石造美術紀行

石造美術の探訪記

宝篋印塔について

2007-04-15 23:50:30 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について

宝篋印塔は五輪塔に次いで最もポピュラーな石塔のひとつである。鎌倉時代から中世を通じ盛んに造立され、江戸時代以降も衰えることなく各地で造立されている。 現代の墓地でも凝った墓石に採用されているのをよく見かける。

01_6 宝篋印塔について、川勝政太郎博士は『石造美術入門』で次のように説明されている。「宝篋印塔は、平面方形の一重の塔で、笠の4隅に隅飾の突起を作り、笠上部には数段の段形とする。密教系の塔で、鎌倉前期から石造の遺品が出現し、やがて宗派を越えて、わが国石塔の主流のひとつとして、五輪塔と並んで流行した。この塔形のもとは、わが国平安中期のころ、中国の呉越王銭弘俶が作った8万4千塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)にある。塔身にはやはり密教の四仏をあらわすものが多い。宝篋印塔という名称は鎌倉時代から行なわれている。これは塔中に宝篋印神咒経を納めることから出た名であるが、法華経などを納めた場合もある。…後14略」 

現在知られている在銘最古のものは、杉浦丘園氏から譲られ川勝博士が所蔵されていた鎌倉市某ヤグラ出土の宝治2年(1248)塔で、大形のものでは奈良県生駒市有里輿山墓地の正元元年(1259)塔が最古である。無銘では、京都梅ヶ畑栂尾町の高山寺明恵上人廟所の高山寺塔が暦仁2年(1239)の造立で最古とされ、 また旧久我妙真寺塔をわが国石造宝篋印塔の初現とする説も有力である。

わが国の石造宝篋印塔の起源については、古くから諸説があり、近年再び議論が活発化している。詳しくは追って説明したいが、確かに言えるのは、奈良時代の遺品が残る層塔や平安後期に出現した宝塔や五輪塔に比べ、その初現は鎌倉時代であり、ポピュラーな石塔の中では比較的新参者であるという点である。(続く)

写真上:完存する中世の宝篋印塔(滋賀県多賀町高源寺 南北朝)

写真下:高山寺式宝篋印塔(京都市右京区梅ヶ畑栂尾高山寺 鎌倉中期)


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