「石造美術」誕生秘話
『言語生活』158号に掲載されたコラムの後半は「石造美術」という言葉が辞書に載った話です。
終戦直後、川勝博士は、友人であった美術史の土居次義博士(1906~1991)が当時課長をしていた京都市文化課の事業として計画された京都叢書の一冊として『石造美術と京都』を著されました。これは後の名著『京都の石造美術』につながっていく著書です。円山公園の料亭「左阿弥」(当時は六阿弥と呼ばれる安養寺の子院だった)で催された打合せに集まった、執筆担当の老大家や中堅どころに混じって言語学者の新村出博士(1876~1967)がいて挨拶すると、「川勝君、石造美術という言葉はどういうことですか」と問われて説明すると、新村博士はノートに書き留められた。新村博士は当時辞典を編集しており、その材料にするとのこと。その後、昭和24年3月、新村博士編で『言林』が発行され「石塔石灯籠などの美術的鑑賞の価値あるもの」されたのが、辞書に載った最初であったといいます。その後出た『広辞苑』にもそのまま出ていたとのことです。新村博士の「美術的鑑賞の価値あるもの」というのは、川勝博士のお考えとちょっとズレてなくもないように思いますが、川勝博士は「私としてはまことに光栄に感じないではいられない」と述べるにとどめています。とにかく、権威ある辞典に載って社会的に広く認知されることに重要な意義があると考えられたのではないでしょうか。石造美術、石造物を学ぶ人は、ただ『広辞苑』の記述を鵜呑みにするのではなく、こうしたエピソードがあったことを知っておくべきではないかと小生などは思ってしまいます(と言いつつ最新版の『広辞苑』を確認してない小生です…コラ!)。ちなみに新村博士は、天沼博士とは同い年、『広辞苑』のイメージが強いですが、言語文化史にも造詣が深く、同じ京都帝大で考古学の濱田青陵教授(1881~1938)のカフェ・アーケオロジーのメンバーだったそうです。
最後に印象深い川勝博士の次の言葉を抜粋します。「戦後、文化財という言葉が生まれ、近頃は石造文化財という人もある。なるほどいい言葉だと思う。昭和八年に文化財の言葉があったら、私もそうしたかもしれない。しかし、私には石造美術という言葉を使って来た長い年月にからむ愛着もあり、これを使う学者研究者も多い。石造文化財よりも暖かみのある言葉だとひそかに思ってもいる。私の仕事は歴史考古学と美術史にわたる。できるだけ関係の学問を広くとり入れて、偏頗にならぬようにしたいというのが、私の方針である」(合掌)
間もなく川勝政太郎博士の命日です。「石造美術」という言葉は次第に使われなくなりつつありますが、石造研究は今も熱心な人々によって脈々と続いています。川勝博士そして石造美術よ永遠なれ!と空に向かって叫びたい小生であります。『言語生活』の記事をご教示いただいた先達N氏に感謝いたします。
「石造美術」誕生秘話
そして、「京都美術大観」シリーズ『石造美術』篇が翌昭和8年の4月に発行されました。確かに、古い『史迹と美術』誌をめくってみても、発刊間もない頃から石造物に関する記事が少なくありませんが、「京都美術大観」の『石造美術』篇発行の告知記事が最初で、それ以前に「石造美術」という言葉は出てきません。そして、昭和10年に『石造美術概説』を著した頃には、世間の関心も高まり、いろんな方が石造物の新資料を知らせてくれるようになったらしく、石造美術専門の川勝と認められて、もう後に引けなくなってしまったということです。この『石造美術概説』については、服部清五郎氏の名著『板碑概説』に触発されて書いたのだとずっと後になって服部氏本人にカミングアウトされたというエピソードがあるようです…。
ただ、「石造美術」という言葉に違和感を持つ人もいたようです。昭和12年、川勝博士は当時文部省技師だった阪谷良之進氏(1883~1941)の推薦で重要美術品認定の調査嘱託員に任命されますが、就任に際して阪谷技師から伊東忠太博士(1867~1954)に「今度嘱託になった石造美術の川勝君です」と紹介され、天沼博士の師匠筋に当たる日本建築史学界の最長老の前で、川勝博士はガチガチになって挨拶したそうですが、伊東博士から「石造美術とは変な言葉だな」と言われたそうです。しかし、ダメ出しまではなかったということでしょう。昭和12年というと川勝博士35歳頃、伊東博士は73歳頃の話です。さて、「石造物、石造遺物などでは、いくら対象が石でも固すぎる」というくだりは、少しジョークが入っていますが、実は重要な部分で、本の売れ行きもさることながら、やはりこの分野を広く普及啓発しなければならないという思いがあったと解するべきでしょう。専門家だけでなく一般にも受け入れられやすくあるべしというお考えがあったと思われます。必ずしも美術的なものばかりではない石造物にも工人たちの美的探究心や技術的向上心を汲んで、そこはあまりこだわらないでおくというあたりに苦心の跡が見て取れるように思われます。流石の伊東博士はその辺りを見抜いておられたのかもしれません。(続く)
「石造美術」という言葉について
「石造美術」誕生秘話
「石造美術」という言葉の誕生について、産みの親である川勝政太郎博士が述べておられるコラムがあるということを先達からお教えいただきました。筑摩書房の『言語生活』第158号(1964.11)という雑誌です。川勝博士が大阪工業大学で教鞭をとっておられた時分のことで、「石造美術といえば誰でも石で造った美術品のことだと理解されるであろう。そして古くからある言葉だと思われる方が多いが、実はこの言葉は私の研究上の必要から、三十年ほど前にはじめて生まれたものなのである」という書き出しで始まるこのコラムについて、少しご紹介したいと思います。
それによると、川勝博士は、恩師の日本建築史の第一人者で石塔や石灯籠研究の草分けであった天沼俊一博士(1876~1947)の石造物研究を受け継ぎ「石造物専門の研究を推し進めてみたい」と考えられたそうで「石塔と石灯籠に限らず、もっと広く各種の石造物を総合して研究する必要のあることに思い至った」と述べておられます。そして石の工人が作るあらゆるものを総合的に研究対象にしないと、日本の石の文化を明らかにすることができないと考えたと言っておられます。注意してほしいのは、川勝博士が「石造物研究」「石造物専門の研究」「各種の石造物」という言葉を使っている点です。
その後、中野楚渓氏(?~?)の計画で『京都美術大観』12冊を、当時気鋭の中堅若手研究者が執筆することになり、そこに石造物研究の川勝博士も加えられたそうで、昭和7年の秋、ここからは特に重要なので原文を抜粋します「その時に書名を何とするかが問題になって、編集会議をその頃京都の河原町三条南入にあった一品香という中華料理店の階上で開いた席上で、いろいろと考えた。石造物、石造遺物などでは、いくら対象が石でも固すぎるというので、ついに石造美術とすることに決まった。こうして石造美術なる新しい言葉が誕生したのである。必ずしも美術的なものばかりではないにしても、それらを作った工人たちが、できるだけ形のいいもの、いい技術を示そうとしたものであるから、余りこだわらないで石造美術とよんで各種類を一括する名称としたわけである。」川勝博士をはじめ当時気鋭の研究者が集まった編集会議において「石造美術」という言葉が産まれたことが分かります。(続く)
奈良県奈良市小川町 伝香寺の地蔵石仏
伝香寺は、筒井順慶の菩提所として再興され、現在、筒井氏の総菩提所になっている。境内には奈良三名椿のひとつ「散椿」があって、石造物があちこちに残されている。
本堂西に一際存在感を示している大きな地蔵石仏は、働(由留木)地蔵と呼ばれている。おそらく不安定でグラグラしていたことからそう呼ばれているのであろう。現状は後ろに鉄製の支えがあって安定が保たれている様子である。元々ここにあったのではなく、太田古朴氏によると明治初年に北方、眉間寺の門前から移されたものらしい。花崗岩製。大きい舟形光背面に地蔵菩薩立像を厚めに半肉彫している。右手に錫杖、左手に宝珠の通有のお姿で、宝珠が欠損し、宝珠の欠損部分にお供え物などが置かれている。光背面の頭上にキリーク、左右にカ、カン、マンなど三文字ずつ計六文字の梵字が刻まれている。これは地蔵、大日、釈迦、不動、普賢、文殊の種子らしい。種子の下、向かって右に「為三界万霊法界衆生…」左に「永正十二年乙亥七月廿五日…」の陰刻銘があり、さらにその下方にも結縁者名と思しき文字がたくさん刻んである。永正12年(1515)の造立で、三界万霊供養の古い事例と知られる。下端には複弁反花をめぐらせ、その上に覆輪付単弁請花の蓮座を設け、手足の指、衣文や錫杖の細かい部分もしっかり表現されているが、全体にやや頭でっかちなプロポーションで、面相も厚い唇に微笑を浮かべた屈託のない表情だが、丸いM字形の眉が上瞼からぐっと突出してお世辞にもハンサムとは言えない。この丸いM字形の眉は、奈良の石仏を歩くとしばしば見かけるお顔である。高さ255㎝、像高約180㎝もあって、写真で見るよりずっと大きく感じる。奈良付近でよく見かける室町時代の典型的な地蔵石仏の中でも屈指の大作で、保存状態もよく、紀年銘のある標準作としてよいだろう。
もう一つ、飛行地蔵、飛雲見返り地蔵と呼ばれている石仏もご紹介したい。本堂西側の宝物堂には、裸地蔵あるいは春日地蔵と呼ばれる裸形着装の地蔵菩薩立像(木彫)が安置されている。安貞2年(1228)の銘があり、春日明神本地仏として造立されたものらしい。その宝物堂の東側の軒先に小さい一石五輪塔とともに小ぶりの石仏が置いてある。石仏が載せてある側面を二区に輪郭を巻いた低平な方形台状の石造物も面白いもので、上端には繰形状の段形を設けている。笠塔婆の基礎か石造露盤の上端を削り取ったものかもしれない。いずれにせよ石仏と本来一具のものではない。この台石の上にある石仏が非常に珍しいものである。平滑に仕上げた石材の正面に地蔵菩薩立像がレリーフされているが、石仏が彫ってある石材は、下方は方形、上方が円形になって上端は欠損している。また、背面は粗く整えただけで正面だけを丁寧に仕上げている。この方形と円形は五輪塔形の地輪と水輪と見て間違いはなく、つまり石仏というよりは火輪部以上を欠損亡失した一種の半裁五輪塔とすべきであろう。下側も欠損している可能性もあるが、現状高さ38㎝、幅24㎝、像高25㎝。花崗岩製。像容は、薄肉彫の踏み割り蓮華に立ち、左手の宝珠を胸元に掲げ、右手の錫杖を肩に斜めに担いで、衣の袖裾を翻しながら左方にお顔を向けて振り返っているお姿である。躍動感のあるデザインで、確かに雲に乗って飛行しながら後ろを振り返っているように見える。大和には背光五輪塔や半裁五輪塔などの平板で二次元的な五輪塔は数多く見られ、中には像容をあわせて刻んだ例もたまに見かけるが、ここまで念の入ったレリーフを施した事例は他にないのではと思う。向かって右下に「妙法」の陰刻がある。紀年銘はないが、造立時期は室町中期と推定されている。同じモチーフの北御門町の五劫院の見返り地蔵には永正13年(1516)銘があり、その頃の造立と考えてよいだろう。脇の一石五輪塔は、ありふれたものだが、箱仏や背光五輪塔が大多数を占める奈良市内ではあまり見かけない。
長い事サボっていました、久しぶりの記事です。先日、奈良市内に泊まるついでがあったので、伝香寺さんを訪ねました。激レアの飛行地蔵(半裁五輪石仏レリーフ)は、太田古朴さんの著書を見て、前から気になっていましたが自動車だとなかなか立ち寄れなかったところです。幸い、宿から徒歩で行ける距離だったので行ってきました。元は、鑑真和上の高弟思託律師が建てた実円寺というお寺だったそうですが、筒井順慶の母堂が檀越になって再興、伝香寺と改称されたそうで、現在も律宗(西大寺ではなく唐招提寺流)だそうです。時間の都合もあってかけあしの見物、じっくり観察というわけにいきませんでした。文中法量値は『奈良県史』第7巻石造美術編によります。境内の筒井家の墓域とされる一画にある「元の定次の五輪塔」と言われている大きい五輪塔は、反花座と地輪だけの残欠で紀年銘はありませんが、筒井定次の時代よりもっと古い時代のものと思われます。四方に梵字があって、上端に枘穴があります。反花座の蓮弁が一辺当たり7葉もあるのはちょっと珍しいのではないでしょうか。実円寺時代の遺物かもしれません。同区画の中央奥にある六字名号碑は五輪塔レリーフの中に南無阿弥陀仏を大きく刻み、大永4年の紀年銘のほかに八万四千本供養…逆修結衆…という少々気になる字句があります。ほかにも面白い石造物がありますが、時間の関係でまた今度ということで…。ちなみに散椿は散り方が潔いため武士椿とも呼ばれるそうです。奈良三名椿のほかは、東大寺開山堂の糊こぼし椿、百毫寺の五色椿だそうです。
【参考】
清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 昭和59年
土井 実 〃 第16巻 金石文(上) 昭和60年
太田古朴『美の石仏』 昭和37年