石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 伊都郡九度山町慈尊院 慈尊院五輪塔及び下乗石

2012-10-17 01:01:48 | 下乗石

和歌山県 伊都郡九度山町慈尊院 慈尊院五輪塔及び下乗石

九度山慈尊院はいわずと知れた高野山金剛峯寺参詣の玄関口である。平安時代以来幾人もの貴顕が高野山に参詣しているが、皆ここで輿を降り高野山までの山道を自らの足で歩いたと言われている。Photo_2雰囲気のある築地塀に囲まれた境内、北面する山門をくぐってすぐ左手、石積で一段高く区画された壇上に2基の大きい五輪塔がほぼ南北に並んでいる。01寺伝では平安時代末に慈尊院が火災に遭った際に焼け残った灰を埋めて供養したものと伝えられる。五輪塔の外形的特長からは平安末期まで遡るとは考え難く、いずれも紀年銘はないが概ね鎌倉時代後半から末頃の造立と思われる。どちらも反花座等は見当たらず直接地面に据えられているように見える。02石材は砂岩というが、表面の風化はあまり見られない。砂岩だとしても硬く良質のものであろうか。キメの細かい花崗岩か凝灰岩のようにも見える。南塔は高さ約242cm、八尺塔である。各輪とも無地で梵字は刻まれていない。火輪の軒口は重厚で軒反も力強い。火輪上部は平らで、高野山周辺に集中して見られる火輪上端が風輪の下方に食い込んだようになる噛合せ式にはなっていない。地輪は高さに比べ幅が広く、背は低い。水輪はやや裾の窄まりがあるが曲線がスムーズで、完好な宝珠形の空輪、整った深鉢形の風輪の側線も申し分ない。梵字を伴わない点、あるいは火輪の軒の様子や空風輪の形状などからは所謂律宗系の五輪塔の範疇に含められるべきかもしれない。01_2造立時期は鎌倉時代後期、14世紀初め頃と考えて大過ないだろう。一方、北塔は、高さ約223cm、七尺半塔であろう。各部四方に五輪四転の梵字を刻むが、なぜか空風輪にある一部の梵字は浅い平底彫りになっている。火輪軒口はそこそこ厚みがあるが南塔に比べると顕著ではなく、隅反りも先端付近に偏って力強さに欠ける。地輪はやや背が高く、全体に空風輪が大きい。また、南塔に比べると水輪は裾の窄まり感が強い。02_2こうした外形上の特長から造立時期は南塔よりもやや新しいと考えるべきで、おそらく鎌倉時代末期から南北朝時代初め頃のものと思われる。いずれにせよ規模が大きく作風優秀な古い五輪塔がセットで見られるのは喜ばしい。
山門前の石段を上ってすぐ左手に板碑がある。尖頭方柱状の花崗岩で、残っているのは上半部分だけである。上部先端左右を斜めに切り落として山形に整形し、さらに正面を斜めに切って正面から左右側面にかけて二段の切り込みを刻み、碑面からかなり突出して額部を設ける手法は、先に紹介した上天野の六本杉の板碑や高野山奥の院燈籠堂前の、ともに建治2年(1276年)銘の板碑と共通する。背面は素面で粗叩きのままとする。現状高約1m余、幅約28cm、奥行き約22cmで、元は2m以上の高さがあったと思われる。六本杉の板碑に比べるとやや厚みがない。碑面上部中央に諸尊通有の種子「ア」を薬研彫し、その下方に「下」の文字が見て取れる。03_2その書体・筆致には力がこもっている。先端部の共通する形状やシャープな彫成などから、建治2年銘の板碑と相前後する頃のものと考えられている。この下乗石は、元は山門から真っすぐ北に伸びる門前参道の突き当たり、信号交差点の北側にあったとされる。現地には「下乗石建立跡」と刻まれた石柱が立てられている。ここは紀ノ川の河岸段丘の斜面上に当たり、高野山を目指す参詣者は、渡し船で近くの嵯峨浜という船着場から上陸し、やがてこの下乗石を目にし、緊張感を新たに高野山の入口、慈尊院への歩みを進めた違いない。下乗石は文字どおりここから先は馬や輿など乗り物から降りねばならないことを示すとともに、俗界と聖地の境界を示す結界標識的な意味合いを持っている。現在残されているのは、わずか2文字だけで、紀年銘等は認められないが、江戸時代に出版された「紀伊国名所図会」に「下乗 法務権僧正定海」と刻まれていたとの記述があるという。木下浩良氏によれば、平安時代末頃、覚鑁上人に代わり高野山座主に返り咲いた定海僧正が保延2年(1136年)に作らせた木製のものが、銘文はそのままに鎌倉時代の町石整備事業にあわせて石で作り直されたのではないかという。現状残欠状態になっているのは遺憾であるが貴重な下乗石の非常に古い例として、また京都高山寺や有田郡における明恵上人遺跡の笠塔婆に見られるように、オリジナルの木製からリメイクされた石造物を考える上でたいへん興味深い。
 
参考:木下浩良『はじめての「高野山町石道」入門』
   元
興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
 
写真右上:南塔、写真左中:北塔、写真右下:下乗石がかつて立っていたとされる場所。竹薮の向うには紀ノ川が見えます。写真左上:慈尊院山門。画面左端に小さく下馬石板碑が写っています。
 
それにしても高野山奥の院で多数見かける全体に縦長で火輪軒先や空輪先端の尖りが異常に大きい近世スタイルの五輪塔と、ここのどっしりとした鎌倉調の五輪塔をよく見比べていただければ意匠の優劣、美醜は明らかと思います。まぁ、こんなことを言うと故田岡香逸氏などは非科学的だ!と非難されるでしょうね、でも天沼博士ではありませんが、理屈ではなく、とにかくいいものは"いいんです"としか言いようがありません、ハイ。


和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

2012-10-07 22:58:04 | 五輪塔

和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

九度山の慈尊院から高野山に向かう参詣道に六本杉と呼ばれる場所がある。01_4峠のような場所で慈尊院方面から尾根沿いに上ってきた参詣道が尾根の上に達する地点である。03_2高野山への参詣道に沿って設けられた町石でいうと137町石と136町石の間になる。かつらぎ町教良寺(きょうらじ)地区と上天野(かみあまの)地区の境付近にあたり、古くからの往来道が交わる交差点で、かつてはランドマークになるような大きい杉の木があったのかもしれないが現在はそのようなものは見当たらず、単に峠の地名となっている。古道の交差点から高野山の方向に数mいった道の脇に方柱状の石が立っている。これが古い板碑であることを認識する参詣者はおそらくあまり多くはないだろう。花崗岩製で現状地表高は約250cm、正面幅約30cm×奥行き33cmで、全体として概ね尖頭方柱状を呈する。04地表面から約50cm程のところで折損したのを上手く接いである。地面下には1m近く根の部分が埋け込まれていると思われる。正面及び左右側面は丁寧に表面を叩いて仕上げているが、背面と下端付近の仕上げはやや粗い。02上端は山形に左右を切り落とし、約15cm程を残して正面も斜めに切り落とす。その下にやや幅の狭い二段の切り込みを設ける。切り込みは左右側面につながっている。その下は高さ約17cmの額部から約9.5cm下げて碑面とする。額部の向かって左下が少し欠損する。碑面は高さ約193cm、上端幅約29.5cm、下端幅約31.5cmで、上部中央に金剛界大日如来の種子「バン」を力強いタッチで薬研彫し、「奉為前大僧正聖基」とメリハリのある達筆の大きい陰刻銘がある。向かって左側面には「天野路 法眼泰勝」とあり、右側面に「建治二年(1276年)十一月日」と同様のタッチで陰刻されている。05_2碑面下端の入りは約5cmで、下方を少し厚くして安定を図っている。なお、背面の上端近くに幅約9cm、深さ約3cmの楕円形の穴が見られる。この穴の詳細は不明。造立銘により、聖基という大僧正だった師匠?のために、お世話になった泰勝という法眼が作らせた板碑であることがわかる。特に「天野路」という表現に注目されたい。板碑が古道の交差点に位置することから、「こっちにいくと天野方面ですよ」という道標の役目を果たしていたのではないかと考えられており、日本最古の道標とも言われている。大僧正聖基という名前は、丹生官省符神社石段脇にある180町石(文永9年銘)にも刻まれている。01_3この人物は、板碑が作られた建治2年から10年前の文永4年(1267年)に亡くなった高僧で、勧修寺長吏、東大寺別当も務め、文永3年(1266年)に行なわれた京都の蓮華王院(三十三間堂)再興の落慶法要で導師を務めているとのこと。法眼泰勝という人物については未だ定説はないようだが、木下浩良氏によれば高階氏出身の肥前法眼泰勝ではないかとのことである。なお、同じ建治2年銘の板碑が高野山奥の院、燈籠堂前墓地の玉川に近いところにある。02_2やはり花崗岩製でよく似たサイズ、意匠で共通する手法である。これらは、緑泥片岩のようにあまり薄く作れない花崗岩という石材の特性もあってか、幅と奥行きがほぼ等しい方柱状で、全体にかなり重厚感のある形状を呈するが、上部を山形にして二段に切り込みを入れるなど類型的な板碑の特長を備えている。さらに随所に鋭い彫成を残し作風も優秀で、近畿における類型的な板碑のうちでは在銘最古の部類に属する。
六本杉の板碑近くに建てられた町石についても簡単に触れておく。板碑からは、わずか約20数mの道脇の斜面にある。方柱の上端に五輪塔を整形付加した形状から五輪卒都婆、あるいは長足五輪塔などと呼ばれる。慈尊院と金剛峯寺の間には胎蔵界曼荼羅の180尊を各本尊とする町石五輪卒都婆180基が1町(110m弱)ごとに立てられている。これは金剛峯寺壇上伽藍から数えて136番目にあたる。花崗岩製。現高約2.3m、地表下に約1m程の根部があると推定されている。五輪塔部分は概ね高さ80cm程で正面に五輪の梵字を刻む。大きめの風輪下方に火輪上端が食い込んだように見える噛合せ式と呼ばれるタイプ。地輪下方の碑面の正面上方に蘇悉地羯羅菩薩の種子「ヂィ」を薬研彫し、続いて「百三十六町 比丘尼寶道」と達筆な筆致で大きく陰刻する。向かって右側面には「文永六年(1269年)八月 日」の陰刻銘が認められる。願主の寶道については不詳だが鎌倉幕府関係者や貴族等の妻女であろうか。蘇悉地羯羅菩薩はあまりなじみのない菩薩名であるが、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院中の一尊である。この136町石に限らず高野山の町石はどれもだいたい一尺(約33cm)角で長さ3m余の方柱状の花崗岩の石材から加工・彫成されており、この点では先の板碑とも共通している。



写真右上:先端部分の側面はこんな感じ、右上から2番目:天野路の文字、右上から3番目:建治銘のある側面ですが画面中央左に小さく136町石が写っています、見えますでしょうか?(カーソルを写真に合わせてクリックすると少し大きく表示されます)
 
参考:巽三郎・愛甲昇寛 『紀伊國金石文集成』

      木下浩良 『はじめての「高野山町石道」入門』

      川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』


高野山町石道は慈尊院から約20Kmの道のりを高野山まで歩くのがむろん本格ですが、5~6時間はかかるそうです。小生もいつかは挑戦したいと思いますが…。
六本杉まででも慈尊院から歩けばおそらく1時間半以上かかると思われますので、やむを得ず忙しい方は車で県道109号志賀三谷線を進み、教良寺の峠を越え上天野側に抜けてすぐの道路脇から木製の案内道標に従って左手山道に入り、徒歩約20分で六本杉に着きます。普通「道標」というと街道沿いに立つ江戸時代以降のものですが、鎌倉時代の道標というのは超珍しいでしょう。もっとも道標は目的地&方向&距離を示すものなので、この板碑より若干古い町石にも道標としての側面があります。
なお、聖基大僧正(1204~1267)は、殿下乗合事件で知られる松殿関白藤原基房の長男の左大臣藤原隆忠を父に持つ人物だそうです。