滋賀県大津市坂本本町 香炉岡弥勒石仏
石仏は、比叡山延暦寺西塔の中心的施設である釈迦堂(転法輪堂)の裏山、通称「香爐岡」と呼ばれる尾根の先端ピーク付近にある。釈迦堂後方の西側から相輪橖へ向かう山道を北に進み、相輪橖を正面に仰ぐところで道を右手に折れると間もなく、疎らな木立の空地の真ん中にポツンと石仏があるのが目に入る。石仏の周囲は樹木や雑草が切り払われ、空が見える明るい広場のようになっているが、かつては背丈を覆うような熊笹に埋もれていたとのことである。
周辺は平坦に整形された目測約15m×20m、高さ1.5m程の土壇状になっており、堂宇の遺構の上に石仏があることが見て取れる。江戸時代初め頃に書かれたとされる『比叡山堂舎僧坊記』には「弥勒堂 旧跡石仏弥勒之大像有之」の記載があり、これに当たるものと考えられている。弥勒堂は戦国期の兵火で焼失し、再建されることなく長い間忘れ去られていたところ、昭和34年頃、釈迦堂解体修理の際に、たまたま横川に参詣する篤信の一老女がこの石仏の存在を延暦寺関係者に語ったとのことで、そのことを聞きつけた川勝政太郎博士らが現地を調査し、世に知られるようになった。
石仏はほぼ南面し、現状地上高約2.1m。二重円光背を負い蓮座に坐す如来像で、上端に反花を刻み出した台石と、敷茄子以上の本体の二石からなる。花崗岩製と見られる。反花座のある台石は幅約130㎝、反花は一見中央に稜を設けた単弁に見えるが、小さい彫くぼめが2つ認められることから子持ち複弁とすべきかもしれない。反花の蓮弁は前面から左右側面まで終わり後方には見られない。敷茄子は低平で、その上の蓮座は三重の同心円を半裁したような蓮弁で、小花も同様の意匠である。光背は幅約116㎝、厚さ約15㎝。像高約136㎝、髪際高約120㎝。体躯と頭部のバランスがよく、肩から胸にかけて上半身の肉取りやボリューム感のある腹部から広くとった両膝など、全体的に安定感がある。ほとんど丸彫りに近い手法で、特に右手、うなじは完全に彫り抜いている。両手を膝前に垂らしているが、手先が欠損磨滅して印相は明らかでない。左手の様子から降魔印と推定される。衣文も木彫風で写実的である。全体に表面は焼損によると見られる剥落と風化でかなり荒れている。特に面相部は痛みが激しいが左眼から額にかけては面影をとどめている。光背の向かって右側が大きく欠損しているが、光背面には、頭光に5つ、身光に6つ、合計11個、径約17㎝の円相を浅く彫沈め、内に梵字を平板陽刻している。肉眼では判読しづらいが、採拓された川勝博士によれば、頭上「アーク」、向かって左側、上から「アー」「アク」「ア」「ヨ」「ウーン」、右側上から(欠)「アン」(欠)(欠)「バン」とのことである。さらに、光背の背面には中央に外径約68㎝、内径約50㎝の下方に蓮座を持つ月輪を平らな突帯で刻み出し、内に大きく釈迦如来の種子「バク」を平板陽刻している。その下方左右にも同様の手法でやや小さく月輪と種子を刻んでいる。「マン」「ウーン」で文殊菩薩と普賢菩薩と考えられ、釈迦三尊である。普賢菩薩の種子は通常「アン」であるが、川勝博士によれば「ウーン」も用いられるとのことである。その下方には約33㎝四方、深さ約12.5㎝の内に二重に段を設けた方形の奉籠穴を穿っている。手の込んだ奉籠穴で、失われた蓋石があったことが容易に推定できる。この奉籠穴の下方にも半肉彫りの蓮座状の高まりが見られる。奉籠穴の脇には文字が刻まれていたような方形の窪みも見られるが磨滅しているため不詳。二重円光背を負い光背面に円相種子を設けた石仏が京都付近に点在し、川勝博士により天台系あるいは叡山系の石仏と名付けられている。この石仏はその最古の例とされ、造立時期は、藤原期の余風を残す鎌倉時代初期とされている。
二重円光背に円相梵字が叡山系…
堂々とした正面観に比べると側面観はちょっとペンペンな感じ…後頭部に注目、くり抜いています。
背面の様子。何か文字でも刻んであったような方形枠がうっすら見えます…
剥落しておいたわしい面相部…
肘のところは完全に彫り抜いています…
奉籠穴…
蓮座と敷茄子、台石の反花の様子…膝元のギザギザは何でしょうか?カエルの足みたいに見えますが…
参考:川勝政太郎「比叡山香爐岡石仏とその様式」『史迹と美術』第300号
川勝政太郎『京都の石造美術』
栗東市教育委員会(財)栗東市文化体育振興事業団編『忘れられた霊場をさぐる』3-近江における山寺の分布-
蓮弁や梵字など他に例を見ない非常に手の込んだ意匠表現で、丸彫りに近い彫成法も考え合わせれば、往時の威容と壮麗さが偲ばれます。北嶺の一画を占めた堂宇の本尊であっただけのことはある流石の石仏です。そういえば、山麓や末寺には石造物が多いのに当の比叡山には石造物を見かけない。田岡香逸氏などは、古い石造物はまったく無いとまで言っておられますが、そうでもない。くまなく見て回ったわけではありませんが、中世に遡りそうな小型石仏や五輪塔などはあちこちで見かけます。この石仏はその中でも別格のエース的な存在でしょう。
奈良県奈良市北京終町 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏
京終地蔵院はJR京終駅の北方、小さな墓地を伴ってひっそりと民家の間にある。堂宇は民家風の近代のものだが、幻の服寺(福寺)の末流の一端を担う歴史を持つと伝え、今も地元の厚い信仰を集めている様子。道路に面した北側、吹きさらしのスレート屋根の下に南面する大きい石仏がすぐに目に入る。
元は現在地の南西、京終池の南西の辻堂にあったとのこと。手前に置かれた供物台の側面に「辻堂佛前」と刻銘がある。江戸時代には京終阿弥陀として広く信仰を集め、享保の頃に一宇を設けて祀られたとのことなので、供物台はこの頃かそれ以降のものと考えられる。その辻堂(阿弥陀堂)のおそらく本尊だったものが、いつの頃か現在地に移されたということらしい。元の所在地に興味がいくが、そもそも京終池というのが何処なのかわからない。駅の南方には、現在は跡形もないが、古い航空写真をみると大きい池があったことがわかるのでこの池のことだろうか…。それとも、京終池の南西と現在地の南西が同じ辻堂の元位置ということは、現在地付近に京終池があったともとれるが、よくわからない。
花崗岩製。二重の蓮座の上に大きい舟形光背を作り、中央に来迎印の阿弥陀如来立像、左右にそれぞれ小蓮座に立つ観音・勢至菩薩を厚肉彫している。観音は蓮台を両手に戴き、勢至は合掌する。西方浄土から信者を迎えに来る弥陀三尊の像である。三尊とも舟形後背面に小花付覆輪単弁を薄肉彫で表現した頭光円を配する。無銘。プロポーションも整い、童顔で穏やかな面相。衣文は簡潔かつ流麗で蓮座の蓮弁も優美である。作風は作り慣れた感じで、細部まで丁重に作ってあり全体によくまとまった印象だが、伸びやかさや力強さ・豪放感に欠ける。こうした特徴から鎌倉末期から南北朝時代頃の造立とされている。概ね14世紀中葉頃といったところか…。現状高約173cm、幅約102cm、阿弥陀は像高約127cm、脇侍は80cm前後。惜しくも光背上端を欠失しているので、元は2m近い総高があったと推定される。舟形背光は前面の大きさに比してかなり薄く作っている。
京終という地名が示すように、この付近は、古い奈良の街の南のはずれ、境界に当たる。一方、来迎弥陀三尊というモチーフは浄土転生であり、葬送地との関連が想起される。周囲に中世に遡る小型の箱仏が多数並べられていることなどから、街はずれにあった葬送地の惣供養、あるいは墓地の迎え本尊的な石仏だったと考えられる。
赤い前掛けは信仰のしるし、どけるのは控えました。
足元も丁重に作られ、抜かりがない…
箱仏などが集められている。墓地にはでっかい空風輪も見られた。
横から見ると意外とペンペン…
参考:川勝政太郎『日本石造美術辞典』
清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術編
日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』
北京終町は「ペキンおわりまち」ではなく、「きたきょうばて」と読みます。京、つまり都市部がはてる、終わるところ、きょうばて…ちょっと物悲しさを含んだ不思議にノスタルジックな響きのある地名です。古風なJRの駅舎の雰囲気がいっそうその印象に輪をかける場所です。
京都市北区千本通上立売上ル花車町 石像寺(釘抜地蔵)の石仏
千本通の東側にささやかな門を構える石像寺は、俗に釘抜地蔵と呼ばれる。家隆山光明遍照院石像寺といい浄土宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。弘法大師空海創建、俊乗坊重源上人の中興を経て厳誉上人が慶長年間に再興したという。釘抜とはすなわち苦抜きの転訛と思われる。室町時代末、前世に呪いの人形(ひとがた)に八寸釘を打ち込んだ因縁で腕の痛みに苦しんだ人が、この地蔵尊に祈り、夢で痛みの元になっていた人形に刺さった釘を抜いてもらって平癒のよろしきを得、お礼参りをすると、血の付いた八寸釘が地蔵尊の前に置かれていたという説話が伝わる。現在も霊験あらたかな地蔵尊として参詣者が絶えない。病気平癒の願をかけ、お礼に釘抜を納めるのだそうである。奉納された釘抜を貼りつけた無数の絵馬が本堂の壁一面に懸けられている。この釘抜はバール状のものではなく、ペンチ状のヤットコ挟みのようなもので、地蔵の種子「カ」に釘抜をあしらったデザインがこの寺の印になっている。
本尊の地蔵菩薩も石仏だそうであるが、厨子奥のお姿は拝せない。
ここで取り上げるのは、本堂背後の小堂にある石仏である。昭和の初め頃、川勝政太郎博士が世に紹介して以来、著名な阿弥陀三尊石仏(及び弥勒仏)で、重要文化財に指定されている。花崗岩製。香煙に燻されて表面が褐色になっている。中尊は高さ約1.68m、像高約1.2m。複弁反花座上に敷茄子を挟み二重の単弁請花という豪華な蓮華座があるというが手前に集積された小石仏群に隠れて見えない。先端を尖らせた二重円光背の周縁に突帯で輪郭を巻く。頭光背面に5つ、身光背面に6つの平板陽刻の円相を配し、円相内に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。丸彫りに近い坐像で、螺髪一つひとつを刻み出し、面相、衣文、肉取り、すべて製作優秀で非常に丁寧に作られている。表面の風化磨滅も少なく、総じて保存状態良好であるが、胸の辺りで水平方向に折損したらしく補修痕が痛ましい。両手先も欠損するものの、定印を結んでいた痕が看取される。光背面の裏側に、約63.5cm×約24cmの縦長の方形枠内に三行の陰刻銘があるという。「元仁元年甲申十二月二日甲午奉始之/同二年四月十日庚子奉開眼之/願主伊勢権守佐伯朝臣為家」。元仁2年は、鎌倉時代前期の1225年。着工から開眼まで4か月余り、制作期間が記されている点も貴重。古い紀年銘にはこのように年だけでなく月日の干支も入れることがある。
脇侍の観音、勢至の両菩薩はともに立像で、像高約1.2m。観音は冠に化仏が見られ、左手に持った蓮華の蓮弁に右手を添えている。膝の辺りで折損した痕がある。勢至は折損の痕は見られず完存し、胸前で合掌する。ともに種子(観音=「サ」、勢至=「サク」)を刻んだ平板陽刻円相15個を光背面に配する。手法・作風は中尊と同一で、はじめから一具の三尊像として作られたと考えて間違いない。また、向かって右隅にも同じ手法作風の施無畏与願印の如来像がある。脇侍像より一回り小さく、光背上部が欠損し、膝付近に折損痕がある。表面に白い胡粉が塗られた痕跡があるが、当初からのものではないようである。光背面の種子が「ユ」であることから、弥勒如来と考えられる。これも阿弥陀三尊と一具のものと考えられる。なお、川勝博士によれば、願主の佐伯為家は、藤原定家の息子の藤原為家とは、ほぼ同時代ながら別人で、『山槐記』治承2年正月に従五位下織部司長官に補任されており、彼の晩年の作善による造立と推定されている。
参考:川勝政太郎「元仁二年在銘の石像寺石仏に就いて」『史迹と美術』第37号
〃 『京都の石造美術』
〃 『日本石造物辞典』
今更小生がご紹介するまでもない、言わずと知れた京都石仏界のエースの登場です、線刻を除く立体造形の石仏では洛中在銘最古、最優秀作のひとつと言えるでしょう。素晴らしいの一言に尽きます。阿弥陀三尊と弥勒仏、ともに衆生の後生安穏を祈る信仰対象となる尊格で、中世の葬送地であった船岡山の入口に近い場所にある点も留意すべきかもしれません。