石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 木津川市木津大谷 木津東山墓地の石造物

2011-12-30 11:44:53 | 京都府

京都府 木津川市木津大谷 木津東山墓地の石造物

JR木津駅の南東約600m、木津の町を見下ろす小高い丘陵上に東山墓地がある。08_2

坪井良平氏の研究で名高い木津惣墓は、移転して現在この場所にある。旧地にあった石造物の多くもここに移され保存されている。旧惣墓の西端付近にあって明治初期の洪水に流され廃滅したという長福寺が移転地であるこの場所に復興されている。今回はここに残された石造物の一部を紹介したい。01

まず、寛永十年(1633年)銘の水船。元々は五輪塔の北側、道を隔てたすぐ近くに「楊谷地蔵」と呼ばれた地蔵石仏があり、02_2その傍らにあったとのこと。現在は東山墓地の西端近くの軍人墓地の入口に置いてある手水鉢がそれである。側面に「山城國相楽郡/木津庄/惣墓五輪…/三界万霊…/无両縁…/為□菩…/施主…/寛永十年…」なる刻銘があるそうだが、この日は光線の加減もあって肉眼判読は困難であった。03割合大きい文字で彫ってあり、「木津」とか「惣墓」などところどころ拾い読みができる。花崗岩製。坪井氏が指摘されるように、江戸初期には既に木津惣墓と呼ばれ、そこにかの大五輪塔があったことを示すものとして注目される。04_3 05_4

ちなみに現在「楊谷地蔵」は、軍人墓地の南側の一画、地蔵石仏や棺台などが集められている場所にある。向かって左端にあるのがそうで、舟形光背頭上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻み、向かって右下に永正14年(1517年)の紀年銘がある。錫杖に石突が表現されているのが面白い。その北隣にあるのは墓地の葬堂の本尊であった地蔵石仏で、お鼻が少し欠損しているが、風化が少なく、風雨に曝されない屋内に長く安置されていたと考えられている。舟形光背面の頭上、頭部の左右にそれぞれ二つづつ「イー」、「カ」等の六地蔵の種子を刻み、明応3年(1494年)の刻銘が鮮やかに残っている。06法華講衆の造立。その隣にあるのも天文14年(1545年)の銘があり、舟形光背面頭上に「シリー」の梵字を刻む。「シリー」は仏眼仏母、最勝仏頂尊、吉祥天等の種子であるが、ここでは07何を意味するのか不詳。地蔵講衆による造立。これらの地蔵石仏はいずれも花崗岩製である。手前の棺台と供台にはそれぞれ宝永、享保の銘があり坪井氏の論考に図が載っている。それから墓地の入口にある六地蔵も注目すべきもので、六体そろって錫杖を持たない矢田型で、舟形背光面に願主銘があるが紀年銘はない。中央の一際大きい等身大の地蔵石仏は、優美なプロポーションと大きい頭円光背が特長。背面の衣文も表現された丸彫りで、面相もなかなか優れる。頭光背面は円光というより先端が尖った宝珠形で、広めにとった正面の平坦面に刻銘があり、文明6年(1474年)の紀年銘があるらしいが風化摩滅が進んでほとんど確認できない。元は大五輪塔と葬堂の中間付近の北寄りにあったようで、この近くには墓鳥居もあったらしい。また、西端の地蔵石仏は六地蔵よりずっと大きく、紀年銘はないがやはり室町時代のもので舟形光背面の刻銘から地蔵講衆による造立と知られる。このほか背光の五輪塔や宝塔、箱仏、板碑等にも見るべきものが多く、近年、長福寺御住職と石造美術研究家の篠原良吉氏のご尽力によって駐車場南側に見やすく集められ、見学の便宜が図られているのは何とも喜ばしい。こうしたご配慮、ご尽力を知るにつけ、我々見学者はただただ感謝の思いを禁じえない。これら背光五輪塔や板碑類の詳細については篠原氏による考察があるのでぜひ参照されたい。

 

参考:坪井良平 「山城木津惣墓墓標の研究」『歴史考古学の研究』(再録)

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

   篠原良吉 「京都府相楽郡木津町東山墓地長福寺の石塔について」

        『史迹と美術』第759号

 

最近東山墓地の付近は大規模な開発で山が切り開かれ様子が変わってきています。こうして往昔以来の景観が失われゆくのはちょっと寂しい気もしますね。なお、時間の都合で計測できなかったのでまたそのうち訪ねた際に計ってきます。

今年はこれでおしまい、今年もご愛顧ありがとうございました。皆様どうかよいお年をお迎えください。


川勝博士と文章

2011-12-25 13:09:30 | ひとりごと

川勝博士と文章

12月23日は川勝政太郎博士の命日に当たります。1905年のお生まれなので今年で生誕106年、亡くなられたのが1978年なので没後33年になります。

博士が編集主幹として生涯を費やして手がけられた『史迹と美術』誌の古いバックナンバーをめくっていると、面白い記事を目にすることがあります。先に紹介した伊行末を偲ぶ会を催された件もそうですが、こうした記事からは川勝博士の人となりを垣間見ることができ、たいへん興味深いものがあります。

川勝博士は、石造美術をはじめ多様なテーマで多くの著作を残されています。本格的な内容を啓蒙的にわかりやすく、しかも簡潔に書かれた博士の文章を読むにつれ、よく練られた文章だと感心しています。

昭和16年9月発行の『史迹と美術』第130号に載せられた「編後私記」に川勝博士自身の言葉で面白いことが書かれています。「…それから次に谷崎潤一郎の「盲目物語」、「芦刈」、「春琴抄」を又引つぱり出して読んだ。この文豪の近年の物語風な著作は不思議に心を捕らえるものがある。あの風格のある文章の力は大きい。我々の書くものでも、こう言う風に人の心を捕らえるようにならないものかと、つくづく思う。文章にもいろいろある。読んでも何を言っているのか判らぬ文章、判るが面白くもない文章、人を引き付ける文章、再三読み返したい印象を受ける文章。原稿紙を汚すこと幾許かを知らない我々だが、さて文章とは難しいものである。琢磨し尽してしかも平凡な文章が書けるようになりたいものだと思うが、残念ながらその十が一も及びつかない。文芸作品と論文とは別なものだが、谷崎のものなどを読むと何か一考すべきものを感じる。」(仮名遣等を一部改変)とあります。川勝博士が谷崎を評価し、人の心を捕らえる文章の表現力に着目し、「琢磨し尽してしかも平凡な文章」を志向しようとされたことがわかります。一方、昭和40年8月発行の『史迹と美術』第357号に「谷崎文学と石造美術」というコラムを書かれています。前月に亡くなった谷崎へのオマージュ的なコラムで、それによると谷崎の『瘋癲老人日記』という小説の文中に、川勝博士の実名が出てくるんだそうです(…小生はまだ読んでません)。さらに京都の著名な石造美術品に関する記述もあるそうで、登場人物のセリフの中などに間接的に登場し、内容から昭和23年発行の『京都石造美術の研究』が元ネタになっているらしいとのことです。谷崎と直接面識はなかったとのことですが、知らない人が読めば「川勝なる人物も架空のものとする人も多いだろうと思うと苦笑を禁じえない」と述べておられます。面白いですね。

それにしても文章の力、表現力というのは大切なことだと思います。読み手にうまく伝わらなければ何も言ってないのと同じだし、人の心をつかむことができなければ広く共感を得ることはできません。むろん博士もおっしゃるように論文と文芸作品は違いますが、言葉の定義の空虚な議論、難解な論文等を読むと、単なる論者の自己満足じゃないか、誰のため何のための議論なのかを忘れてないか、と思うこともあります。

何もこのことに限ったわけではありませんが、ことに等閑視される石造物の価値を顕彰していくうえでは、その重要な方便として文章や言葉の問題はよくよく考えなければならないことだと思います。

ちなみに、平成2年11月の史迹美術同攷会の創立60周年記念祝賀会での記念講演における、三歳年下の盟友であった佐々木利三氏の証言によれば、川勝博士は若い頃、小説を書いておられたことがありペンネームは「東条元(とうじょうもと)」といったらしいです。いや面白いですね。

 

参考:   川勝政太郎 「編後私記」 『史迹と美術』第130号

      川勝政太郎 「谷崎文学と石造美術」 『史迹と美術』第357号

      佐々木利三 「史迹美術同攷会六十年の歩み-故川勝主幹と私-」

         『史迹と美術』第612号

                   史迹美術同攷会創立六十周年記念祝賀会記録


京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

2011-12-15 00:42:56 | 五輪塔

京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

JR木津駅の西方約400m、国道24号線から西に少し行くと地区の公民館脇のちょとした空地に見上げるような五輪塔が忽然と姿を現す。01何故このような場所に場違いとも思える巨大な五輪塔が建っているのか首を傾げたくなるが、実はこの付近は、かつて木津地域の古い惣墓(共同墓地)があった場所なのである。昭和の初め頃の土地区画整理で駅の東方の山手に墓地は移転した。03昭和5年頃から約2年半をかけて墓地にあった大量の墓標や石塔等を調査され、形態や紀年銘、数量などから墓地の変遷を明らかにされた坪井良平氏の研究で石造物の研究史の上からも名高い場所である。墓標・石塔類は三千基以上あったとされ、調査から漏れた石造物も少なくなかったようである。移転と平行して行なわれたであろう調査ではそれも致し方ない。今でも道路工事などの際に地中から石塔などが出土することがあるという。

その後、辺りは市街化が進み、かつての面影を偲ぶよすがもほとんど無くなってしまったが、惣墓の総供養塔として造立されたと考えられているこの巨大な五輪塔は今も元の場所にその雄姿をとどめているのである。

花崗岩製で地輪下には反花座がある。高さは3.67mとされ、巨大五輪塔として名高い西大寺奥の院の叡尊塔(高さ3.34m)に比肩する規模を誇る。もっとも空風輪は、空輪先端の尖りが大きく、側線が直線的でくびれも大きいことから時代が降る特長が顕著で後補と考えてよさそうである。地輪は幅約119cm、高さ約79cm、水輪の径約123cm、高さ約92cm、火輪の軒幅は約114.5cm、高さ約70.5cm。地輪下端から火輪上端までの高さ241.5cmで、各部の計測値は叡尊塔よりも若干小さい。空風輪の高さは目測で1m程なので、高さ3.67mというのは反花座を含んだ総高かもしれない。仮にそうだとすると塔高は約3.4m余りであろうか。地輪側面には造立銘が陰刻されている。05_3東面に「同七月十五日阿弥陀経/一万遍光明真言□□□/和泉木津僧衆等/廿二人同心合力/勧進五郷甲乙諸/人造立之毎二/季彼岸光明真言/一万反阿弥陀経/四十八巻誦之可/廻向法界衆生/正応五年(1292年)壬辰八月日」とあるのが当初の造立銘だが、最初の二行は文字の大きさや文意から追刻と考えられている。地元の僧22人が協力して勧進し、5つの地域のさまざまな人々からの寄付によって作られたことがわかる。毎年二度の彼岸に光明真言と阿弥陀経を読誦し、衆生を回向せんとする旨も記されている。また、北面には「和泉木津□川廿坪内自/未申角木屋所一段自/□作□以光明真言/本□□之後□分/□者□□畢時正/永仁四年(1296年)八月十九日」の追刻銘があり、回向読経のための寄進地のことなどを刻んであるようである。さらに南面にも追刻銘があり、「永禄五年(1562年)壬戌/妙林禅□/道心禅門/妙心道心/十月廿七日/妙音/善道/妙順/□□/□西」とされる。これはどうやら何らかの原因で失われた空風輪を新補した際の結縁者と考えてよさそうである。水輪は裾のすぼまり感がない球形に近い形状で、どっしりとした安定感がある。西側中央に阿弥陀如来の種子と思われる「キリーク」が薬研彫されている。火輪の軒口は重厚で、隅で力強い反転を見せ、軒の厚みの隅増しが顕著でない。後補の空風輪を除くと各部材とも背が低めで全体に安定感があり、特に火輪の軒や四注の造形はシャープで力がこもっている。また、地輪下の反花座は、現状では下方が埋まって全体を確認できないが、石材に継ぎ目があり、これをよく観察すると、西側には継ぎ目がなく南と北は西寄りに継ぎ目が1ヶ所ある。04_3東側は2ヶ所に継ぎ目があって、大小4つの石材を組み合わせて反花座を作っていることがわかる。継ぎ目のない西面が本来の正面と考えられ、東側中央の一番小さい石材は、塔のバランスを崩さずに取り外すことが可能で、仮に塔下に大甕などを埋け込んだ埋納スペースがあった場合、この一番小さい石材をずらせて火葬骨片などを反復継続して投入することができたと思われる。反花座の蓮弁は隅を除く一辺あたり主弁が四枚、各主弁の間に小花(間弁)を配した複弁で、大和系の反花座の特長である四隅を間弁にするタイプではなく、隅を主弁としている点は注意すべきである。各間弁の根元はかなりの幅をもって受座に達している。五輪塔に伴う反花座としては規模が大きく、古い事例として注目すべきである。ただ、蓮弁の彫成はやや平板な印象を受けるため、この反花座が造立当初から一具のものであったか否かの判断にはなお慎重な検討が求められるだろう。

木津は山城の最南端、大和に近接する場所で、大和の石造文化圏に属する地域と考えられている。大和を中心に鎌倉時代後半から南北朝期頃にかけて、共同墓地の総供養塔として造立されるこうした五輪塔としては最古にして最大のもので、造立銘からも共同墓地全体の供養塔としての性格を裏付けている点で貴重な存在である。

なお、傍らには長谷寺型観音石仏など数点の石造物が残されている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

 

文中法量値は、高さは『日本石造美術辞典』、その他は『五輪塔の研究』によりますが、便宜上5mm単位に2捨3入しました。

とにかくすごい五輪塔ですが、少しわかりにくい場所にあって初めて訪ねた時には辺りをぐるぐる行ったり来たりを繰り返してようやく見つけた記憶があります。以来何度か来ていますが駐車できるスペースがないので、いつもエンジンをつけたまま道路脇に停めてごく短時間しか見れません。じっくり観察する場合は木津駅から徒歩というのが正解と思います。地輪の上端面には盃状穴と呼ばれる径10㎝内外の穴がたくさんあります。これに限らず石造物にしばしば見られるこの穴はいったい何なのでしょうか…。