石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 勢田寺宝篋印塔

2007-03-28 00:46:12 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 勢田寺宝篋印塔

勢田寺は、杉谷集落の南寄り、杉谷川の南岸にある。本堂向かって左手に無縁塚があり、その南北に2基の立派な宝篋印塔がある。南側の塔は山門入ってすぐ左手に見える。基壇はなく、複弁反花式の台座の上に立っている。台座の反花は、主弁408_2枚で間弁は上下そろって先端を“へ”の字に切り込みを入れている。側面は低く、反花の先端がオーバーハング気味になる。隅弁を間弁とする大和系の台座の上に立つ。花崗岩製。基礎は上2段で、壇上積式。四面とも格狭間を入れ、格狭間は花頭形や左右の曲線はスムーズで破綻なく整っている。東側を除く3面には格狭間内に開蓮華をあしらっている。開蓮華のない東側面の左右束石に銘文があるのがわかる。肉眼ではっきり判読できないが、「正和5年(1316年)丙辰6月11日一結衆造立之」とある。塔身は月輪全体を平らに浅く彫りくぼめ、中央に金剛界四仏の種子を力強く薬研彫するが、西面する正面を本来キリーク(無量寿如来)とすべきところを南面のタラーク(宝生如来)としており、塔身の向きが変えられていることがわかるので、それだけ移建されている可能性があると考えることができる。もとは金蔵寺という寺(早く廃絶し詳細不詳)にあったものとの説もある。笠は上6段、下2段で、軒と区別して二弧輪郭付の隅飾は直線的に少し外反する。輪郭の幅が狭い。輪郭内は素面。相輪は九輪の5輪目まで残り、それより上部を欠損する。伏鉢に単弁反花が表現されている。上の請花は低く扁平で、単弁反花を刻む。九輪の凹凸ははっきりしているが、凹部の彫りが浅く、凸部より幅が広い。現存高さ約168cmで元は7尺塔と思われる。全体に彫成がしっかりしており、表面の保存状態も概ね良好。基礎、笠ともに高さに比べ幅が広く、どっしりと安定感があり、隅飾の薄い輪郭も優美な印象を与える効果がある。塔身が小さく見えるが、薬研彫の種子の力強さが存在感を示し、全体として均衡を保って、装飾的で優美な宝篋印塔である。相輪先端の欠損が惜しまれる。台座、塔身は大和系、笠と基礎は近江系の意匠で、この地域は、石造美術における大和系の文化圏と近江系の文化圏の交わる地域とされるが、ひとつの塔のデザインの中に両方の文化圏の特徴を折衷して取り込み、美術的効果を得ている点は高く評価できる。また、造立銘により造立年代がわかる点も資料価値が高く、重要文化財クラスの優品と思う。一方、無縁塚を挟んで北側の本堂に近い方の宝篋印塔は、基壇を持たず、側辺4枚の複弁反花、隅弁を間弁とする大06_3 和系の反花座を地面に据えている。反花の間弁は先端を“へ”の字形に反りをもたせている。蓮弁先端と側面との距離が南塔ではほとんどないが、こちらは1~2cm程度あって、全体的にやや背が高い。基礎は4面素面で上2段、やや基礎の幅に対する高さの比率が大きいもので、塔身は月輪を線刻し、金剛界四仏を雄渾な薬研彫で表している。南塔の種子に比べて字が大きく力あるが、北側にタラーク、南側にアク(不空成就)としているのは、東西南北が逆である。笠は上6段、下2段で、隅飾は、軒と区別してやや曲線的に外反する二弧輪郭付。笠の南西部が軒ごと大きく欠損して失われている。隅飾の輪郭の幅が狭い点、笠上各段の逓減率が大きく安定感がある点は南塔と同様だが、こちらの方が、隅飾が小さく、微妙に曲線的な外反を示し、外反の度合も少しきつい。相輪部分に宝珠と単弁反花のある請花が載せられているが、九輪以下を失った当初のものかどうか疑念は残る。あるいは石灯籠のものかもしれない。全体として彫りがしっかりとして、表面の風化も少なく、相輪と笠の南西隅を除けば保存状態は良好である。装飾的で優美な近江系・大和系の折衷型の南塔に比べ、まったくの大和系で、飾り気のない堂々とした重厚さのある塔で、対照的な印象を受ける。銘文は確認できない。花崗岩製。台座を除く笠上までの高さ約140cm、元は台座を含めて8尺塔であろう。正和5年(1316年)銘の南塔と比べると、反花座、基礎に高さがある点は新しい要素だが、塔身の雄渾な種子、隅飾の形状は逆に北塔がやや古い印象で、相前後する時期の造立と推定したい。純大和系と大和・近江両系折衷意匠の宝篋印塔が2基、同じ寺の境内にあることは興味深い。なお、南塔の脇には、寄集めの石灯篭の一部として、小さいものだが宝塔の塔身が転用されている。ここから南西約400mと程近い山手にある正福寺は、静かな境内が落ち着いた雰囲気を見せる寺院で、ここにも優れた宝篋印塔があるのであわせて訪ねられることをお勧めしたい。

参考

池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 280~283ページ

滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 71ページ


奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

2007-03-20 00:32:13 | 五輪塔

奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

名阪国道小倉インターの南方、小倉集落の西方の丘陵上に地域の墓地がある。小倉から室生染田方面に抜ける県道をやや南下し集落のはずれにさしかかると、右手の田んぼを隔てた山裾に六地蔵が見える。ここが小倉墓地の入口である。通常の六地蔵の外に、岩盤に六地蔵を直接刻み込んでいるものが見られる。岩盤の方が古く、Photo_11Photo_12Photo_15室町時代末期から江戸時代のごく初期ごろのものと思われる。山手の道を進むと斜面をテラス状に形成した墓地が次々に現れる。木々に覆われ、陰になって道路からは分かりにくいが、丘陵の先端部分全体が墓地になっている。近現代の墓標に交じ って中世に遡る五輪塔や古い石仏が多数見られる。小型の四石五輪塔、一石五輪塔、板状五輪塔(写真上右)、半裁五輪塔(写真上中)、舟形背光五輪(写真上左)、箱仏など室町時代から江戸時代初めの石塔Photo_10のオンパレードで、中世墓に近現代の墓がオーバーラップしているようである。墓地の最高所は平坦地になっており、中央に立派な五輪塔がぽつんと立っている。板状の切石2枚を並べ敷いただけで反花台座は珍しくみられない。何らかの事情で失われたのであろうか。地輪は上部の隅付近の一端を欠損し、火輪の軒下を少し欠いているが、全体の保存状態は悪くない。空風輪の曲線に直線的なところはなく、空輪の宝珠の重心はやや下に置くが球形に近く、風輪と接合するくびれ部分はやや細い。火輪の軒は厚く、力強く隅で反り上がる。水輪は大きめで、曲線はスムーズでやや重心を上におく。地輪はやや背が高い。各部とも無地。高さ165cm、花崗岩製。空風輪の形状や火輪の軒などから14世紀半ばごろのもの推定できる。墓地の惣供養塔であろう。墓地頂部の平坦地の片隅、五輪塔から10mばかり離れた場所に、小型01_3 の宝塔がある。高さ135cm、花崗岩製。平らな自然石の上に背の高い4弁複弁反花座を置く。幅に比して背の高い基礎は4面に薄めの輪郭を巻き、かなり退化した形式の格狭間を3面に入れ、1面には輪郭内素面で、ここに銘文があったと思われるが摩滅している。塔身は首部に比べ軸部は少々寸詰まりで、重心をやや上に置き、下端はまっすぐ基礎に続くのではなく曲面にしている。塔身には匂欄、扉型などの装飾はない素面だが、一方向を大きく長方形に彫りくぼめ、中に合掌する筒袖袴姿の人物と思われる立像2体が稚拙な表現で半肉彫りされている。笠の軒厚く、隅の反りは割合に力強い。頂部には薄く露盤を削りだし、四柱には降棟を突帯で表現し、底面には薄い垂木型と隅木を彫り出している。相輪は伏鉢、複弁反花の請花、九輪の3段目まで残るが、その先は欠損している。枘の大きさが一致しないが違和感はない。宝塔は、釈迦が霊鷲山で説法した時、地中から宝塔が出現し、多宝如来が釈迦を讃えて、塔内に招き入れ半座を分かって釈迦・多宝の2仏が並座したという「法華経見宝塔品」に端を発した天02_3台系教理の所産とされ、釈迦・多宝の2仏を塔身に表すのが本格的で、扉型や鳥居型だけの場合でも塔身内の2仏を意識しているのが通常である。この塔身軸部の俗形人物は、両親の供養か自身夫婦の逆修を意図したものと思われ、宝塔本来の意義は失われているがたいへん珍しい意匠といえる。表面の風化が激しく、基礎の輪郭や格狭間の彫りもごく浅い。山添峰寺の六所神社のものに比べるといっそう垢抜けない感じで、同じような室町期の作風だが、小倉墓地の方がより時期が下がると考えるがどうだろうか。これだけ退化が進んでも笠裏に垂木型に加えわざわざ隅木を刻んでいるのは、さすがに木造建築風に細部にこだわる都祁来迎寺塔や吉野鳳閣寺塔につながる大和伝統の宝塔造形といえないだろうか。

参考 清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 357~358ページ


奈良県 天理市佐保庄町 素盞鳴神社層塔

2007-03-16 00:47:37 | 奈良県

奈良県 天理市佐保庄町 素盞鳴神社層塔

大和古墳群のすぐ北、ヒエ塚古墳という120mほどの前方後円墳のすぐ北方、佐Dscf8457保庄の集落の中央やや東寄りにこんもりと素盞鳴神社の杜が見える。社殿の北隣の一段高くなった場所に石塔や石仏などが集められている。廃絶し跡形もないが、神社の別当寺の遺物らしい。中でも等身大の地蔵菩薩の頭部(室町前期)や青面金剛立像(江戸前期)、三尊石仏(室町後期)は石仏鑑賞の対象として味わいある造形を見せているが、一番北側の層塔が一際目を引く。一辺に5枚の複弁反花を備える台座を基壇状に切石を方形に並べた上に据え、基礎は四面輪郭を巻き大きく格狭間を入れる。格狭間内は素面。格狭間は花頭曲線から脚部にかけての側線のカーブもスムーズで破綻ない美しさを見せる。基礎上面に方形に基礎と同様に一辺5枚の複弁反花を低く彫りだして塔身受座を設けている。塔身は四方輪郭内に月輪を平らに陽刻し金剛界四仏の種子を薬研彫する。キリーク面中央やや下に深い穴があって、美観を損ねている。穴の奥は暗く確認できなかったが、あるいは蓋が失われた納入孔で、基礎に内Dscf8454 繰りを施し塔身の穴からつながっているのかもしれない。各屋根は底面に1重の薄い垂木型を彫りだし、軒は厚めだが、軒反は隅近くで少し反転する程度で力強さに欠ける。最上層笠は低く広めの露盤を削りだしている。相輪は、通常伏鉢になる部分が方形の露盤状になり、その上に伏鉢を省略してすぐ請花になり九輪へと続く。九輪の7輪以上は欠損する。請花は単弁のように見える。九輪は凸が低く狭い突帯状で凹部の幅が広い。笠に露盤を表現しているのに、わざわざ相輪部にも露盤を表現するのは謎で、バランス的にも相輪がやや小さいように見えることから別物の可能性も残る。花崗岩製。現高約220cm。現在5層であるが、2層目と3層目の間にやや違和感があり、この間に2層分が入って元は7層ではなかったかとの疑念も払拭できない。表面の風化が少なく、反花式の塔身受座を設けた基礎や手の込んだ塔身の装飾的な意匠と完成度の高い洗練された彫技に目を見張る。むしろ逆に整い過ぎて豪放さに欠け、笠の軒反や塔身種子の弱さとあいまって鎌倉末期の特色を示していると見るべきだろう。5枚花弁の反花式台座は多いものではなく、近くでは長岳寺五智墓に何例か集中しており、唐招提寺西方院証玄塔や不退寺北墓地伝在原業平塔など五輪塔の優品に例がある。

 

 

 

 

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 192~193ページ


滋賀県 栗東市御園 出庭神社宝塔

2007-03-12 23:40:12 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市御園 出庭神社宝塔

透き通った流れの水路が隔てる出庭神社の境内東端、拝殿の軒先にある。花崗岩製。相輪を欠くが高さ3mに近く、元は恐らく12尺ないし12尺半はあろうかと19 いう巨塔で、惜しむらくは、火災に遭ったらしく、破損がいちじるしい。ところどころ熱によって変色し、大小のヒビが入って脆くなり、剥落部分が多い。西側が特に激しく傷んでいる。ステンレスプレートを笠状にしつらえて首部に載せてある。笠と斗拱部は数メートル離れた場所に置かれ五輪塔の空風輪が一緒にしてある。相輪の残欠らしいもの見当たらないので、早くに失われこの空風輪が相輪の代わりに笠の上に載せてあったのかもしれない。元は近くの大乗寺にあったものを移建したという。切石を方形に組んだ基壇を設けているが、下半部分は土中に埋まっていて観察できない。基礎は低く、側面には輪郭を巻き、幅広な格狭間を輪郭内に大きく表現している。破損が激しく観察できない西側を除き格狭間内は素面で、花頭部の中央曲線は幅が広く全体的に整っているが側線の曲線は少々固く、脚部は短く直線的に立ち上がる。脚間は比較的狭い。特筆すべきは基礎上面に低い複弁反花座を円形に刻みだし塔身受座を彫成している点で、例が少ない注目す32_1 べき意匠である。大きく破損した西側に基礎と塔身の隙間が大きく開いた箇所があり、塔身受の下に空間があるのが観察でき、基礎に内刳りを施して納入スペースとしたことが判る。塔身は一石からなり、軸部、匂欄部、首部の3部に大別され、円盤状の框は見られない。やや下すぼまりの円筒形の軸部は、下端に地覆に当たる一段を平らな帯状に陽刻し、その上に扉型を陽刻する。扉中央にやや薄い陽刻帯で扉を左右に分けて表現する。扉型の上辺にも突帯を鉢巻状に廻らせ饅頭型の亀腹に相当する曲面に続く。こうした平らな突帯にもそれぞれ厚薄があって重なり合い一見鳥居型のように見える。亀腹曲面が塔身側面全体に占める割合は小さく、その位置も塔身全体の高さにして2/3程のところの割合低いところにあって太い匂欄部分にすぐつながっていく。匂欄部分は相対的に大きく、地覆、平桁、架木などを平らな突帯状に陽刻し、手の込んだ意匠となっている。首部は無地で短く比較的太い。フォルムの違いはあるが塔身のディテールに高野の松源院塔に通ずるものがある。笠は頂部に露盤を高めに削り出し、相輪を受ける枘穴を設けている。露盤側面01_2 は無地。各四注には降棟を付し、その二重突帯は露盤下でつながっている。軒先は4箇所とも欠損している。軒先の厚みはさほど顕著ではないが四隅先端で力強く反っていたことが四注棟の傾斜や軒先の破損面から推定できる。笠全体として高さがあってボリューム感がある。笠裏は地面下にあって観察できない。斗拱部は一部が残るのみで、平面方形で2段に持ち送るタイプのようである。笠との接合面は平らで枘などはみられない。笠同様下部は地面下で観察できない。意匠や彫技は出色といえるものの、基礎上の蓮弁飾付の受座以外は、オーソドクスな定型スタイルで、笠や格狭間の形状などから14世紀初め頃のものと考えたいがいかがであろうか。数多い近江の宝塔中でも指折りの優品で、かえすがえすも破損が惜しまれる。

参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 86ページ


奈良県 葛城市當麻 当麻北墓五輪塔ほか

2007-03-03 01:04:12 | 五輪塔

奈良県 葛城市當麻 当麻北墓五輪塔ほか

当麻寺の北門から北に出て里道に沿って少し行くと、谷をひとつ隔てた尾根一面が共同墓地となっているのが目に入る。尾根は西の二上山から東に向かって伸びており、尾根の先端部にあたる小高い場所に、近現代の墓碑に囲まれ一際異彩を放つ雄偉な五輪塔が立っている。近くで見るとかなり大きい五輪塔で、通常の五輪塔とは明らかに様相が異り、圧倒的な存在感がある。切石加工した基壇上に低い地輪を据Dscf7955 え、水輪は背が高く、重心の高い独特の形状は壷形というよりも棗形ないしリンゴの実のような形をしている。地輪との接面は広く、火輪との接面は小さい。火輪は全体に低く、屋根のたるみは緩く、軒は伸びやかで緩く反り、軒先は厚い。火輪の頂部は比較的小さく、空風輪も風化が激しいが、低い風輪と重心の低い宝珠形の空輪との間に頸を形作る。風輪の半分ほどは表面が滑らかに仕上げられた白っぽいセメントか樹脂状のもので上手に補修されている。火輪から上は風化摩滅が激しく消えかかっているが、地輪と水輪には四方に深く薬研彫された種子が目立つ。種子は五輪塔四門のものである。全体的に凝灰岩製の割にはよく残っている。紀年銘は確認できないため、造立時期は不明だが、雄渾な種子、頸部を設けた空風輪と重心の低い空輪の形状、花崗岩が普及する以前に多用された凝灰岩という石材を採用する点など五輪塔のスタイルが定型化する以前の古風を伝え、悠々たるおおらかさは平安後期の様式を示すものとされる。古い惣墓の中心的な五輪塔であったと思われる。塔高約245cm。すぐ南東の尾根麓には中将姫の墓塔との伝承を持つ花崗岩製13重層塔と凝灰岩製の層塔の残欠が立つ一画がある。十三重層塔は12層以上を失い、別の五輪塔火輪が載せられている。四面無地の基礎は低く、塔身は四面とも2重の輪郭内に舟形光背を彫りくぼめ蓮華座に座す四方仏をDscf7964 半肉彫する。像容表現は洗練されている。各笠は底面に一重の垂木を刻み、二層目の東側軸部中央上辺に10cmほどの穴がある。この軸部内にスペースを設け何らかの納入品を格納したものと考えられる。軒反に力強さはやや弱い。高さ約3m余、一方、凝灰岩製の方は現高約2m、塔身と3層分を残すのみで、風化が進みやや破損もみられる。花崗岩の五輪塔の空風輪を頂上に載せ間に合わせている。これも凝灰岩製の割にはよく原型をとどめている方だと思う。基礎は花崗岩の自然石を代用している。塔身はやや背が高く、雄渾な金剛界四仏の種子を大きく薬研彫する。月輪や蓮華座は見られない。笠は軒の出が小さく、軒は非常に厚く緩い真反を見せ底面は垂木型を入れず素面とする。ひとつの場所で鎌倉様式が定型化した層塔と定型化前の層塔を視覚的に対比できるので、その作風や雰囲気の違いを体感できおもしろい。

参考

川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 161ページ

近畿日本鉄道・近畿文化会編 大和路新書4『當麻』 43~44ページ


滋賀県 東近江市今崎町 日吉神社(引接寺)宝篋印塔

2007-03-02 22:20:22 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市今崎町 日吉神社(引接寺)宝篋印塔

旧八日市市市街地の南方、今崎町は今在家が転訛したといわれ、中世以来の由緒ある土地柄である。日吉神社の参道を入ってすぐ左手に、薬師堂があり、隣接して地区の公民館がある。その前の広場の西側、一段高い場所に石塔や石仏が並べられている。そのDscf8258 中で一番手前に一際大きい宝篋印塔がある。参道を挟んだ南側にある引接寺の所管であるという。基礎は2個の切石を跨いでいるが、これは長い2個の切石と小さい方形の切石を組み合わせ、基壇内部に空間を設けるための工夫をしたものが、正面の小さい方の切石を失ったため、内部の空間が露わになったものと解すべきだろう。もちろんこれが当初からの基壇かどうかはわからない。石塔類が集められている様子から場所の移動の可能性が高い。現在の正面側は保存状態が良好だが背面は砕けたように角がとれて破損し、ところどころ黒っぽく変色している。風化や倒壊ではこのような痛々しい破損は起こりえないので火災にあったものと思われる。基礎は壇上積式で、側面は四面とも格狭間に肉厚の開蓮華を入れている。格狭間は、花頭部の中央が広く、外側の弧が下がっているが、側辺の曲線はスムーズで、脚は短く脚間は狭い。基礎上は2段。塔身には4面とも大きく舟形光背形に彫りくぼめ、内に四仏坐像をしっかりと半肉彫している。笠は上6段、下2段で、3弧輪郭付の隅飾は現在の正面側がほぼ完存しているものの背面側は欠損している。軒と区別して直線的にやや外反し、輪郭内に蓮華座上の月輪を陽刻し肉眼で確認ができないがア(ないしアク?)の種子を陰刻していることが6面で確認できる(2面は破損)。大きく伸びやかでシャープな印象の隅飾である。相輪は伏鉢、請花、九輪の6輪までが残る。続く7輪以上は傍ら置かれた一回り小さい宝篋印塔残欠の笠にコンクリートで固定されている。伏鉢は低く、下請花は複弁、上請花は単弁で宝珠は重心が高く請花とのくびれが強い。九輪の凹凸がはっきりしたタイプで、火災によると思われる破損も共通しているように見え、大きさも釣り合いがとれて当初からのものと見てよいだろう。現高185cmで、元は7尺ないし7尺半の規模は大きい方で、緻密で良質な花崗岩を使用し表面の仕上げも丁寧である。また格狭間や隅飾などの細部の意匠表現、像容優れ肉厚の四仏坐像など全体として完成度の高い出来ばえを示している。鎌倉後期式の宝篋印塔の意匠が最盛期を迎えた頃の特徴を典型的に示しており、優れた宝篋印塔である。火災によるらしい破損が惜しまれる。14世紀初めから前半の造立と思われる。

参考:八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世 633ページ