滋賀県 甲賀市土山町前野 瀧樹神社宝篋印塔
南に野洲川、北は東西に走る国道1号線に挟まれた前野は茶畑が広がり垂水斎宮頓宮跡に程近い街道沿いの集落である。『耕雲紀行』や『室町殿伊勢参宮記』など室町時代の紀行文にもその地名が見える。 瀧樹(たき)神社は、国道1号線から、まもなく開通する新名神高速道路甲賀土山インターチェンジへ向かうアクセス道路に入ってすぐ西にある。杉や楓などが茂る社域は野洲川の清流に接し清浄な境内は引き締まった空気に包まれている。延久年間の創建と伝え、はじめ川田神社瀧大明神と称し岩室郷の惣社、頓宮牧の産土神であったという。応永年間に地頭であった頓宮四方之介盛察が、社前の楓の大樹にちなみ「樹」を加えて号し始めたとのこと。5月3日の祭礼ケンケト祭は無形民俗文化財である。境内西方の雑木林には平坦地が広がり、かつて天台宗観音寺という別当寺があったというが明治時代に廃絶したらしい。この廃寺跡の一画に宝篋印塔がある。昭和41年時点の川勝博士の紹介文によれば45年程前に本殿前から現在の場所に移されたというから大正10年ごろのことか。周囲より少し高くした一画に切石を基壇状に組み、その上に基礎を据えている。上2段式、側面は北側のみ素面で、残る3面は輪郭を巻き格狭間を入れる。格狭間内は素面。輪郭の幅は割合狭く格狭間は両肩がかなり下がりぎみである。塔身は南側下部に亀裂が入っている。側面には月輪が陰刻し金剛界四仏の種子の三仏、東方ウーン(阿閦如来)、北方アク(不空成就如来)、西方キリーク(阿弥陀如来)を配すが、本来タラーク(宝生如来)であるはずの南方のみ円形に彫りくぼめた中に坐像を半肉彫りしている。しかも像の手は法界定印を結んでおり、左手で衣を持ち右手は膝から掌を外に向ける宝生如来の印相と異なっている。このあたりは謎とするしかないが、川勝博士は胎蔵界大日如来の可能性を指摘されている。笠は上6段、下2段。軒が薄く、隅飾が小さいのが特長で、隅飾は二弧輪郭付で軒と区別してやや外傾する。相輪も完存し、伏鉢の曲線はスムーズで下請花は複弁、九輪部の彫成はあっさりしてやや逓減率が大きい。上請花は単弁、宝珠の形状は整い曲線に硬さはない。全体に表面の石肌が荒れ、かつては刻銘の痕跡がみられたようだが現在は確認できない。意匠や彫成の細かい点はしっかりしているが、全体的に力強さが何となく感じられない。相輪や格狭間の形状にもやや退化が見られ、鎌倉末期ごろの造立との見解は川勝博士、田岡香逸氏、池内順一郎氏など諸先学が概ね一致するところである。花崗岩製、高さ約174cm。各部欠損なく揃い、特に塔身の意匠が珍しい優品といえる。同じく前野の地安寺塔(無銘)、大河原善法院塔(観応2年銘)とともに土山の三大宝篋印塔に数えられている。
参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(五)『史迹と美術』362号
田岡香逸 「近江土山町の石造美術(前)-頓宮・前野・市場・平子・青土-」『民俗文化』162号
池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 40~41ページ
平凡社 『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 415~416ページ