石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 宇陀市室生区無山 牟山寺五輪塔ほか

2009-11-06 20:28:15 | 五輪塔

奈良県 宇陀市室生区無山 牟山寺五輪塔ほか

無山から多田に通じる県道西側、無山集落の北端近く、丘陵裾に南面する檜尾山牟山寺。01境内東端の少し高い場所に真新しい層塔と並んで立派な五輪塔が立っている。従前花崗岩製とされているが、黒っぽい色調や多孔質の表面から通常の花崗岩とは明らかに異なり、この地域でよくみかける室生火山岩系の石材で流紋岩質溶結凝灰岩ないし安山岩とすべきと考える。02上下2段の切石基壇をしつらえ反花座をその上に据えて地輪を載せている。反花座下の基壇中央には空間が設けられていることが基壇石材の隙間からうかがえる。下基壇は大小7枚の長方形の板状の切石石材を方形に組み合わせ、約1.3m×約1.43m、高さ約23.5cm、上基壇は大小5枚の石材を組み合わせたもので約0.95×約1.1m、高さ約19cm。反花座は幅約77.5cm、高さ約23cm、側面高約11.5cm。一辺あたり主弁4枚の複弁式で隅弁が小花になる大和系のもの。各蓮弁の彫成は丁寧に仕上げられている。受座部分は高さ約1.5cm、幅は基底部で約59cm、上端で約57.5cm。五輪塔本体は塔高約168cm、地輪は幅約54cm、高さ約42cmとやや背が高く、水輪径は約57cm、最大径がやや上寄りにあるが裾がすぼまる感じはそれ程強くない。05_3火輪は軒幅約51cm、高さ約33.5cm、軒口の厚みは中央で約10.5cm、隅では約14cmと隅にいくに従って厚みを増しながら力強い軒反をみせる。風輪径約33cm、空輪径約32cm。空輪が相対的に大きいのが特長で、宝珠形というよりは球形に近く先端の突起部の突出が割合はっきりしている。水輪や火輪、空風輪の曲線部分はスムーズな弧を描き直線的な硬さはほとんど感じられない。06こうした外形的特長を勘案すれば概ね14世紀中葉頃の造立とみて大過ないものと考えられる。さらに本堂前左手の生垣に隠れるようにして小型の五輪塔が残されている。流紋岩質溶結凝灰岩と思われる灰色の火成岩製で高さ約110cm、反花座を備え、各輪に五輪塔四門の梵字を刻む。正面南側に「實菴如貞大/丙寅十二月二日」の銘がある。年号はないが、丙寅の干支、反花座や五輪塔の形状から恐らく永禄9年(1566年)と推定される。12月2日は命日と推定され、造立はそれから間もない時期であろう。また、境内入口の石段下東側の石垣下に結界石がある。白っぽい火成岩製の板碑型で、現高約65㎝、幅約24.5cm、厚みは約14cm。頂部を低い山形に切って(山形は前後左右を斜めに切り落として先端を尖らせている。扁平な四角錐でピラミッド風or宝形造風というとイメージしてもらえるだろうか…)二段の切り込み条線を正面から両側面にかけて刻んでいる。背面は粗叩きのままとし、平らに成形した正面外縁部を幅約3cm程に枠取りの輪郭として碑面を幅18cmの長方形に浅く彫り沈め、独特の書体とタッチで「大界外相」と大書陰刻している。紀年銘はないが室町時代中期のものと考えられている。用途としてはいわゆる結界石だが形態的には板碑の範疇でとらえられるべきものであろう。

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術 名著出版 1984年

   設楽博己・村木二郎・村木志伸 「奈良県山辺郡・宇陀郡の五輪塔調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第111集 2004年(この文献には「松尾山寺」の五輪塔として登場しています)

この牟山寺に止住したという西念上人は都祁来迎寺の中興四世了尊の弟子といい、室生寺の竜穴に参篭して雨乞いの修験を行なったとされる人物。近世まで日照りになると現在西念堂に安置されている上人像を籠に乗せて室生竜穴神社まで運んで祈雨神事が行なわれていたといいます。この人は恐るべき長寿を保ち(応安元年(1368年)に98歳!(ほんまかいな?)ってことは1270年生まれですか?)、13世紀末から14世紀代にかけてこの地域に多数の石造物を勧進し造立しているようです。東山内の中世石造物を考える上でたいへん興味深い人物ですが詳しいことはわかっていないようです、ハイ。


和歌山県 東牟婁郡那智勝浦町那智山 青岸渡寺宝篋印塔

2009-11-03 19:24:16 | 和歌山県

和歌山県 東牟婁郡那智勝浦町那智山 青岸渡寺宝篋印塔

西国三十三箇所の第一番として著名な青岸渡寺。観音堂の向かって右手、地蔵堂の脇、鐘楼の手前に重要文化財指定の宝篋印塔がある。01目を見張る大きさで、基壇をあわせると高さはゆうに4mを越える。04塔高は約11尺9寸というから略々12尺、約3.6mに達する。花崗斑岩製(一説に石英粗面岩つまり流紋岩製、いずれにせよこの地元産の石材である)。元々この場所にあったわけではないようで、大字市野字滝原という場所(不詳、市野々の間違いか?)にあったという。また、古い写真をみると境内においても移動しているようである。自然石を積んだ上に長短の延石を方形に組み合わせた基壇(上端一辺約2.2m、延石部分の高さ約33cm)を設け、上端に幅約145cm、高さ約23cmの反花座を据えている。この基壇は当初からのものか否かは不詳。延石部分は一具と見ても支障はないように思う。02反花座は長短3種類の石材を組み合わせた構造で、東側だけが継ぎ目がなくおそらくこれが正面と考えられる。逆に西側は左右2箇所に継ぎ目が見られる。反花座側面高約11cm、蓮弁の弁先と側面との間が7.5cmも空いているのが特長。蓮弁は抑揚感のある複弁式で隅弁は間弁にならないタイプ。05ただし隅弁は複弁にせず覆輪付の単弁としている。両隅弁を除くと一辺あたりに三枚の主弁を配し、各主弁間にはそれぞれ間弁(小花)を挟み込む。上部の受座は幅約107cm、高さは非常に低く5mm程しかない。基礎は幅約104cm、高さ約49.5cm。南北に継ぎ目が見られることから東西2石からなるものと考えられ、西側を除く各側面とも外縁を枠取りをして輪郭を残し内側を彫り沈めて格狭間を入れている。輪郭の幅は左右が約8cm、上下が約6cm、格狭間は幅約78cmあり、輪郭内いっぱいに大きく表現され、花頭部分がまっすぐであまり肩の下がらない整った形状を示す。06_2西側の側面のみは素面とし、6行にわたり「依先師権律師/慶賢宿願所令/造立也矣/元亨二壬戌三月日/願主禅尼善覚/大工藤井景成」の造立銘が陰刻されており、肉眼でもなんとか確認できる。慶賢という師の宿願に基づいて善覚という尼さんが藤井景成という石工に作らせたというもの。これらの人々がどういう人物なのかは不詳。元亨2年は鎌倉時代末期、1322年。基礎上には幅約83.5cm、高さ約25cmの別石反花座を載せ、塔身を受けている。03側面高は約11㎝、基礎下の反花とよく似た意匠の抑揚感のある複弁式の蓮弁だが、両隅弁を除くと主弁は一辺あたり1枚で、両隅弁も複弁とし間弁にも覆輪を付加してより装飾的になっている。側面と弁先との間はあまり開かない。受座は幅約59cm、高さはほとんど計測できないほど低い。塔身は幅約52.5cm、高さ約52cm、各側面とも蓮華座上の月輪を陰刻し、金剛界四仏の種子を雄渾なタッチで薬研彫している。07笠は上6段下2段で、下2段は別石としている。軒幅約93cm、軒厚は約10cm。別石の段形は上段幅約77cm、下段幅約59cm、上段下面は意図的に水平にはせずに斜めに切っており、四隅に稜線がうっすら出来ている点も面白い表現である。隅飾は基底部幅約26cm、高さ約30cm。軒から3cmほど入って立ち上がり、直線的にやや外傾する。三弧輪郭式で内に径約10.5cmの円相月輪を平板陽刻し、中に種子を陰刻している。隅飾の種子は一様でなくバイ、イーなどが確認できる。これは十二天中の天地日月すなわち梵天、地天、日天、月天を除く八方天、つまり東北伊舎那天(イー)、東方帝釈天(イ)、東南火天(ア)、南方閻魔天(エン)、西南羅刹天(ニリ)、西方水天(バ)、西北風天(バー)、北方毘沙門天(バイ)を表しているとの考え方が示されている。さらによく見ると月輪の位置がカプスの中央にあったり、やや下方にあったりと各面で微妙に違っている点もおもしろい。相輪はやや側面の直線部分が目立つものの均整のとれた伏鉢、複弁八葉の下請花、逓減が強く凹凸をはっきり刻んだ九輪、小花付素弁の上請花と下端のくびれがやや強めの宝珠といずれも優れた意匠表現を示している。優美な反花座を用いる装飾的な表現やところどころ別石とする点が特徴で、全体に少し縦長な印象でどっしりとした安定感には欠けるものの、規模の大きさの割に細部までよくいきとどいた丁寧な作りに石工の並々ならぬクラフトマンシップを感じる。隅飾の一部を少し欠く以外に大きな欠損もなく遺存状況良好で紀年銘も貴重。なお、西側の鐘楼にかかる梵鐘には2年後の元亨4年の陽刻銘がある。また、地蔵堂を挟んだ南側の目立たない場所にも同じくらいの大きさの立派な江戸時代の宝篋印塔がある。

写真右上:あまり紹介されたことがないようなアングルからのカットです。写真左2段目:反花座、基礎の格狭間などの様子、写真右中:隅飾の月輪にご注目、位置が微妙にずれています。写真左3段目:笠下別石の段形。中段下端にわざと傾斜をつけている点は心憎い程の念の入れようです。写真右下:相輪です。残りがいいです。写真左下:銘文の後半部分。元亨二の文字がわかると思います。

文中総高ないし塔高以外の法量値はコンベクスによる略測ですので多少の誤差はご容赦ください。大き過ぎて笠の軒から上はコンベクスでは計測不能でした。反花の蓮弁など地理的に近い大和よりもむしろ京都の宝篋印塔に近い雰囲気を感じました。なお、参拝客の怪訝そうな視線を背中に感じながら基壇に上って単身コンベクス計測を敢行しておりましたところ、お坊さんにやんわりとご注意を受けました。この場をお借りしましてお詫び申し上げます。良識ある皆さんはまねをしないでください。まぁ普通の人はこんなことはしませんね、ハイ。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」東京堂出版 1998年

   服部勝吉・藤原義一 「日本石造遺宝 上」大和書院 1943年

   巽三郎・愛甲昇寛 「紀伊國金石文集成」熊野速玉大社 1974年

   児玉義隆 「梵字必携」朱鷺書房 1991年

拙ブログもおかげさまをもちまして今回で通算200回を数えることになりました。今後ともご愛顧、ご指導賜りますようお願い申し上げます。