京都府 木津川市木津大谷 木津東山墓地の石造物
JR木津駅の南東約600m、木津の町を見下ろす小高い丘陵上に東山墓地がある。
坪井良平氏の研究で名高い木津惣墓は、移転して現在この場所にある。旧地にあった石造物の多くもここに移され保存されている。旧惣墓の西端付近にあって明治初期の洪水に流され廃滅したという長福寺が移転地であるこの場所に復興されている。今回はここに残された石造物の一部を紹介したい。
まず、寛永十年(1633年)銘の水船。元々は五輪塔の北側、道を隔てたすぐ近くに「楊谷地蔵」と呼ばれた地蔵石仏があり、その傍らにあったとのこと。現在は東山墓地の西端近くの軍人墓地の入口に置いてある手水鉢がそれである。側面に「山城國相楽郡/木津庄/惣墓五輪…/三界万霊…/无両縁…/為□菩…/施主…/寛永十年…」なる刻銘があるそうだが、この日は光線の加減もあって肉眼判読は困難であった。割合大きい文字で彫ってあり、「木津」とか「惣墓」などところどころ拾い読みができる。花崗岩製。坪井氏が指摘されるように、江戸初期には既に木津惣墓と呼ばれ、そこにかの大五輪塔があったことを示すものとして注目される。
ちなみに現在「楊谷地蔵」は、軍人墓地の南側の一画、地蔵石仏や棺台などが集められている場所にある。向かって左端にあるのがそうで、舟形光背頭上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻み、向かって右下に永正14年(1517年)の紀年銘がある。錫杖に石突が表現されているのが面白い。その北隣にあるのは墓地の葬堂の本尊であった地蔵石仏で、お鼻が少し欠損しているが、風化が少なく、風雨に曝されない屋内に長く安置されていたと考えられている。舟形光背面の頭上、頭部の左右にそれぞれ二つづつ「イー」、「カ」等の六地蔵の種子を刻み、明応3年(1494年)の刻銘が鮮やかに残っている。法華講衆の造立。その隣にあるのも天文14年(1545年)の銘があり、舟形光背面頭上に「シリー」の梵字を刻む。「シリー」は仏眼仏母、最勝仏頂尊、吉祥天等の種子であるが、ここでは何を意味するのか不詳。地蔵講衆による造立。これらの地蔵石仏はいずれも花崗岩製である。手前の棺台と供台にはそれぞれ宝永、享保の銘があり坪井氏の論考に図が載っている。それから墓地の入口にある六地蔵も注目すべきもので、六体そろって錫杖を持たない矢田型で、舟形背光面に願主銘があるが紀年銘はない。中央の一際大きい等身大の地蔵石仏は、優美なプロポーションと大きい頭円光背が特長。背面の衣文も表現された丸彫りで、面相もなかなか優れる。頭光背面は円光というより先端が尖った宝珠形で、広めにとった正面の平坦面に刻銘があり、文明6年(1474年)の紀年銘があるらしいが風化摩滅が進んでほとんど確認できない。元は大五輪塔と葬堂の中間付近の北寄りにあったようで、この近くには墓鳥居もあったらしい。また、西端の地蔵石仏は六地蔵よりずっと大きく、紀年銘はないがやはり室町時代のもので舟形光背面の刻銘から地蔵講衆による造立と知られる。このほか背光の五輪塔や宝塔、箱仏、板碑等にも見るべきものが多く、近年、長福寺御住職と石造美術研究家の篠原良吉氏のご尽力によって駐車場南側に見やすく集められ、見学の便宜が図られているのは何とも喜ばしい。こうしたご配慮、ご尽力を知るにつけ、我々見学者はただただ感謝の思いを禁じえない。これら背光五輪塔や板碑類の詳細については篠原氏による考察があるのでぜひ参照されたい。
参考:坪井良平 「山城木津惣墓墓標の研究」『歴史考古学の研究』(再録)
川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』
篠原良吉 「京都府相楽郡木津町東山墓地長福寺の石塔について」
『史迹と美術』第759号
最近東山墓地の付近は大規模な開発で山が切り開かれ様子が変わってきています。こうして往昔以来の景観が失われゆくのはちょっと寂しい気もしますね。なお、時間の都合で計測できなかったのでまたそのうち訪ねた際に計ってきます。
今年はこれでおしまい、今年もご愛顧ありがとうございました。皆様どうかよいお年をお迎えください。