奈良県 奈良市阪原町 阪原六地蔵石仏
以前は北出橋のたもとに立っていたが現在は奥まった墓地の入口にある。街道沿いの路傍にあったことから近年盗難に遭い、取り戻されて目立たない場所に移されたという。幅約120cm、高さ約116cmの正面観が野球のホームベースを逆さまにしたような形をした石仏龕で、長方形の龕部の上に大きい山形を載せる。箱仏のバリエーションのひとつと考えられ、かつ板碑のニュアンスも感じられる一石六地蔵石仏。全体に平らな花崗岩製で下端は約45cmの厚みを残し、約7cm程下げてから中央に幅約117cm、高さ約61cmの平らな長方形を刻み出し、幅約10cm程を外枠として内側を彫り沈めて内幅約102cm、内側の高さ約46cmの龕部を作る。龕部内には像高約31cmの地蔵菩薩立像を六体、半肉彫りしている。それぞれ蓮華座は外枠の地覆部に線刻する。蓮弁の形はやや図案化しているがそれほど悪くはない。龕部内側の上部両隅は少し丸くなっているものの隅切が認められる。面相や衣文は摩滅が進み判然としないが袖裾は長く裳裾からは足先がのぞいている。持物もはっきりしないが向かって左端は両手で柄香炉(ないし蓮華?)、左から2番目は右手に錫杖、左手に宝珠、3番目は右手は施無畏印で左手は宝珠、4番目は右手に如意(ないし幢?)左手に宝珠、5番目は両手を腹の辺りに添え手先は逆三角形を呈する。合掌した指先を下に向けているのか、法衣か何かを捧げ持っているのだろうか、よくわからない。右端は丸いものを両手で胸元に捧げ持つ。宝珠か華篭であろうか、これもはっきりしない。いずれにせよそれぞれに手にするものが異なっている。龕部上の山形部分正面は一見すると平らに見えるがまったくのフラットではなく、中央に縦の稜線を設け、これを境に鈍角に左右の面が交わるようになっている。立ち上がりはほぼ垂直で舟形光背のように先端が前のめりにはならない。背面は粗叩きのまま丸く整形しているので断面はかまぼこ状である。龕部外枠の左右の束部分に陰刻銘がある。向かって右側は「明応五年(1496年)」左に「十月二十四日」と割合大きい字で刻んである。明応五年の方はかなり風化摩滅が進んで見づらくなっているが、十月二十四日は肉眼でもはっきり確認できる。六道輪廻の衆生を救済する六地蔵は墓地の入口でよく見かけるもので、それぞれ受け持つ世界、尊名、印相・持物は出典により異なり一定しない。ほとんどは江戸時代以降のもので、中世に遡るものは珍しい。一石で彫成するものや磨崖の六地蔵が奈良県の東部を中心にしばしば見受けられるが、他の地域では意外にあまり見かけないので大和系石仏のあり方のひとつと考えてよいだろう。古い六地蔵石仏や箱仏(石仏龕)を考える上で年代の指針となる15世紀末の紀年銘は極めて貴重で、在銘の一石六地蔵石仏では奈良県最古例である。
参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術
土井実『奈良県史』第16巻金石文(上)
写真右上:ちょっと横から見たところはこんな感じです。写真右下:背面はこんな感じ。将棋の駒か野球のホームベースを逆にしたかのような…。
文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値なので多少の誤差はご容赦ください。これも諸書に取り上げられる著名な石仏ですね。箱仏、板碑、六地蔵といった要素がミックスされたおもしろい石仏で、紀年銘があるのは特に貴重です。何故橋のたもとにあったんでしょうか?近くに墓地があったんですかね。同じ大和文化圏にあるとされる南山城、京都府木津川市の岩船墓地の一石六地蔵石仏(2010年3月23日記事参照)との比較もおもしろいかもしれません。岩船墓地の方が各お地蔵さんのプロポーションがよく、蓮弁も立体的に彫り出して、袖裾や裳裾の処理の仕方が古いことがわかります。なお、阪原から峠を越えた柳生町には明応十年(1501年)銘の磨崖六地蔵があります。北出橋の西方、すぐ近くの丘の上には「あしいた地蔵」と呼ばれる総高2mを越える大きな地蔵石仏(天文5年(1536年)銘)があり、北出橋東南側の白砂川畔には文和五年(1356年)銘の作風優秀な阿弥陀磨崖仏があります。このほか町内の南明寺には鎌倉後期の層塔と宝篋印塔があり、自然豊かな静かな環境に見るべき石造物がたくさんあって何とも羨ましい限りです。それにしても六地蔵さんを盗もうなどと考えられない暴挙です。戻って本当によかったですね。いつまでもこの場所にあって明応の昔のご先祖様達の祈りや思いをずっと後世に伝えていっていただきたいと思います、ハイ。