奈良県 奈良市菖蒲池町 称名寺五輪塔ほか
近鉄奈良駅の北西、約300mにある日輪山称名寺は、浄土宗西山派に属し、茶祖・村田珠光に縁深い寺として有名である。文永二年(1265年)興福寺の念仏道場として開かれ、興福寺の別院として、浄土、法相、天台、律の四宗を兼ね、興北寺とも称されたという。本堂の東側から北側にかけて境内墓地が広がり、東側の塀沿いには大量の小石仏や石塔が集積されて一大偉観を呈する。一説に松永久秀が多聞山城の壁材として使ったもので、城の破却後、散乱していたものを集めたというが、確かなことはわからない。その数は約二千体といわれる。ざっと見渡したところ、最も多いのは箱仏(石仏龕)で、小型の五輪塔、板碑、小型の通常石仏、背光五輪塔などが見られる。ほとんどが室町時代以降のもので、これだけたくさんの石仏・石塔が集められているにもかかわらず、一石五輪塔を見かけないのは奈良の地域色であろう。墓地の入口に近い小屋内には大型の石仏四体が並ぶ。全て花崗岩製で、向かって右端は、舟形光背の頭光円に蓮弁を刻む来迎印の阿弥陀如来立像で、等身大のすらりとしたプロポーションの非常に丁寧な作風。室町時代後半という説もあるが、もっと古いかもしれない。その右はオーソドクスなスタイルの地蔵菩薩立像で、舟形光背の上部に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。大永七年(1527年)の紀年銘が肉眼でも読め、大勢の結縁者名が下方に刻まれている。その左は破損の激しい地蔵菩薩立像で、向かって左脇光背面に線刻の観音菩薩立像が残る。尋常でない破損状態は火中したためと思われる。面相部は剥落し、ところどころ黒ずんで、いくつかに折れたものをセメントで接いだお姿が痛ましいが、観音の線刻を伴うのは非常に珍しい意匠で、諸所に優れた作風の痕が見て取れる。室町時代前半のものと考えられている。左端の地蔵菩薩立像はやや小さく、二つに折れたのを接合してあるが、頭部と胴部の色調や風化の程度がずいぶん異なる。このほか、石仏・石塔群の北寄りには、数体のやや大型の箱仏が並べられ、中央に弘治二年(1556年)銘の地蔵菩薩立像が立っている。舟形光背の上部にキリークを刻むのは大永銘のものと同じである。ずらりと並べられた小石仏や箱仏の多くは錫杖を持つ地蔵菩薩で、阿弥陀はほとんど見当たらない。京都ではこの逆の現象が見られるが、これも奈良の特色とされている。
最も注目されるのは、墓地の東寄りの一画にある立派な五輪塔である。数枚の延石を方形に並べた基壇上に反花座を置き、その上に各部完存の五輪塔を据えている。総高約210.5cm、塔高約180.5cmの6尺塔である。総花崗岩製で、地輪の幅は約65.5cmで高さ約46.5cm。水輪の径約60cm。火輪の軒幅約61cm、高さ約37.5cm。風輪の幅約37cm、空輪幅約34.5cm。複弁反花座は幅約92.5cmで、四隅が間弁、一辺あたり主弁4枚の典型的な大和系のものである。西側の地輪下端中央と接する反花座上端に小穴があって深く奥につながっている様子である。これは細かく砕いた火葬骨片を挿入した納骨穴と思われ、原位置を保っているか否かは不明だが、恐らく塔下に骨瓶なりが埋け込まれていたのだろう。塔下に骨を納めることにより、五輪塔の功徳にあやかるべく墓地の惣供養塔として造立されたものと考えられる。各部とも全くの無地で無銘。空輪先端の尖りがほんの少し欠ける以外は欠損が見られず、反花座も一具のもので保存状態は極めて良好。全体によく洗練され整美な印象で、豪放感よりも温雅な雰囲気がある。地輪がやや高めで、空風輪のくびれが大きく、軒口は重厚だが軒反が少し隅に寄り過ぎて力強さが若干足りないこと、あるいは反花座の蓮弁の様子などから、造立時期は恐らく鎌倉末から南北朝初め頃、概ね14世紀前半頃と推定して大過ないだろう。反花座を備えた典型的な大和系の五輪塔で、梵字等を全く刻まないのは律宗系のスタイルともいわれる。
参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術
元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告
五輪塔はもちろんですが、大量に集積された箱仏群は一見の価値があります。これだけあっても在銘品はほとんどないそうです。それにしてもさまざまな石仏・石塔のオンパレード、よく見ると名号板碑や笠塔婆、南北朝は降らないだろう宝篋印塔の笠石、梵字を彫った低い地輪残欠、像容板碑などもあって、一様ではありません。奈良の中世、特に室町時代以降の石仏・石塔の様相を端的に知ることができる場所として、石造マニアにとっては非常に興味深いスポットといえるんじゃないでしょうかね、ハイ。