石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市土山町前野 瀧樹神社宝篋印塔

2008-01-30 23:17:33 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市土山町前野 瀧樹神社宝篋印塔

南に野洲川、北は東西に走る国道1号線に挟まれた前野は茶畑が広がり垂水斎宮頓宮跡に程近い街道沿いの集落である。『耕雲紀行』や『室町殿伊勢参宮記』など室町時代の紀行文にもその地名が見える。01_4 瀧樹(たき)神社は、国道1号線から、まもなく開通する新名神高速道路甲賀土山インターチェンジへ向かうアクセス道路に入ってすぐ西にある。杉や楓などが茂る社域は野洲川の清流に接し清浄な境内は引き締まった空気に包まれている。延久年間の創建と伝え、はじめ川田神社瀧大明神と称し岩室郷の惣社、頓宮牧の産土神であったという。応永年間に地頭であった頓宮四方之介盛察が、社前の楓の大樹にちなみ「樹」を加えて号し始めたとのこと。5月3日の祭礼ケンケト祭は無形民俗文化財である。境内西方の雑木林には平坦地が広がり、かつて天台宗観音寺という別当寺があったというが明治時代に廃絶したらしい。この廃寺跡の一画に宝篋印塔がある。昭和41年時点の川勝博士の紹介文によれば45年程前に本殿前から現在の場所に移されたというから大正10年ごろのことか。周囲より少し高くした一画に切石を基壇状に組み、その上に基礎を据えている。上2段式、側面は北側のみ素面で、残る3面は輪郭を巻き格狭間を入れる。格狭間内は素面。輪郭の幅は割合狭く格狭間は両肩がかなり下がりぎみである。塔身は南側下部に亀裂が入っている。側面には月輪が陰刻し金剛界四仏の種子の三仏、東方ウーン(阿閦如来)、北方アク(不空成就如来)、西方キリーク(阿弥陀如来)を配すが、本来タラーク(宝生如来)であるはずの南方のみ円形に彫りくぼめた中に坐像を半肉彫りしている。しかも像の手は法界定印を結んでおり、左手で衣を持ち右手は膝から掌を外に向ける宝生如来の印相と異なっている。このあたりは謎とするしかないが、川勝博士は胎蔵界大日如来の可能性を指摘されている。笠は上6段、下2段。軒が薄く、隅飾が小さいのが特長で、隅飾は二弧輪郭付で軒と区別してやや外傾する。相輪も完存し、伏鉢の曲線はスムーズで下請花は複弁、九輪部の彫成はあっさりしてやや逓減率が大きい。上請花は単弁、宝珠の形状は整い曲線に硬さはない。全体に表面の石肌が荒れ、かつては刻銘の痕跡がみられたようだが現在は確認できない。意匠や彫成の細かい点はしっかりしているが、全体的に力強さが何となく感じられない。相輪や格狭間の形状にもやや退化が見られ、鎌倉末期ごろの造立との見解は川勝博士、田岡香逸氏、池内順一郎氏など諸先学が概ね一致するところである。花崗岩製、高さ約174cm。各部欠損なく揃い、特に塔身の意匠が珍しい優品といえる。同じく前野の地安寺塔(無銘)、大河原善法院塔(観応2年銘)とともに土山の三大宝篋印塔に数えられている。

 

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(五)『史迹と美術』362号

   田岡香逸 「近江土山町の石造美術(前)-頓宮・前野・市場・平子・青土-」『民俗文化』162号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 40~41ページ

   平凡社 『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 415~416ページ

 


滋賀県 東近江市林田町 香林禅寺宝篋印塔

2008-01-24 00:46:38 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市林田町 香林禅寺宝篋印塔

 

永源寺末の香林禅寺境内東南の築山状の植込の隅、生垣に接して宝篋印塔がある。高さ約178cm。01自然石を無造作に組んだ上に据えられ、南側と東側は生垣でよく見えない。基礎は上反花式で側面は輪郭を巻き格狭間を配する。格狭間内は素面。輪郭内の彫り込みに比べ格狭間内の彫りは非常に浅くほとんど線刻に近い。格狭間の形状は稚拙で退化形式といってよい。基礎上の反花は隅が小花にならない抑揚のあるタイプだが全体に彫成が甘くかなり抑揚感が薄れている。反花上の塔身受は低い。側面の幅に対する高さの比は比較的大きく、どちらかというと背が高い。塔身は金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子を囲む月輪はない。笠は上6段下2段で軒が薄く、二弧輪郭付の隅飾は低くやや外傾が目立つ。笠も全体的に幅に対する高さの比が大きい。笠の頂部面積が大きく段形の逓減率が小さい。相輪は完存しており、側面の直線が目立つ伏鉢、薄い複弁下請花、九輪の凹凸はハッキリせず線刻に近い表現となっている。上請花は素弁で宝珠との間のくびれが目立つ。宝珠の側面の曲線は硬く重心も高い。全て花崗岩製だが、塔身だけは風化の程度も少なく緻密で良質の石材を使用している。塔身のサイズのバランスは悪くないが塔身のみ別物の可能性がある。この塔身に刻銘が認められキリーク面の左右に正和3年(1314年)銘があるというがはっきり確認できなかった。笠と基礎は全体に背が高く、退化した格狭間の形状や反花の彫成、隅飾の外傾、頂部が広く逓減率の小さい段形、スムーズな曲線部がほとんどない硬直化した相輪は番傘状となる一歩手前で、各部とも室町時代に降る様相を呈し15世紀後半頃のものとみて大過ないと思われる。ただし鎌倉後期の紀年銘がある以上、やはり塔身のみ別物としておくのが穏当であろう。

 

 

参考:滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 124ページ

   八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』 638ページ

 

 

このほか境内には宝篋印塔の笠残欠が転がっており、別に裏庭にも孔雀文を基礎に刻む宝篋印塔があるというが今回は時間の都合で見ることができなかった。これはまた別の機会に…。


滋賀県 大津市上田上里 西方寺宝篋印塔

2008-01-20 01:06:23 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市上田上里 西方寺宝篋印塔

毛知比神社の杜から西に一段下がり、里公民館と道を隔てた細長い西方寺境内、本堂前向かって右手、自然石を組んで一段高くした一画に立派な宝篋印塔が立っている。01石組みの上位面はモルタルで固めてあるが、直接地面に基礎を据えてあるようである。花崗岩製。珍しく相輪まで揃っており高さは目測で約2m。基礎は上2段式、基礎幅約61cm、側面高さ約33cmで幅:高さ比は小さく、低く安定感がある。基礎側面は北東側面のみ輪郭を巻き格狭間を配し残る3面は素面としている。格狭間内は風化と苔でハッキリしないが少し盛り上がっており、目視による観察では素面と思われるがあるいは開敷蓮華が配されているかもしれない。輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、輪郭は上下に比べ左右幅が広い。格狭間は脚部間が狭い。塔身は幅、高さとも約31cmで側面に金剛界四仏の種子を月輪内に小さめに薬研彫している。キリーク面を正面つまり北東側もってきてある。本来キリークは西方阿弥陀如来であるので方向が違うが、西方寺は現在浄土宗であるのでキリークが正面に来ているのかもしれない。笠は軒幅約54cm、上6段、下2段で笠上6段に比べ笠下2段がやや薄い。隅飾は軒から約1cm程度入って立ち上がり、やや外傾する隅飾は二弧輪郭付で大きめである。隅飾輪郭内は素面、薄い輪郭と大きめの隅飾が伸びやかでシャープな印象を与える。相輪は、やや側面の直線が目立つ伏鉢、破綻ない曲線を見せる半球形の上下の請花は風化で蓮弁がはっきりしない。Dscf1643九輪は八輪目で折れ上手に接いである。各輪の凹凸は比較的はっきりしており、先端の宝珠の曲線は完好で桃実状を呈する。全体的に表面の風化が進み、塔身の月輪や種子、基礎側面の輪郭、格狭間など細かい部分が分かりにくくなっている。刻銘は確認できない。笠の隅飾まわりの丁寧な彫成によるシャープな印象、低い基礎など鎌倉後期の手法を随所に示している。造立年代について田岡香逸氏は永仁ごろ、つまり13世紀末ごろと推定されている。隅飾が軒からかなり入って外傾する点、格狭間内の盛り上がり、脚部間が妙に狭い点などはもう少し年代を05下げうる要素と思われる。それでも鎌倉末期までは下がらないと思う。各部欠損なく揃い、整美な姿を今にとどめる貴重な優品といえる。なお、すぐ西側には室町期と思われる板碑がある。さらに生垣を隔てたすぐ南側は狭い墓地となり、無縁の石塔を西端に寄せてある。この中には一具のものと思われる宝塔の基礎と笠、上反花式で側面に輪郭格狭間を配した宝篋印塔の基礎、金剛界四仏種子を月輪内に薬研彫した宝篋印塔の塔身、室町時代の特徴を示す隅飾の宝篋印塔笠、上2段式の宝篋印塔基礎、四門梵字を側面に刻んだ比較的大きい五輪塔の地輪、相輪の残欠、小形五輪塔や箱仏などが見られる。これらは鎌倉末期から室町にかけての石造物である。当初からここにあったものか、あまり遠くないどこかから移されてきたのか不詳ながら、中世にこの付近で石造塔婆の造立が盛んであったことを示している。

参考:田岡香逸 「大津市田上の石造美術」 『民俗文化』89号

(※目測高さ約2mを除き基礎などの寸法はコンベックスによる現地実測による)


滋賀県 大津市大鳥居 浄土寺宝篋印塔

2008-01-15 00:10:56 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市大鳥居 浄土寺宝篋印塔

 

 

上田上(かみたなかみ)大鳥居町は信楽に接する大津市上田上地区の東端、奥まった谷あいにある。はじめ古い地図を頼りに現地を訪ねたところ、大規模な工事現場のようになっていて立入禁止、目的の浄土寺はおろか集落そのものがなかった。詳しい経緯は知る由もないが、どうやら最近になってずっと平野部寄りの上田上中野町の辺りに集落ごと移転したようで、改めて移転先の大鳥居に宝篋印塔を求め浄土寺を訪ねた。05石段を登り山門の手前向かって右、白壁の外、高い石積の上、玉垣状の垣に囲まれた狭い一画に宝篋印塔がある。長方形の板状の切石2枚を基壇にしている。花崗岩製、かなり大きく相輪先端が欠損し現高約195cm。元は7尺塔であろう。基礎は上2段で側面4面とも輪郭を巻き内に格狭間を配している。格狭間内は素面。輪郭は左右が広く上下が狭い。側面の幅:高さの比は小さく安定感がある。格狭間は肩が下がることなく、古調を示す。塔身は幅:高さ拮抗し、胎蔵界四仏の種子を月輪内に薬研彫している。文字のタッチは優れるが雄渾さは感じられない。笠は上6段下2段で、隅飾は二弧輪郭付、軒と区別しているようだが輪郭部は軒とほとんど同一面で外傾もないに等しい。笠全体に高さがあって特に笠上にボリューム感がある。相輪は低い伏鉢と請花が特徴で九輪の凹凸は割合しっかりしているが風化が進み請花の蓮弁は明らかでない。先端の請花と宝珠を欠損し、別物らしい宝珠が継いである。基礎輪郭や格狭間の彫が浅く、左右に広い輪郭と格狭間の形状、基礎側面比高が低い点、笠の隅飾の特徴などは古調を示し、塔身幅:高さがほぼ同じで、種子が弱く、笠全体に高さがある点はやや新しい要素である。こうした点から田岡香逸氏は1290年代の造立と推定されているが、妥当な年代観と思う。寺の移転に伴って宝篋印塔も移転したようだが、元々山城・近江・伊賀の接点であり大和にも近い信楽と接する交通の要衝にあったこの宝篋印塔の意匠の持つ古調、そして基本は近江系ながらどこか大和系の匂いがただよう全体の雰囲気に小生は何か示唆に富んだものを感じる。規模も大きく概ね各部揃い美しい佇まいを見せる魅力的な塔といえる。

 

 

参考:田岡香逸 「大津市田上の石造美術」『民俗文化』89号

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 52ページ

 

 

なお、この田岡報文の末尾にある「地区の中世史の研究に、唯一とまではいえないとしても、石造美術は欠かせぬ史料であるだけでなく、先祖が、子孫の幸せを願う心をこめて造立したものであり、その精神のよりどころを示すもので、能う限りその保存に万全を期することが、後の時代の人々に対する現世代に生きるものの義務である。(要旨)」との一節に小生は深く感銘を受ける。


滋賀県 甲賀市甲南町池田 檜尾神社石階段

2008-01-10 21:50:57 | 滋賀県

滋賀県 甲賀市甲南町池田 檜尾神社石階段

JR草津線甲賀駅の西方1km程のところ、山手に檜尾神社がある。02中世以来地域の崇敬が厚い氏神で、隣接して別当寺の文殊院があり神仏習合の名残をとどめている。04_307_2石鳥居をくぐってすぐ、自然石積の石垣の間、左右を耳石で画し1段につき2ないし3本の方柱状の切石を組み合わせた12段の石階段がある。初段目の大部分は埋まっている。高さは3m程だろうか、傾斜はかなり急である。耳石の手前には柱状に立てた標石が左右にある。ちょっと見たところ特に何ということのない神社の石段に見えるが、この石段が近江在銘最古の石階段とされる。上から2番目の左右の耳石に刻銘がある。向かって左に「文正元年(1446年)戌丙六月一日」、右に「願主 多喜土佐 沙弥 源珎」とある。手前の標石にも何か刻んであるが大半が埋まってはっきり確認できない。隣の甲賀町滝に本拠を置いた甲賀53家のひとつ多喜氏は古代の大伴氏の流れをくみ、織豊期の著名人である中村一氏、山岡道阿弥も一族とのことである。多喜氏の土佐守を名乗る人物がこの石段を寄進したものだろう。滝の丘陵には多喜氏の拠ったとされる中世城郭が残る。

01 神社の東、少し離れたところ、道路脇の草生地には地中に埋めた柱の根元が朽ちる度に短く切って据え直していくうちに段々背が低くなっていったと思われる古い木造鳥居がポツンと立っている。古くはこの鳥居あたりから参道が延びていたのだろうか。

参考:瀬川欣一 『近江 石の文化財』 341~342ページ

   平凡社 『滋賀県の地名』日本歴史地名大系 394~395、406~407ページ


滋賀県 甲南市信楽町上朝宮 仙禅寺道中宝篋印塔

2008-01-08 23:57:10 | 宝篋印塔

滋賀県 甲南市信楽町上朝宮 仙禅寺道中宝篋印塔

上朝宮は信楽町の南端近く、南の山向うは京都府和束町の湯船である。近江グリーンロード国道307号の北に平行する旧道を上朝宮集落の中程から岩谷川沿いに北に入り山手に行く道は県道522号田代上朝宮線で、岩谷観音こと仙禅寺に通じている。県道が集落を抜け茶畑にさしかかると右手(道路東側)の道沿いに立派な石造宝篋印塔が目に入る。04_2長方形に自然石を組んで一段高くし、直接地面に宝篋印塔を据えている。周囲には小形の五輪塔や石仏がいくつか寄せてある。小石仏と塔身の四仏に赤い前掛があっていかにも”路傍のいしぼとけ”然としたシチュエーションを醸し出している。宝篋印塔は全体に表面の風化が進み古色溢れる佇まい。05_3真新しい相輪は明らかな後補。基礎は四面とも素面で2段式。塔身は側面四方に二重円光背を比較的深く彫り窪め、風化が進み像容・印相は判然としないが肉髻があり如来像と思われる坐像を半肉彫りする。笠は上6段、下2段、厚めの軒と区別して二弧輪郭付の隅飾は大きめで若干外傾する。隅飾輪郭内は素面のようである。表面の風化のせいもあって銘は確認できない。後補の相輪を除く高さ約139cm。元は6尺半ないし7尺塔であろう。四方素面の基礎は近江系ではなく大和系の意匠であり、塔身の四仏に種子と半肉彫像の相違はあるが笠や基礎の雰囲気は隣町の和束町湯船の弘安塔や金胎寺正安塔に通じるものがある。いまひとつ造立年代判断の決め手に欠けるが、鎌倉後期初め頃のものとして大過ないと思われる。近江にあって山城・伊賀に接し大和にも近い交通の要衝信楽は、近江系と大和系の石造文化の流れを考える時、抜きに語れない土地であるが、その信楽でも古く大きい宝篋印塔として注目すべき優品といえる。

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 110ページ

   川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 96ページ

※岩谷観音は山深い渓流沿いの巨岩に観音堂を配した非常に趣のあるお寺で、鷲峰山金胎寺別院で行基が開き中世の戦乱で退転したという仙禅寺の奥院跡とのこと。建長元年(1249年)銘の地蔵磨崖仏があるというが冬の日は短く夕暮れ迫りとても像容を観察し写真を撮れる状況になかったのでこれは別の機会ということで。