三重県 津市芸濃町楠原 石山観音磨崖石仏
国道25号(名阪国道)、関インターチェンジの南西約1km、丘陵の尾根に巨大な岩塊が露出する。岩塊を取り巻くように西国三十三ヶ所霊場になぞらえて多数の磨崖仏が作られていることから石山観音と呼ばれている。凝灰岩説もあるが砂岩層の露頭である。現状は石仏巡拝のハイキングコースとして整備されている。これらの西国三十三ケ所観音菩薩像群のほとんどは江戸時代のものだが、これらとは由来を異にする古い阿弥陀如来と地蔵菩薩の磨崖仏があって注目される。
地蔵菩薩像は登り口に近い場所にある岩塊の東面する切り立った壁面を二重円光背形に深く彫り込んで内に半肉彫された立像で、彫り込み下端面に半円形に作り付けた複弁の反花座上に立つ。背光を含めた総高約3.9m、像高は約3.3m。童顔丸顔の頭部は小さく体躯は長大ですらりとしたプロポーションである。右手に錫杖、左手に宝珠を載せた通有のスタイルだが、錫杖頭は大ぶりで中に宝塔を刻出し、柄の下端は足元まで達していない。全体に彫りがやや平板で衣文も簡潔だが、繊細な指先の表現、微笑をたたえた温雅な面相など優れた意匠表現が随所に見られる。また、光背の向かって左脇には立体的な花瓶の浮き彫りがあるのも凝っている。口縁部の穴はごく浅く実際に水を入れ花を活けることはできない。
阿弥陀像は地蔵像の北側の高所にある。尾根上に露出する高さ20m以上はありそうな巨大な岩塊の東側の壁面に刻まれている。基壇、光背を含めた総高は約5mもある。二重円光背は二段に彫り込み、下方には二区に区画して羽目部分に格狭間を入れた壇上積基壇をレリーフで表現する。この基壇上に風化が進み蓮弁がはっきりしないが覆輪付単弁と思しき蓮華座を刻出し、蓮華座上に立つ半肉彫りの像容は来迎印の立像で像高は約3.4m。清涼寺式の釈迦如来像に見られるごとく流れるように幾重にも折り重なった衣文が荘重で、面相にも童顔の中に風格のある表情を見せる。衣文やプロポーションなど地蔵像との作風の違いが認められる。胸部に小さい長方形の小穴があるが、経典か何かを納めた奉籠穴であろう。また、壁面上部には屋根を設けた痕跡の彫り込みがあり、足元の岩盤には柱穴があって、元は懸造り風の覆屋があったと推定されている。地蔵、阿弥陀ともに無銘で造立時期は不詳とするしかないが、江戸時代以降に次々に彫られていったとされる観音像群とは明らかに異なる作風で、近世風なところは認められず中世に遡ることは疑いないだろう。
像高3mを超える規模やプロポーション、二重円光背、地蔵像の複弁反花座、阿弥陀像の壇上積基壇、格狭間などを見る限り、従前から言われるように鎌倉時代後期頃まで遡るというのも十分首肯できる優れた磨崖仏である。
このほか江戸時代の観音菩薩像群にも見るべき優品が少なくないが、優品は尾根の東側の岩塊周辺に偏る傾向があるように思われる。
さらに南側の渓流沿いの壁面にも地蔵像二体と種子の磨崖仏がある。像容はかなり写実的で優れた作風を示すが、種子の彫りが深すぎる点や、少しごてごてしたような衣文、あるいは蓮華座の蓮弁を見る限り、遡っても戦国時代末頃、恐らく江戸時代初め頃のものと思われる。
参考:太田古朴『三重県石造美術』
芸濃町教育委員会編『芸濃町史』下巻
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
清水俊明『関西石仏めぐり』
写真右上:地蔵菩薩像の光背脇にある花瓶のアップです。右中:地蔵菩薩像の足元と複弁反花の蓮華座
石山観音は近世の観音像群も含めその規模、数、出来映え、いずれをとっても第一級の磨崖石仏です。名阪国道沿いにあって自動車なら交通の便もよくお薦めです。また、鈴鹿川を挟んだ関の観音山には江戸期の極めて優れた石仏群(かの丹波の佐吉!!これはまさにアート作品の世界です!)がありますので併せてぜひご覧いただくべきかと存じます。
さて、石山観音の岩塊には登れるようになっており、岩の上に座って丘陵の松や隣接するゴルフ場の緑越しに遠く伊勢湾を望むと何かスッキリした気分になってなかなかいい感じです。ただ、危険ですので足元には十分気をつけてください。岩山の上に登ると柔らかい岩質もあってか昭和時代のものと思しい落書きがいっぱい彫ってあってこれはこれで面白いものです。釘か何かでガリガリやったのでしょうかね…。でも既に社会的に成熟期を迎えた平成時代の落書きはいただけません。恥ずかしいので絶対やめましょう。もっとも岩に登るのは高いところが苦手な方にはお薦めしません…ハイ。