奈良県 奈良市登大路町 奈良国立博物館庭園石造宝塔(国東塔)
奈良国立博物館新館の南に庭園が整備され池に囲まれた茶室八窓庵がある。大和三茶室のひとつに数えられ、元は興福寺大乗院の庭園にあった江戸中期の茶室である。この場所には以前、館長公舎とその庭があったところのようだ。数年前までは西新館の南のテラスから池を渡って行くことが出来たと記憶しているが、最近庭園が整備されて以降は立入が制限されている。保護のためやむを得ない措置である。茶室を借りて庭園に入ることは可能だが、それなりの団体が茶会を催すような場合に限られ、庭園に配置されたいくつかの石造美術はテラスから池越しにその姿を眺めるしかできなくなった。
ところが、この八窓庵の庭園が一日限定で特別開放されるとの情報を得て早速行ってみた。事前申込不要、ただし先着20名、入館料は必要とはいえ常設展示の500円のみ。博物館ボランティアの皆さんから懇切丁寧なご案内とご説明をしていただいた。三笠山を借景にした美しい庭園と茶室の落ち着いた佇まいに紅葉が色を添え、大勢の観光客で賑わう奈良公園の雑踏がウソのような落ち着いた別天地で至福のひと時を過ごすことができた。
庭園の石造美術のうち、特に興味を引くのは国東塔である。国東塔というのは大分県国東半島を中心に分布する特異な形式の石造宝塔のことで、天沼俊一博士による命名である。相当数の国東塔が流出しているようだが、現地以外で実物を見学できる機会はやはりそうそうあるものではないので貴重な存在と言える。相輪上半を欠いた現状塔高216cm。凝灰岩製。方形の基壇は長方形の延石を2枚並べ、隙間に小さい石材を挟み込む。基礎は幅76cm、高さ47cm、側面高19.5cm。側面は二区に区画して羽目に格狭間を入れる。格狭間は低平で花頭中央が高く外側の弧が怒り肩気味に横に張って全体が平らな菱形のように見える。基礎上端には大きく高い覆輪付の複弁反花座を設け、反花座上端は平面円形にして低い敷茄子のような框を刻みだす。反花は側面一辺あたり主弁1枚、四隅に一枚で弁間には小花(間弁)がのぞく。東側の反花の中央上端、敷茄子框部の直下に直径7cm程の貫通穴が見られる。火葬骨を落とし込んだ納骨穴だとのことである。
基礎の上には別石の小花付単弁八葉の大きい請花座を挟み込んでから塔身を載せる。基礎と塔身の間にこのように大きい反花座と請花座を挟み込むのが国東塔の最大の特長で、近畿の石造宝塔にはまず見られない独特の手法である。塔身は素面で高さ58cm、首部と軸部からなり、軸部は棗実状の宝瓶形で最大径66cm、首部は高さ7cm、径40cm。南側の軸部の肩にも径10cm程の穴が穿たれている。穴の中には掌に納まるくらいの大きさの経石が納めてあったとのことである。笠石は軒幅78.5cm、高さ46cm。軒口はあまり厚くなく、隅付近で急激に反る。軒裏には一段の垂木型が刻まれている。古い国東塔で軒裏に垂木型を刻出する手法は珍しいとのことである。笠上には露盤が刻出され、側面を二区に区画して小さい格狭間を入れる。相輪は別物の転用とのこと。なるほど伏鉢の幅が露盤の幅より若干大きいように見える。残っているのは下から40cmまでで、火炎宝珠を含む相輪上半部は亡失し現在は後補材で上手に補われている。伏鉢に複弁反花を刻むのもこの辺りでは目にしない手法。塔身に礫石経などを入れて作善供養を行い、さらに塔下に火葬骨を入れて造塔供養の功徳に結縁せんとしたのであろう。元の所在地は不詳で、いったん東京に出た後ここに納まったとのこと。造立時期は南北朝頃とされている。それにしても滋賀県など近畿地方の石造宝塔を見慣れた目には少々奇異に感じる構造と意匠表現が印象に残った。
参考:望月友善『大分の石造美術』
まずは貴重な機会を設けていただいた博物館当局に感謝申し上げる次第です。
文中法量値は望月氏の著書に拠ります。望月氏は鎌倉時代末期、元亨頃の造立時期を推定されています。
庭園にはこのほか宝篋印塔、一石五輪塔、般若寺型石灯籠があります。宝篋印塔は段形部分、隅飾、露盤や相輪など近畿ではまず目にしない珍しい手法が随所に見られます。原位置はやはり大分県国東とのことで南北朝時代のものだそうです。般若寺型石灯籠は江戸時代の模作。むろん本歌は般若寺本堂前のものですが、実はこれも模作らしく本当の本歌は東京の椿山荘にあるといいます。一石五輪塔は古式のものですが小さくあまり目立たないので西新館のテラスからではほとんど見えません。また、繰り出しのある古代寺院の巨大な礎石が踏分石としていくつか見られました。伽藍石と呼ばれるものです。まぁ保護保存の現地主義の原則からは少し複雑な気持ちもありますが、とにかく八窓庵と庭園は素晴らしいの一語に尽きます。今後も時々特別公開される見込みとのことなのでアンテナを高くして機会をうかがっておかれることをお薦めします。