昨年2020年に訪ねた石造美術のうち、いくつか画像をアップします。画像は近江、美濃、三河、大和です。
あけましておめでとうございます。
昨年はぜんぜんUPできませんでした。情けない次第。
昨年見てきた近江の宝塔の写真の一部です。あまり知られてない?と思いますのでせめても。
滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その2)
三重層塔の東側の少し高くなった勅使墓と呼ばれる場所に、二基の大型の五輪塔と立派な宝塔が据えられている。宝塔は、壇上積式基礎の各側面に格狭間を入れ、三方の格狭間内には近江式装飾文の開花蓮のレリーフを刻む。格狭間内を素面にした面の束部左右に「奉造立之/大工平景吉」、格狭間内に「大願主/正安四年(1302)壬寅十月日/阿闍梨□□」の陰刻銘がある。塔身四方に扉型、首部には勾欄型を刻み、笠石の重厚な軒口、笠裏の二重垂木型や露盤と隅降棟の造作に抜かりない近江の石造宝塔の一典型である。残念ながら相輪を失って別の小さい残欠が載せてある。後補の相輪を除く高さ約139㎝、花崗岩製。平景吉は甲良町西明寺の石造宝塔(嘉元2年(1304))の作者と同じ人である。重要文化財指定。
宝塔の東側に南北に並ぶ五輪塔も重要文化財指定。北側の五輪塔は高さ約135㎝、花崗岩製。地輪の一面中央に一行「嘉元二(1304)甲辰九月五日」の刻銘がある。力強い軒反りを見せる火輪は地輪と一具と見て特段支障ないように見えるが、空風輪と水輪は小さ過ぎ別モノと思われる。水輪にだけ梵字があるのも不審である。南側の五輪塔は、高さ約140㎝。花崗岩製、地輪のアの面に「貞和五年(1349)巳丑/八月廿九日」「大森之廿五三昧/一結衆」と刻まれている。「大森」は石塔寺の北東方にある現在の大森町のことだろう。紀年銘とともに地名と葬送に関係する講衆による造立と知られる点で貴重な刻銘である。従前こちらは寄せ集めではないとされるが、よく見ると、どうもこちらも水輪がやや小さいし、各部に刻まれた梵字の大きさや刻み方に不揃い感がある。寄せ集めの可能性が否定できないと思われる。
無数の小型五輪塔・石仏に混じって注目すべき石造物が散見される。主だったところは田岡香逸氏や池内順一郎氏らが紹介されているが、いくつか紹介する。
三重層塔の北側、一番奥まったところにある層塔の残欠は、六字名号を刻んだ五輪塔の地輪と思しい部分を初層軸部に見立て、笠石4枚分を積み重ねたもの。笠石は一具と思われ、風化が進んでいるが花崗岩製で、軸笠別石の構造形式や薄目の軒口と緩い軒反の様子などから鎌倉時代前期に遡るものと推定されている。
層塔エリアの北西隅付近にある宝篋印塔は、相輪上端を欠き現高約110㎝。ちょっと見ると各部揃っているように見えるが、似たサイズの部材をうまく寄せ集めたものと先学の意見はだいたい一致している。無銘だが、特色ある遺品である。笠は上5段下2段で二弧輪郭の隅飾の近江ではよく見るものだが、塔身の金剛界四仏の種子のうちなぜかウーンにだけ月輪を有している。また、基礎上小花付単弁の壇上積式で、側面格狭間内に、孔雀、宝瓶三茎の未開敷蓮(蕾)、変形三茎開花蓮、花托と散蓮という各面ごとに異なる近江式装飾文様のレリーフを刻む。非常に装飾的な意匠である。寄せ集めだが、だいたい14世紀中葉頃前後のものと考えられる。
そのすぐ近くにある宝篋印塔は塔身の代わりに五輪塔の水輪を入れている寄せ集め。上5段下2段の笠石は、隅飾二弧輪郭内には蓮座円相を入れ、各面とも円相内に地蔵菩薩と思われる「カ」の種子を刻んでいる。
丘陵麓、本堂前庭の南東隅にある小石祠の台石に転用されている宝篋印塔の基礎は上反花式で、側面は輪郭格狭間、開花蓮のレリーフで装飾され、束部分に「右志者為二/親聖霊并法/界衆生平等/利益也/建武四年(1337)/八月廿四日/孝子敬白」の刻銘がある。
ほかにもいくつか注意すべきものもあるが、きりがないのであとは先学の報文を参照されたい。(続く)
大層塔の背後側の一画。ここは一石五輪塔が多い。奥の方に小さく層塔(残欠)が見えます。
重文の宝塔。平景吉さん、いい仕事してます。
重文の五輪塔。寄せ集めの匂いがプンプンします…
一見違和感はないですがこれも寄せ集めです。しかし基礎の意匠が素晴らしい。
笠の隅飾に注意。これもまったくの寄せ集めだけど見た目は何となく収まりはいい感じ。
建武銘の宝篋印塔の基礎