを思い出し、帰宅して頁をひらくと、まさにそのものずばりでした。偶然の邂逅、不思議な縁のようなものを感じます。


和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

2012-10-07 22:58:04 | 五輪塔

和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

九度山の慈尊院から高野山に向かう参詣道に六本杉と呼ばれる場所がある。01_4峠のような場所で慈尊院方面から尾根沿いに上ってきた参詣道が尾根の上に達する地点である。03_2高野山への参詣道に沿って設けられた町石でいうと137町石と136町石の間になる。かつらぎ町教良寺(きょうらじ)地区と上天野(かみあまの)地区の境付近にあたり、古くからの往来道が交わる交差点で、かつてはランドマークになるような大きい杉の木があったのかもしれないが現在はそのようなものは見当たらず、単に峠の地名となっている。古道の交差点から高野山の方向に数mいった道の脇に方柱状の石が立っている。これが古い板碑であることを認識する参詣者はおそらくあまり多くはないだろう。花崗岩製で現状地表高は約250cm、正面幅約30cm×奥行き33cmで、全体として概ね尖頭方柱状を呈する。04地表面から約50cm程のところで折損したのを上手く接いである。地面下には1m近く根の部分が埋け込まれていると思われる。正面及び左右側面は丁寧に表面を叩いて仕上げているが、背面と下端付近の仕上げはやや粗い。02上端は山形に左右を切り落とし、約15cm程を残して正面も斜めに切り落とす。その下にやや幅の狭い二段の切り込みを設ける。切り込みは左右側面につながっている。その下は高さ約17cmの額部から約9.5cm下げて碑面とする。額部の向かって左下が少し欠損する。碑面は高さ約193cm、上端幅約29.5cm、下端幅約31.5cmで、上部中央に金剛界大日如来の種子「バン」を力強いタッチで薬研彫し、「奉為前大僧正聖基」とメリハリのある達筆の大きい陰刻銘がある。向かって左側面には「天野路 法眼泰勝」とあり、右側面に「建治二年(1276年)十一月日」と同様のタッチで陰刻されている。05_2碑面下端の入りは約5cmで、下方を少し厚くして安定を図っている。なお、背面の上端近くに幅約9cm、深さ約3cmの楕円形の穴が見られる。この穴の詳細は不明。造立銘により、聖基という大僧正だった師匠?のために、お世話になった泰勝という法眼が作らせた板碑であることがわかる。特に「天野路」という表現に注目されたい。板碑が古道の交差点に位置することから、「こっちにいくと天野方面ですよ」という道標の役目を果たしていたのではないかと考えられており、日本最古の道標とも言われている。大僧正聖基という名前は、丹生官省符神社石段脇にある180町石(文永9年銘)にも刻まれている。01_3この人物は、板碑が作られた建治2年から10年前の文永4年(1267年)に亡くなった高僧で、勧修寺長吏、東大寺別当も務め、文永3年(1266年)に行なわれた京都の蓮華王院(三十三間堂)再興の落慶法要で導師を務めているとのこと。法眼泰勝という人物については未だ定説はないようだが、木下浩良氏によれば高階氏出身の肥前法眼泰勝ではないかとのことである。なお、同じ建治2年銘の板碑が高野山奥の院、燈籠堂前墓地の玉川に近いところにある。02_2やはり花崗岩製でよく似たサイズ、意匠で共通する手法である。これらは、緑泥片岩のようにあまり薄く作れない花崗岩という石材の特性もあってか、幅と奥行きがほぼ等しい方柱状で、全体にかなり重厚感のある形状を呈するが、上部を山形にして二段に切り込みを入れるなど類型的な板碑の特長を備えている。さらに随所に鋭い彫成を残し作風も優秀で、近畿における類型的な板碑のうちでは在銘最古の部類に属する。
六本杉の板碑近くに建てられた町石についても簡単に触れておく。板碑からは、わずか約20数mの道脇の斜面にある。方柱の上端に五輪塔を整形付加した形状から五輪卒都婆、あるいは長足五輪塔などと呼ばれる。慈尊院と金剛峯寺の間には胎蔵界曼荼羅の180尊を各本尊とする町石五輪卒都婆180基が1町(110m弱)ごとに立てられている。これは金剛峯寺壇上伽藍から数えて136番目にあたる。花崗岩製。現高約2.3m、地表下に約1m程の根部があると推定されている。五輪塔部分は概ね高さ80cm程で正面に五輪の梵字を刻む。大きめの風輪下方に火輪上端が食い込んだように見える噛合せ式と呼ばれるタイプ。地輪下方の碑面の正面上方に蘇悉地羯羅菩薩の種子「ヂィ」を薬研彫し、続いて「百三十六町 比丘尼寶道」と達筆な筆致で大きく陰刻する。向かって右側面には「文永六年(1269年)八月 日」の陰刻銘が認められる。願主の寶道については不詳だが鎌倉幕府関係者や貴族等の妻女であろうか。蘇悉地羯羅菩薩はあまりなじみのない菩薩名であるが、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院中の一尊である。この136町石に限らず高野山の町石はどれもだいたい一尺(約33cm)角で長さ3m余の方柱状の花崗岩の石材から加工・彫成されており、この点では先の板碑とも共通している。



写真右上:先端部分の側面はこんな感じ、右上から2番目:天野路の文字、右上から3番目:建治銘のある側面ですが画面中央左に小さく136町石が写っています、見えますでしょうか?(カーソルを写真に合わせてクリックすると少し大きく表示されます)
 
参考:巽三郎・愛甲昇寛 『紀伊國金石文集成』

      木下浩良 『はじめての「高野山町石道」入門』

      川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』


高野山町石道は慈尊院から約20Kmの道のりを高野山まで歩くのがむろん本格ですが、5~6時間はかかるそうです。小生もいつかは挑戦したいと思いますが…。
六本杉まででも慈尊院から歩けばおそらく1時間半以上かかると思われますので、やむを得ず忙しい方は車で県道109号志賀三谷線を進み、教良寺の峠を越え上天野側に抜けてすぐの道路脇から木製の案内道標に従って左手山道に入り、徒歩約20分で六本杉に着きます。普通「道標」というと街道沿いに立つ江戸時代以降のものですが、鎌倉時代の道標というのは超珍しいでしょう。もっとも道標は目的地&方向&距離を示すものなので、この板碑より若干古い町石にも道標としての側面があります。
なお、聖基大僧正(1204~1267)は、殿下乗合事件で知られる松殿関白藤原基房の長男の左大臣藤原隆忠を父に持つ人物だそうです。