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悲しい事件の中にあって神はいったいどこにいるのでしょうか?・・・聖書

2017年01月11日 | 日記

 

【悲しい事件の中にあって神はいったいどこにいるのでしょうか?】
 
 
恐れや惨事、災害や悲しい事件の中で私たちはどこから内面的なささえを見つけることができるでしょうか?
神にいったい何を期待したらいいのでしょうか?
 
 
 
 
私たちは、神が一緒にいてくれることについて、どの程度信頼することが出来るでしょうか?
神は私たちが平穏な時も危機に直面しているときも、本当に頼れる方なのでしょうか?
 
 
【悲劇、災害、悲しみ:神はどこにいるのでしょうか?】
 
 
 
神は存在するすべてのものを創造し、私たちに知られることを深く望んでいます。私たちはそのためにここにいるのです。
神は私たちが神に頼り、神の強さ、愛、正義、清さ、思いやりを経験することを望んでいます。
望んでいるすべての人に神は「私のところへ来なさい」。と言っています。
 
私たちと違い、神は明日起こること、来週、来年、また次の10年間の間に起こることを知っています。
神は「私が神であり、初めから終わりを告げることができる私のような神は他にはいない」。
(イザヤ書46:9)
と言っています。
神は将来この世で何が起こるのかを知っています。
もっと重要なのは、神はあなたの人生に何が起こるのかを知っていて、もしあなたが自分の人生に神を受け入れるなら、
そこに一緒にいてくださると言うのです。
「神はわたしたちのための避難所、力であり、苦難のときに容易に見いだされる助けである」。
(詩編46:1)
である、と言っています。しかし、私たちは真剣に神を求めなければなりません。
「そして、あなた方は実際にわたしを求め、わたしを見いだすであろう。あなた方は心をつくしてわたしを尋ね求めるからである」。
(エレミヤ書29:13)
と神は言っているのです。
 
 
しかし、それは神を知るものが辛い問題から逃れることができるという意味ではありません。
彼らはそれを避けて通ることはできません。テロリストの攻撃が苦しみと死をもたらすとき、神を知るものもその被害に巻き込まれるでしょう。
しかし、神が与えてくれる平安と力があります。イエス・キリストに従うある人がこのように言いました。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」。
(コリント人への手紙第二4:8.9)
 
現実は私たちが人生において色々な問題を経験することを私たちに教えてくれます。
しかし、神を知ったうえでその問題を乗り越えると、問題に対して別の視点から見ることができ、自分のものでない力でそれを対処することができるようになります。
神にとって克服できない問題は一つもありません。神は私たちに降りかかるどのような問題よりも偉大な方で、私たちにそれを一人で解決するようには言いません。
 
 
神の言葉は、「主(神)はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主(神)に身を避ける者たちを主(神)は知っておられる」。
(ナホム書1:7)
と言っています。
また、「神(ヤハウェ、エホバ)は、ご自分を呼び求めるすべての者、ご自分を真実に呼び求めるすべての者の近くにおられます。
 神はご自分を恐れる者たちの願いを遂げてくださり、助けを求めるその叫びを聞き、彼らを救ってくださいます」。
(詩編145:18.19)
ともあります。
 
 
 
 
イエス・キリストは彼に従う者をこのように励ましました。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」。
(マタイ10:29~10:31)
 
「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。それでも、あなた方の父の知ることなくしては、その一羽も地面に落ちません。
 ところが、あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ、恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」。
(マタイ10:29~10:31)
 
もし、あなたが心から神に立ち返るなら神は他の誰もすることが出来ない方法であなたの事を支えてくれます。
 
 
【悲劇、災害、悲しみ:私たちの自由意志】
 
 
神は選択能力を持つものとして人間を創造しました。これは私たちが神との関わりを持つことを強いられているのではない事を意味します。
神は私たちが神を拒絶することも、悪を行なうことも許します。神は私たちに愛に満ちたものとなるように強制することもできます。
また、良いものになるよう強いることもできます。でもそれをするなら私たちは神とどのような関係を持つことになるのでしょうか?
それは関わり合いではなく無理やり力ずくでさせられた完全に支配された関係となるでしょう。
代わりに、神は私たちに自由意志という人間の価値をくれました。
 
 
私たちは魂の深いところから自然に「神様、どうしてこのような大きなことが起こるのを許されたのですか?」と叫びます。
 
私たちは神にどのようにしてほしいのでしょうか?神に人間の行動を支配してほしいのでしょうか?
例えば、テロリストの攻撃に関して言えば、神が許される死亡者数は何人なら受け入れられるのでしょうか?
神が100人単位の殺人を許したら、受け入れられるのでしょうか?それとも1人の犠牲だけで済んだ方が受け入れられるのでしょうか?
しかし、もし神が1人の犠牲さえも引き止めたとしたら、そこにはもはや私たちの自由意志は存在しません。
 
 
【悲劇、災害、悲しみ:この世】
 
 
この世は安全な場所ではありません。ある人が銃で私たちを撃ってくるかも知れません。または車にひかれるかも知れません。
あるいは、テロの攻撃にあったビルから飛び降りないといけないことになるかもしれません。
神の意志が常に求められない地球という厳しい環境の中では、どのようなことでも起こりえます。
 
 
 
けれども、神が人間の思いのままになっているのではなく、むしろその反対で、私たちが神の思いのままになっているのです。
この神は数えきれない数の星がある宇宙を言葉によって創造して言いました。
「光る物よ、天の大空にあれ」。
(創世記1:14)
この神が「国々を統べ治めておられる」。
(詩編47:8)
と仰せられました。
神は力と知恵とに満ちています。問題がどんなに乗り越えることができないかのように見えても私たちには非常に力のある神がいて
「見よ。わたしは、すべて肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか」。
(エレミヤ書32:27)
と言って神の存在を思い出させてくれます。なんらかの方法で神は、罪深い人間の自由意志を守りながら神の望む事を成し遂げています。
神ははっきりと「わたしのはかりごとが成り、わたしはわたしのすべての目的を行なう」。
(イザヤ書46:11)
と言っています。私たちがもし人生を神に明け渡すなら、
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵をお授けになる」。
(ヤコブの手紙4:6)
という言葉から慰めを受けることができるのです。
 
 
「悲劇、災害、悲しみ:神は今どこにいるのでしょうか?」
 
 
私たちの殆どが、時々厳しい神のやり方を選ぶ決断をすることがあります。
他の人と比べると特にテロリストと比べると、私たちは自分たちのことを愛情に満ちた人間だと思うかも知れません。
しかし、心の正直なところで私たちは、神の前に出るとき、罪の意識でいっぱいになるだろうと思っています。
祈りを通して神に話しかけるとき、私たちは神が自分たちの考えや行動、自己中心性に十分気づいていると感じ、ためらうのではないでしょうか?
私たちはその生き方や行動によって神から距離を置くことになってしまいました。私たちは神様なしに生きる生き方をしてきました。
聖書は言っています。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」。
(イザヤ書53:6)
 
その結果は、どうなったのでしょうか?私たちの罪が私たちを神から引き離し、この人生を越えたものにまで影響を及ぼしました。
罪からくる報酬は死であり、言い換えれば神から永遠に引き離されてしまったということです。
しかし、神は私たちの罪が許され、神を知る方法を用意してくださいました。
 
 
 
「神の愛を通して与えられる内面的な力」
 
 
神は私たちを助ける為に私たちの所へ来てくれました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
 永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」。
(ヨハネ3:16.17)
 
 
神は私たちがこの世で体験する痛みや苦しみをご存じです。
イエスは安全で安心できる自分の家を出て、私たちが住んでいる厳しい場所に来てくれました。
 
イエスは、疲れを感じ、空腹やのどの渇きを覚え、人々からの非難と闘い、家族や友人からのけものにされました。
しかし、イエスは、普通の苦難よりもずっと苦しい事を体験しました。人間の姿をとった神の子イエスは、
自ら私たちのすべての罪を負い私たちに与えられるはずの死の刑罰を支払ってくださいました。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」。
(ヨハネの第一手紙3:16)
 
 
「イエスは、私たちが許される為に肉体的な苦しみを受け、十字架(苦しみの杭)の上で屈辱的な死を経験しました。
 
 
イエスは今、永遠の命を私たちに差し出しています。私たちは、これを自分から努力して得るのではありません。
それは神から差し出された贈り物で、私たちが自分の人生にイエスを受け入れるときに与えられます。
「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。
(ローマ人への手紙6:23)
 
私たちが罪を告白し、神に立ち返るなら、キリストを通して永遠の命の賜物を受けることができます。それはとても簡単にできます。
「神が私たちに永遠のいのちを与えられ、このいのちは御子のうちにあります。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。
(ヨハネ第一の手紙5:11.12)

イエスは、私たちの人生に受け入れられたいと思っています。