奈良県 吉野郡吉野町山口 薬師寺宝篋印塔
山口神社の西、国道と谷筋を挟んだ山裾、集落の最高所にあって眺望はすごぶる良い。薬師寺は田舎の集落によく見られる小さいお堂で、地区の会所のような状態になっている。正面石段を上り、向かって左手、石柵内に宝篋印塔がある。花崗岩製で複弁反花座上に立ち、相輪を欠いて五輪塔の空風輪が載せられている。元は寺の西方の山林中に石塔類が散乱する場所から運ばれたらしい。したがって寄せ集めの可能性が高い。しかし、笠と基礎は風化の程度、石材の質感、サイズ的な釣り合いから一具のもの考えてよいと思われる。川勝政太郎博士によれば、台座と塔身は別モノで、塔身は層塔の初重軸部の転用であるとのことである。何ともいえないが、確かに笠と基礎に比べこの塔身はやや大きい印象で、バランスが良くない。やはり別モノと考えるのが自然かもしれない。あるいは別の宝篋印塔の塔身かもしれない。塔身側面に大きく陰刻した月輪内いっぱいに薬研彫で刻まれた金剛界四仏の種子は、非常に雄渾で力強い。基礎上2段、側面四面とも素面で、背が少々低い点を除くと取り立てて特徴はないが、一側面に四行にわたり「父母師長/往生安楽/建治四年(1278年)/願主□□」の銘文が刻まれているという。四行にわたる文字は認められるが、肉眼では判読できない。一方、笠には珍しい特徴がある。笠下2段は通常だが、笠上は3段を経て4段目の上端が四注状に傾斜をもって頂部平面につながっている。この四注部分隅降棟の辺長はごく短く直線的で、天理市長岳寺五智墓にある宝篋印塔の残欠によく似ている。奈良市須川町の神宮寺宝篋印塔のように若干の屋だるみをもって削りだした露盤につなげていく手法に比べるといささか簡略化した感じがある。二弧素面の隅飾突起は軒から入って直線的にやや外傾して立ち上がる。軒の厚みは割合少ない。別モノとされる台座は風化が激しいが四弁の複弁反花付き、よく見られるタイプのもので、反花の傾斜の緩やかさが古調を示し、少なくとも鎌倉末期は降らないと思われる。建治4年は奈良県の在銘宝篋印塔では4番目に古い。屋蓋四柱形の宝篋印塔に年代的な指標を与えるものとして貴重。重要文化財に指定されている。現高約85cmと元はせいぜい5尺塔程度だろう。この宝篋印塔は先行する輿山塔、額安寺塔、観音院塔の3基に比べるとずいぶんと小さい。中・小形の宝篋印塔基礎で無銘素面の残欠や寄せ集めはいろいろな場所でよく見かける。こうしたサイズのものが13世紀後半段階で数多く造立されていたかどうかはわからないにしても、小さい無銘素面の残欠を一概に室町時代以降のものと片付けてしまうことの危うさを示している。
なお、石柵脇の手水鉢の下にもう一つ別の複弁反花座がある(写真右下)。大きいものではないが、やはり反花の傾斜が緩く、全体に扁平で、反花端が側面端よりかなり内に入り込む。低い側面を二区の長方形の輪郭状に区切って彫りくぼめ、内部に格狭間を入れている。反花座側面を輪郭状に区画して格狭間を入れる手法は桜井市粟殿墓地正平3年塔、天理市苣原の五輪塔台座や京都府加茂町西小墓地五輪塔で見たことがある。これは関東の石塔台座に多いスタイルで大蔵派系統の意匠にも通じる手法。座受部分の一辺に底に貫通する埋納穴と思われる小穴がある。(なかなかおもしろい反花座ですので見落とさないでくださいね。)
参考:佐々木利三 「屋蓋四柱形の石造宝篋印塔について」『史迹と美術』588号
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 266ページ
清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 514~515ページ
あと、塔身が別という話ですが、基礎・塔身・笠ともに石材は一致しているように思え、ほんとうに別物なのでしょうかね?よくわかりません。バランスの悪さ、といっても、この程度のバランスの悪さは、熊野方面ではけっこう見ますし・・・あまり大和中央の様式に拘泥される必要はないのでは?と、勝手に思ったりもします。
参道脇にあった、方形枠を伴う反花座に感激しました。上記宝篋印塔とは少し岩質が違って、斑岩質の花崗岩でした。ちなみに、花崗斑岩は熊野方面でいっぱいとれます。
熊野でたくさん取れる花崗斑岩ですか、なるほど・・・。奈良県南部と紀州熊野方面との結びつきを考えるうえで、石塔類の石材の面からもアプローチされるのはたいへん面白い試みだと思います。
あと、大和盆地や近畿地方のいろんな宝篋印塔を見ている感覚からは確かに塔身が大き過ぎる気がします。しかしあくまで、感覚です。吉野や熊野の宝篋印塔を地に足をつけてしっかりと見てくると、また違った印象を受けるのかもしれません。小生は今のところ地に足がついていないので何ともいえません。ただ、高山寺式と呼ばれる京都の宝篋印塔に代表されるように、宝篋印塔の塔身の大きさは基本的に古い要素です。古い宝篋印塔はまず例外なく大きく存在感のある塔身をしています。(層塔もよく似た状況)「塔身」という言葉が物語るように、この部分が中尊である大日如来の本体を示し、四方仏が四面に刻まれることから、塔のなかで最も重要な部分に当たるわけで、塔身を大きく立派に作ることは造塔の本義に即しています。そして時代が降るにしたがって基礎や笠といった重要ではあるものの元々は付属的な部位の装飾化が進み、一番大切なはずの塔身はどちらかというと手を抜かれる方向にあるように思われます。その意味からは建治銘で古い本塔の塔身の大きさに不思議はない。想像ですが、先学による塔身別物との判断の裏には、上記の感覚に加え、分解して枘穴を確認したのか、元々石塔の部材が散乱する他所にあったという来歴、あるいは移建の経緯を古老等から聴き取ったなどの要因が加わっているのかもしれませんね。今となっては謎です。もっとも、これに限らず寄せ集めの議論は石塔に付きまとう難しい課題です。
今後ともご愛顧賜りますとともに、ご指導、ご教示いただければ幸甚に存じます。
あと、花崗斑岩ですが、「山口薬師寺のものは熊野の花崗斑岩だ」、という意味ではありませんので。念のため。岩質としては、花崗斑岩の範疇と判断できる、という程度の意味です。熊野のものに比べると、ちょっと「斑」が細かい感じはしました。ただ、これとて場所によって異なるので、確定的なことは言えませんが。石材は、難しいですからね。
小生などは大和中央が石造の先進地というようないわば先入観にとらわれている傾向があるので、一方通行にならない視座が必要だと心したいと思います。もちろん石材が一人歩きしないよう取り扱いにも慎重さが必要ですね。
地質屋さんからの受け売りですが、花崗岩・流紋岩・凝灰岩というのは、同じマグマがどこで冷えるか、によって変わるそうで、花崗岩と流紋岩、流紋岩と凝灰岩は、それぞれグレーゾーンがある、とのことを聞きました。しつこいようですが、斑岩質というのは間違いないと思うんですが・・・
ちなみに、これまた別の知人から聞いたんですが、宇陀と県境を挟んで反対側の三重県には「大洞石」なる溶結凝灰岩があり、これも宇陀あたりの石とよく似ている(同じマグマ?)とか・・・いやはや、岩質というのは難しいですね。
石材を適正に扱うことはなかなか難しいですね。○○石(御影石や大谷石など)という呼称はだいたい石屋さん業界からはじまっているみたいです。石材のプロである彼らの目はそれなりに確かだと思います。これに地学系の学術的な観点も加味されれば一層確かになるのですが・・・。岩石の成り立ちは成分や圧力、温度、時間などの条件が100%同じにならないと均質にできないわけで、極論をいうと同じ石塔の部材、同じ石塔の部位の中でもそういう意味から厳密な意味では均質とは言えない。そこでどうしても誤りを恐れてか慎重にならざるえないので、たいていは目視だけで確かなことはいえないということになる。しかしそれでは議論がいっこうに前に進まない。どうあるべきなのか小生も考えあぐねているところです。しかしあまり意味のない「言葉遊び」は好きではないので、まずは色々な石造物や石材(原石や採取場も含む)を広くこの目で見ておくこと。自分自身に見る目をつけないで石屋さんや地質学者の言葉を当てにしていてははじまらない。もちろん独りよがりな姿勢にならないよう柔軟なスタンスを心がけないといけませんが・・・。そしてとりあえず花崗岩系か砂岩系かといった大きい区分はしておいて、自分が見た感じをありのままに伝えること、断定は避けつつも必要に応じて可能性は指摘しておくということかなと考えています。さらに石材が一人歩きをしていかないよう他の属性とも関連させて慎重に考えを進めることかなと思っています。これが現時点で小生の考える「奥行きのある鑑賞態度」に通じるスタンスです。
いずれにせよ石造物を考えていくうえで、石材は重要な属性のひとつです。石材も含めた石造物の属性を確かめながら石造物をめぐる5W1Hを解き明かすことで当時の社会や人々の生活の一端を知る手がかりとなりうるというのが大切な点です。それが等閑視されている石造物に光を当てることにもつながると信じています。今後ともご教示・ご批正並びにご愛顧賜りますようお願いいたします。恐惶謹言