石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県奈良市北京終町 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏

2016-11-20 23:11:59 | 石仏

奈良県奈良市北京終町 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏
 京終地蔵院はJR京終駅の北方、小さな墓地を伴ってひっそりと民家の間にある。堂宇は民家風の近代のものだが、幻の服寺(福寺)の末流の一端を担う歴史を持つと伝え、今も地元の厚い信仰を集めている様子。道路に面した北側、吹きさらしのスレート屋根の下に南面する大きい石仏がすぐに目に入る。
 元は現在地の南西、京終池の南西の辻堂にあったとのこと。手前に置かれた供物台の側面に「辻堂佛前」と刻銘がある。江戸時代には京終阿弥陀として広く信仰を集め、享保の頃に一宇を設けて祀られたとのことなので、供物台はこの頃かそれ以降のものと考えられる。その辻堂(阿弥陀堂)のおそらく本尊だったものが、いつの頃か現在地に移されたということらしい。元の所在地に興味がいくが、そもそも京終池というのが何処なのかわからない。駅の南方には、現在は跡形もないが、古い航空写真をみると大きい池があったことがわかるのでこの池のことだろうか…。それとも、京終池の南西と現在地の南西が同じ辻堂の元位置ということは、現在地付近に京終池があったともとれるが、よくわからない。
 花崗岩製。二重の蓮座の上に大きい舟形光背を作り、中央に来迎印の阿弥陀如来立像、左右にそれぞれ小蓮座に立つ観音・勢至菩薩を厚肉彫している。観音は蓮台を両手に戴き、勢至は合掌する。西方浄土から信者を迎えに来る弥陀三尊の像である。三尊とも舟形後背面に小花付覆輪単弁を薄肉彫で表現した頭光円を配する。無銘。プロポーションも整い、童顔で穏やかな面相。衣文は簡潔かつ流麗で蓮座の蓮弁も優美である。作風は作り慣れた感じで、細部まで丁重に作ってあり全体によくまとまった印象だが、伸びやかさや力強さ・豪放感に欠ける。こうした特徴から鎌倉末期から南北朝時代頃の造立とされている。概ね14世紀中葉頃といったところか…。現状高約173cm、幅約102cm、阿弥陀は像高約127cm、脇侍は80cm前後。惜しくも光背上端を欠失しているので、元は2m近い総高があったと推定される。舟形背光は前面の大きさに比してかなり薄く作っている。
 京終という地名が示すように、この付近は、古い奈良の街の南のはずれ、境界に当たる。一方、来迎弥陀三尊というモチーフは浄土転生であり、葬送地との関連が想起される。周囲に中世に遡る小型の箱仏が多数並べられていることなどから、街はずれにあった葬送地の惣供養、あるいは墓地の迎え本尊的な石仏だったと考えられる。


赤い前掛けは信仰のしるし、どけるのは控えました。


足元も丁重に作られ、抜かりがない…


箱仏などが集められている。墓地にはでっかい空風輪も見られた。


横から見ると意外とペンペン…

参考:川勝政太郎『日本石造美術辞典』
   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術編
   日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』

 北京終町は「ペキンおわりまち」ではなく、「きたきょうばて」と読みます。京、つまり都市部がはてる、終わるところ、きょうばて…ちょっと物悲しさを含んだ不思議にノスタルジックな響きのある地名です。古風なJRの駅舎の雰囲気がいっそうその印象に輪をかける場所です。


三重県伊賀市石川穴石神社宝篋印塔の相輪が盗難!

2016-11-09 00:58:16 | 宝篋印塔

三重県伊賀市石川穴石神社宝篋印塔の相輪が盗難!
三重県伊賀市石川の穴石神社の宝篋印塔の相輪が盗難に遭ったとのことです。何度か訪ねていたので大ショックです。市の指定文化財で吉川弘文館『日本石造物辞典』452頁、三重県の冒頭を飾る(五十音順の関係)宝篋印塔です。南北朝時代、延文4(1359)年の刻銘があって基礎下の基壇から相輪まで完存する貴重な紀年銘資料です。10月初め盗難に気付いた氏子総代が警察に被害届を出されたとのこと。7月初めには無事だったようで、この間に何者かが盗んでいったらしい。長さ60㎝程の相輪も、言ってみれば細長い花崗岩の塊なのでかなりの重量ですが、普段ひと気のない神社なら一人二人で抱えて持って行くことも不可能ではない。元は西方の山中の寺跡から移設されたとも言われているようですが、それにしても造立されてから六百年以上も風雪に耐え季節の移り変わりをこの地で見てきた石塔です。かけがえのない地元の宝でもあります。今になってこういう被害に遭って嘆かわしい限りです。言うまでもないことですが、古い石塔は、長い間に倒壊したり、抜き取られたりして残欠になってしまうことが多く、各部完存で揃っていること自体が稀です。また、紀年銘のある石造物は非常に少なく、紀年銘のない大部分の石造物や残欠を考えるうえで年代観のヒントを与えてくれる紀年銘資料はたいへん貴重な存在です。各部が揃っている標識的な資料としても一層価値が高いわけです。相輪がなくなれば史料価値は半減してしまう。惜しまれます。だいたい相輪だけ持って行って何になるというのか…、罰当たりな犯人に告ぐ、直ちに返却しなさい。お天道様は見ているぞ、仏罰&神罰&刑事罰の報いを受けるべし。(HDの写真データがすぐ出てこない…)(あったありました…)

格狭間がちょっと変わっています。総高約180余㎝、塔高はだいたい165㎝程です。基礎や笠石が全体にちょい腰高な感じで、鎌倉期のような安定感や豪放感は感じませんが意匠的によくまとまった印象です。相輪も折れたりせずよく残ってました。基礎の一面に消えかかった刻銘があります。こんな形で相輪を失うとは残念無念、憤懣やる方なしです。