石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その3)

2012-03-31 23:26:52 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その3)

国宝の多宝塔のある平坦地の西の隅、位置的には経蔵と宝蔵の中間付近にあたる目立たない場所に「めかくし石」(一説に「めくら石」とも)と呼ばれる石造宝塔がある。04詳しくは知らないが目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うということらしい。03_3花崗岩製。直接地面に基礎を据えた堂々たる宝塔で、現状高約312cm。相輪は後補でこの相輪を除く笠上までの高さだけでも2mを越す大型塔で、元は十尺塔であろう。基礎は高さ約48cm、幅は上端で約121cm、下端で約125cm、下端の北西隅は大きく欠損したようになっており20cm前後の石をいくつか込めて安定を図るとともに形を整えている。基礎の下方は全体的にやや不整形で、欠損したように見える部分も当初からこうなっていた可能性もある。各側面とも素面。塔身はやや胴張りの円筒形の軸部の上端に首部を一石彫成し、素面で扉型などの装飾は見られない。塔身全体の高さは約93cm、軸部の高さ約76cm、最大径約82cm、首部は高さ約16cm、下端の径約63.5cm、上端で約60.5cm。笠石は軒幅約106.5cm、高さ約63cm。軒の厚みは中央で約13.5cm、隅で約14cmと笠全体のサイズに比して特に厚いという程ではなく、隅増しがほとんどない。軒反は緩やかで真反りに近い印象である。笠裏には垂木型など作らない素面で、中央に塔身首部を受ける円形の彫り沈めを設けている。笠は全体的に背が高い印象を受ける。屋根の勾配も急で四注は鋭くしのぎ立てているが降棟の突帯は見られない。笠頂部には低い露盤を刻み出す。その幅は約36cm、高さ約5.5cm。相輪は高さ約108cm、風化が少なく、宝珠先端の尖りが大きいのは近世の特長で後補である。無銘。3mを越す規模の大きさ、一切の装飾を廃した無骨な意匠が特長で、全体にどっしりとした安定感があり、大きく背の低い基礎、やや背の高い円筒形の塔身、隅棟の突帯がない屋根の四注、軒の様子などは鎌倉時代中期に遡る古い特長である。一方、笠の背が高く屋根の勾配が急でかつ屋根の反転(軒口の隅付近の反転ではない)が目立つ点はやや新しい要素である。古い要素を評価された川勝博士は鎌倉時代中期とし、逆に新しい要素を積極的に評価した田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、永仁頃(1295年)の造立と推定されている。四注をしのぎだてることで隅棟を強調してみせるために屋根の側面を強めにそぎ落としてシェイプアップした結果、屋根面の反転が大きく見えるのであって、これはそれほど新しい要素として重視しなくても良いと小生は思う。したがってもう少し造立時期を遡らせて支障ないと考えるがいかがであろうか。重要美術品指定。

石山寺にはもう一基、石造宝塔がある。瀬田川の眺望を抱く月見亭と呼ばれる望楼建築があり、その直下、一段下がった梅林に面した崖下にある淳祐内供の塔とされるのがそれである。玉垣をめぐらせた中に建ち、石山寺第三代座主、淳祐(890~953)の墓塔と伝えられる。淳祐は菅原道真の孫に当たる平安時代中期の真言宗の高僧で、石山寺中興の祖と仰がれる人物。聖宝、観賢とつながる小野流の正統を継ぐべきを自ら辞退して石山寺普賢院に入り、事相研究と後継育成に努め今日の石山寺の基礎を築いたとされる。宝塔は花崗岩製で相輪先端を欠き、現存塔高約171.5cm。地面に延石を方形に並べた基壇は当初から一具のもの

か否かは不明だが、その上に据えられた基礎は、高さ約33.5cm、幅約71cmとかなり低い。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配する。輪郭は左右束部分が広く、格狭間内は素面で格狭間の作りは少々ぎこちなく形状もやや不整形だが彫りが深いのが特長。脚間並びに上部中央花頭が狭いので水平方向への伸びやかさに欠ける。塔身はやや胴の張った円筒形の軸部の上部に首部を一石彫成し、高さ約46.5cm、最大径約40.5cm。軸部の高さ約40.5cm。首部は高さ約5.5cmで、首部の基底部径約30cm、上端部で径約28cm。側面は素面で扉型などの装飾はみられない。笠は軒幅約62.5cm、高さ約41cm。軒口の厚みは中央で約8.5cm、隅で約12cm。笠裏には二段の斗拱型を設け、屋根四注の降棟は断面凸形の突帯で表現する。笠の頂部には露盤を刻み出す。降棟の突帯は屋根の上端まで達せず、屋根の露盤近くに一段素面部分を帯状に周回させるのはあまり類例のない手法である。

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露盤は高さ約5.5cm、幅は下端で約23cm上端はそれより約1cm狭い。相輪は先端を欠き、高さ約50cm。九輪部の八輪め以下が残る。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は弁端をしのぎ立てた形の覆輪付単弁八葉。九輪部の凹凸は明瞭である。基礎は背が低く、笠は屋根が低平で軒口は適度な厚みを持ち、軒の張り出しに軽快感がある。基礎の輪郭束の幅を広くしてやや不整形な小さめの格狭間を置くのは、東近江市柏木町の正寿寺宝篋印塔妙法寺薬師堂宝篋印塔など近江では鎌倉時代中期末から後期初頭頃の石塔基礎側面に共通する手法。塔身は基礎と笠のサイズに比べて小さ過ぎの観が否めない。加えて風化の程度、石の色や質感なども異なるように見えるため別物の可能性も払拭し切れない。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半頃のものと推定されている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江石山寺の石造美術()」『民俗文化』第144号

 

これまた法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。めかくし石はやはり鎌倉中期の後半頃でよいと思います。一方伝・淳祐内供塔は難しいです。笠と基礎にも年代の不整合があるような気がします。笠は田岡説よりもう少し新しいようにも思えますが…うーんどうなんでしょうか。石山寺の石造美術はひとまずこれで終りですが、伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔とされる宝篋印塔は見学機会があれば改めてご紹介したいと思います。なお、『民俗文化』143号の田岡報文によれば、これらのほかに延元2年(1337年)銘の五輪塔地輪と思われる石造物があるそうです。場所は伝・悪源太(悪七兵衛)塔のさらに奥まった場所らしく、やはり立入禁止区域のようなので実見できません。田岡報文に基づいてざっと述べると、緻密な砂岩質の石材で幅約56㎝、高さ約30㎝。側面三方にわたり「従五位/左近衛/将監兼/石見守/身人部/清鷹/延元二年/三月十日卒/忠臣」との刻銘があるようですが、石の表面の仕上げ方や書体等から田岡氏は近世の後刻と断定されています。実見できないので何ともいえません。身人部清鷹という人物について詳しくありませんが南朝方の忠臣ようです。同報文を読むと延元2年の五輪塔基礎?は、そもそも景山春樹氏の『近江の金石文資料』にあったそうです。きちんと調べもしないで後刻のこんなのを載せている!として厳しく景山氏を非難する田岡氏の舌鋒は例によってたいへん鋭いものがあります。しかし、わざわざ行数を裂いて何もここまで言わなくてもいいと思いますが…。すいません余談でした。


滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

2012-03-28 23:40:18 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

国宝の多宝塔(最近修理が終ったばかり、伸びやかな軒やメリハリの効いたプロポーション、素晴らしいの一語に尽きます・・・)のすぐ西側に一段高く生垣で区画された一画がある。ここに2基の宝篋印塔が東西に並んでいる。06_5源頼朝と彼の乳母の亀谷禅尼の供養塔と伝えられる。01_2どちらが頼朝でどちらが亀谷禅尼のものか、またなぜそのように伝えられているのかについては詳しくないが、頼朝らが活躍した時期までは遡るものではない。どちらも延石を方形に組み合わせた基壇を地面に設え、その上に建つ。これらの基壇が当初からのものかどうかは不詳だが、サイズや見た目の質感からは一具のものと考えて特に支障はなさそうである。どちらも基礎から相輪まで揃っており、ともに花崗岩製。同じくらいの規模でよく似た印象であるが、よく見ると細部の意匠が異なっている。東側、つまり向かって右側、多宝塔寄りの方は高さ約147cm、基礎上複弁反花で、四隅と側辺中央に主弁を置き、主弁間に大きい小花を配する。側面は壇上積式で四方の羽目部分に格狭間を入れている。格狭間内は開敷蓮花のレリーフで荘厳する。開敷蓮花は平板でなく厚みをもったタイプ。02_2格狭間は羽目いっぱいに大きく作られ花頭中央が広く整った形状を示す。葛部、地覆部、左右の束の幅を狭くして羽目部分を広く作っている。05基礎幅は葛部で約46cm、地覆部で45.5cm、束部の幅は約1.5cm程小さい。高さは約37cm、側面高約27cm。塔身は幅、高さともに約22.5cm。各側面には線刻月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は軒幅約42cm、高さ約32.5cm。軒の厚みは約4cm。上六段下二段の通有のもの。軒と区別し少し入って立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面である。相輪は高さ約56cm。九輪の凹凸は明瞭。下請花は小花付複弁八葉、上請花は覆輪付単弁のようである。先端宝珠はやや大きめで重心が高く、先端尖りを大きめに作っている。伏鉢下端の径が17.5cmで笠最上段の幅約15.5cmを上回り、別物の疑いが強い。一方、西側、向かって左手のものは高さ約161cm、基礎上二段、幅約50cm、高さ約33cm、側面高は約25cmとかなり背が低い。各側面とも輪郭を巻き、内に格狭間を入れる。格狭間は概ね整った形状で彫りはやや深く、左右輪郭との間に隙間がある。格狭間内は素面。塔身は高さ幅とも約26cm。線刻月輪内にア、アー、アン、アクの胎蔵界の四仏の種子を薬研彫している。04笠は上六段下二段、軒幅は約48.5cm、高さ約37.5cm。軒の厚み約5cm。03_2軒から少し入って若干外傾する隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。相輪は高さ約63.5cm、九輪上端近くで折損しているのを上手く接いである。九輪の凹凸は明瞭で下請花は覆輪付単弁八葉、上請花は小花付単弁八葉に見える。宝珠はやや重心が高いが整った曲線を描く。2基ともに無銘であるが、造立時期について、田岡香逸氏はそれぞれの外形的特長から西塔がやや古く鎌倉時代末の1325年頃、東塔は南北朝時代初頭頃で1330年を遡らないと推定されている。妥当な年代観と思われるが、西塔はもう少し古いかもしれない。西塔は重要文化財指定。また、田岡氏は東塔の意匠の特長から蒲生郡日野町蔵王の石工の手になるものと推定されている。石山寺にはもう一基、古い宝篋印塔が残されている。悪七兵衛ないし悪源太の供養塔とされるもので参道を北の本堂に上らず、西側の谷筋を奥に進んだ八大竜王社のさらに奥にあるようだが、残念ながら一般参拝客は立入禁止の区域で見学は叶わなかった。田岡氏の報文に基づき概略だけ紹介する。相輪を失い五輪塔の空風輪を代わりに載せ、笠上までの高さ146cmというからかなりの大型塔である。花崗岩製で基礎上二段、基礎側面は3面が輪郭格狭間、1面は素面。塔身には胎蔵界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。笠は上六段下二段、隅飾は二弧輪郭。鎌倉時代後期の中頃のものと推定されている。相輪代わりの五輪塔の空風輪もかなり大きい立派なもので鎌倉時代後期のものらしい。ちなみに悪七兵衛というのは平家の勇者であった平(藤原or伊藤)景清、悪源太というのは源義平であろう。頼朝の庶兄である義平は平治の乱の後、石山寺に潜伏していて捕縛されたと伝えられる。彼らの活躍した時期は宝篋印塔の造立時期とは100年以上の隔たりがある。(続く)

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江石山寺の石造美術()」『民俗文化』第144号

 

伝・頼朝&亀谷禅尼供養塔はともに150cm前後なので五尺塔と思われますが、塔高が147cmと161cmでちょっと中途半端な数値です。それぞれ相輪を入れ替えるとともに154cm前後になりちょうどよい数値になりますのでいちおうその可能性を考慮してもいいかもしれません。ここもコンベクス計測は憚られ、法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めました。緑の苔が映えて美しい宝篋印塔ですが、生垣が少々邪魔なので生垣の葉が少ない冬場が観察に適しています。一見すると同じように見えますが、基礎上二段と反花、輪郭式と壇上積式の側面や格狭間内素面と開花蓮、塔身の胎蔵界と金剛界の四仏種子とけっこう相違点があります。この違いがわかる人はちょっとした石造通と言えるでしょう。それと種子がショボめなのは近江の特色で大和などの種子との単純比較はできません。

伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔に行こうと奥に進むと立入禁止の看板が・・・。たまたま通りかかられたお寺の作業員と思しき方に尋ねると、この奥は作業小屋があるだけでそんなものは知らないなぁとのこと。鷲尾座主の監修の下に作られた公式解説書ともいうべき『石山寺の信仰と歴史』(お寺でも売っています)にも記載があるのに・・・残念ですがまぁ仕方がありませんね。

 

東塔が頼朝、西塔が亀谷禅尼のものとされているようです。


滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その1)

2012-03-26 23:13:04 | 五輪塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その1)

琵琶湖から流れ出る唯一のアウトレットである瀬田川は、下流で宇治川となり桂川や木津川などと合流しながらやがて淀川となって最終的には大阪湾に注いでいく。01石山寺はその瀬田川右岸に位置する名刹、湖国が誇る有数の観光寺院である。境内の見所は枚挙に暇がないので見過ごされがちになるのはやむを得ないが、実は見るべき石造美術もいくつか残されている。近江八景「石山の秋月」としても知られ、02山号は石光山、西国三十三箇所観音霊場第十三番札所で東寺真言宗(総本山は東寺すなわち教王護国寺)の大本山である。本尊は如意輪観音。創建は奈良時代に遡り、聖武天皇勅願、良弁僧正の開基とされる。東大寺への用材を運搬する水運の拠点であったとも言われており、古くは南都との関わりが深かった。木芯部分だけになった塑像の蔵王権現など貴重な仏像も多数残っており、いち早く密教を導入していたことが知られる。また、平安時代初め頃には醍醐寺との関係が深かったようである。平安貴族による石山詣が流行し、「和泉式部日記」、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」などにも登場する。かの紫式部も参篭中に「源氏物語」の着想を得たと伝えられる。本堂は、滋賀県では現存最古の木造建築で平安時代、永長元年(1096年)に再建されたもの(外陣は桃山時代末頃の補加)。03_2多宝塔は鎌倉時代初期、建久五年(1194年)に建てられたことが判明しており、建築時期の確実な多宝塔では現存最古のもので、源頼朝の寄進とも伝えられる。ともに国宝。山門(東大門)と鐘楼も鎌倉時代の建築とされる。04また、尾根の斜面に露出する巨大な珪灰石の岩盤が奇観を呈し、国の天然記念物に指定されている。

場所的には琵琶湖の南端、湖岸沿いの平野部が瀬田川に沿って狭まり、この付近で川の両岸間近まで迫る丘陵で遮断されるような地形になっている。05つまり水陸を問わず瀬田川沿いに南下しようとすれば必ず門前を通らなければならない交通の要に当たる点は注意しておきたい。

本堂と多宝塔の中間、本堂より少し上った所、校倉造の経蔵の脇に珍しい三重の宝篋印塔がある。寺伝では紫式部供養塔とされるが、我国の石造宝篋印塔で平安時代にまで遡るものはない。花崗岩製。相輪は亡失。代わりに五輪塔の空風輪が載せられている。この空風輪を除く高さは約239cm。基礎は幅約75cm、高さ約66cm、側面高約50.5cmとやや背が高いが、下端が少し不整形なので元は台座や基壇を伴わず、下方を地面に埋め込んでいたものと思われる。基礎各側面は素面で、基礎上二段。三重の宝篋印塔なので通常1つづつの塔身(軸部)と笠石はそれぞれ3つづつある。とりあえず下の笠、中の塔身、上の笠というふうに呼ぶ。下の塔身は高さ約35.5cm、幅約32.5cmと幅に比して高さが勝る。また、基礎に比べると少し小さめである。つまり基礎側面からの入りが大きい。各側面は舟形光背形に彫り沈め、内に蓮華座に座す像高約21cmの四方仏を厚肉彫にする。01_2風化で面相や印相ははっきりしないが、田岡香逸氏の報文によれば定印の阿弥陀に加え薬壺を持つ薬師があるというから顕教四仏と考えられる。中と上の塔身は、ともに四方素面で中の塔身は幅約31cm、高さ約20.5cm、上の塔身が幅約29.5cm、高さ約17cm。笠石のうち下と中の笠は、ほぼ同形でいずれも上下とも2段、下の笠は軒幅約60.5cm、高さ約33.5cm、軒の厚みは約9㎝。中の笠は軒幅約59.5cm、高さ約30cm、軒の厚み約8cm。02_2上の笠は上三段下二段で軒幅約56cm、高さ約37.5cm、軒口の厚みは約6.5㎝。普通相輪と一体になっている伏鉢部分が上の笠石の上端面に同一石材で作り付けられている。都合12個ある隅飾はいずれも小さく、軒と同一面でほぼ垂直に立ち上がる一弧素面。三重宝篋印塔は非常に珍しく、県内では他に野洲市内にあるくらいで、全国的にも大阪や奈良などに数基程度が知られるのみである。寄せ集めの可能性も疑うべきであるが、本例は笠石のサイズや手法に共通点が多いことから明らかに当初から一具のものと考えられる。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、正安頃(西暦1300年)のものと推定されている。概ね妥当な年代と思う。あるいは古式の隅飾を積極的に評価するともう少し古いのかもしれないが、それでも13世紀末頃を大きく遡ることはないと思う。また、伏鉢が笠石と一石彫成になっているのは珍しい手法で、米原市朝妻筑摩の朝妻神社塔や奈良県天理市三十八柱神社塔に類例がある。重要文化財指定。

 本堂の西側、子育観音への参道の途中、棕櫚の木の下の岩の上に載せられた石仏がある。石材はちょっとよくわからないが砂岩質であろうか。03_3 高さ約77cm、幅約44cm、厚さ約22cmほどの平らな石材の表面に像高約41cmの如来坐像を厚肉彫りする。全体に表面の風化が進み、衣文や面相はほとんど摩滅しているが頭頂には肉髻がある。やや頭が大きく像容としてはあまり洗練されているとは言えない。印相も肉眼でははっきり確認できない。定印のように見えるが薬壺を持っている可能性も排除できない。蓮華座を伴うようだが風化摩滅のせいで蓮弁もはっきりしない。無銘。これだけでは特に取り上げるに足らない見慣れた石仏のひとつと言えるかもしれないが、背面に注目してほしい。平らに粗く整えた背面に五輪塔を刻出しているのである。線刻と薄肉彫りを交えたような表現で、塔高は約34cm。火輪の重厚な軒反も表現され、水輪は球形に近く地輪の背がかなり低い。像容の背面に五輪塔を刻む両面石仏はあまり例のない珍しいものである。瀬田川を下り、信楽に抜ける街道沿いに信楽川を遡った富川磨崖仏にもよく似た両面石仏があるが、あるいはこの付近の地域的特色なのかもしれない。造立時期の特定は難しいが、五輪塔の形は古風ながら像容はどちらかというと稚拙でそれほど古いものとは思えない。室町時代前半頃のものであろうか。(続く)

 

写真左上から二番目:ちょっとわかりにくいですが笠上に一体彫成された伏鉢です。

写真左最下:石仏背面の五輪塔のアップです。五輪塔の形は鎌倉時代風なのでもっと古く考える余地もあるかもしれません。

 

参考:綾村宏編『石山寺の信仰と歴史』

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸 「近江石山寺の石造美術」()『民俗文化』第143号

 

三重宝篋印塔は古くから著名なもので今更小生がご紹介するまでもない名品ですね。流石に人目が憚られコンベクス計測はできませんでしたので計測値は田岡香逸氏の報文に拠りました。ただし、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。両面石仏はこの日たまたま目にしたもので、浅学の管見にはこれまで紹介した記事等を知りませんが珍しいものです。

追伸:五輪塔レリーフを背面に刻む如来石仏について

清水俊明先生が『近江の石仏』(1976年 創元社)において写真入りで取り上げられていました。それによると薬壺を手にした薬師如来で、「おそらく室町末期の造立であろう」と述べておられます。ただ、背面の五輪塔レリーフには特に言及されていません。
一方、故・瀬川欣一先生も『近江 石のほとけたち』(1994年 かもがわ出版)の中で、愛東町(現・愛荘町)引接寺に「弥陀如来坐像の裏側に五輪塔を刻むという、大変珍しい石仏があります。こうした形式の石仏は石山寺にも大津市富川の磨崖仏参道にもあり…(後略)」と触れておられました。簡単に触れておられるだけで尊格について明言されていませんが、文脈からは阿弥陀如来と考えておられるように読めます。
ともあれ流石にリスペクトする大先達、よく見ておられるのには今更ながら頭が下がります。一方、こうした先学の記事を見落としていた小生は勉強が足りませんでした。(2012年10月2日追伸)