神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

健康にいつまでも・・・聖書

2018年08月11日 | 日記

 

私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌
パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。


 

『健康にいつまでも』


実に素晴らしい見込みです。

人間を創造した神様は,この地球での永遠の命を約束してくださっています。
それでも,多くの人はそんなことは不可能だと感じています。
「誰だっていつかは死ぬ」とか,「死は自然の摂理」と考えるわけです。
永遠に生きられるとしても,それはこの地上での話ではないと言う人もいます。
死んであの世に行ってからだと思っているのです。あなたはどう思いますか。


その結論を出す前に,以下の点に関して聖書が何と述べているか調べてみましょう。
身体の造りからして,人間の本来の寿命はどれくらいなのでしょうか。
地球と人間に対する神様の本来の目的はどんなものだったのでしょうか。
人間はどうして死ぬようになったのでしょうか。

人間だけに与えられた能力

神様が創造した地球の生命体の中でも,人間は特別な存在です。
聖書によれば,人間だけが神の「像(かたち)」「似た様(さま)」に創造されました。
『そして神は,「われわれに似るように,われわれのかたちに,人を造ろう。・・・」と仰せられた。
神はこのように,人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し,男と女とに彼らを創造された』。
(創世記 1:26,27)
『次いで神は言われた,「わたしたちの像(かたち)に,わたしたちと似た様(さま)に人を造り,・・・」。
そうして神は人をご自分の像(かたち)に創造してゆき,神の像(かたち)にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された』
(創世記 1:26,27)

言い換えれば,人間は神様の性格や気質を見倣えるように造られたということです。それで,愛や公正などを表わせるのです。

それだけでなく,人間には筋道立てて考える力,道徳観念,宗教心なども与えられています。
ですから,宇宙の壮大さや自然界の素晴らしさに思いをはせることも,美術,音楽,詩などを楽しむこともできるのです。
さらに,神様を崇拝できるのは人間だけです。
これらのことからすると,人間と動物に決定的な違いがあることは明白です。

考えてみてください。
神様は,こんなにも素晴らしい能力や無限の可能性を人間に与えておきながら,人間の一生をほんの数十年にするでしょうか。
そんなはずはありません。人間にこうした特別な能力を与えることで,永遠にわたって生活を楽しめるようにしてくださったのです。

地球と人間を創造した本来の目的

とはいえ,人間が地球で永遠に生きるのは神様のお考えではない,と言う人もいます。
地球とは仮の住まいであって,だれが天国で永久に神様と暮らす資格があるかどうかをテストする場所だ,と言うのです。
もしそれが真実ならば,神様が人間をテストするために世の中の悪や苦しみを作り出していることになります。
それは,本当の神様の姿とは全く相いれないものです。
聖書は神様について,「そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」と述べています。
(申命記 32:4)

地球に対する神様の本来の目的は,次の言葉にうまくまとめられています。
「天は主(神)のもの,地は人への賜物」。
(詩編 115:16)

神様は地球を人間の美しいすみかとして創造し,人間がそこで有意義な生活をいつまでも満喫できるよう,すべてを整えてくださったのです。
「主なる神は,東の方のエデンに園を設け,自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は,見るからに好ましく,食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ,また園の中央には,命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」。
(創世記 2:8,9)




「天についていえば,天は神(ヤハウェ,エホバ)に属する。しかし地はというと,神はこれを人の子らにお与えになった」。
(詩編 115:16)



聖書は,人間に対する神様の目的も明らかにしています。
神様は最初の人間夫婦アダムとエバに,「地に満ちて,それを従わせよ。そして,……地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」とお命じになりました。(創世記 1:28)

パラダイスを管理して,全地に広げていくという壮大なプロジェクトを任されたのです!
アダムとエバは,子孫と共に地球で永遠に生きる未来こそあれ,天国に行く予定はありませんでした。

人間はなぜ死ぬのか

では,人間はなぜ死ぬのでしょうか。
聖書によれば,神様に反逆して,後に悪魔サタンと呼ばれるようになった天使が,
エデンの園における神様のプロジェクトを妨害しようとしたことが発端でした。
サタンは,アダムとエバを唆し,反逆に加わらせようとしました。
神様は出し惜しみをして,人間に善悪を自分で決める権利を与えていない,と言ったのです。
アダムとエバはその主張を受け入れ,神様に背を向けました。結果はどうなりましたか。
神様の警告どおり,アダムとエバは死にました。こうして,パラダイスで永遠に生きることができなくなりました。
「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。
(創世記 2:17)
『主なる神が造られた野の生き物のうちで,最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない,などと神は言われたのか」。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも,園の中央に生えている木の果実だけは,食べてはいけない,触れてもいけない,死んではいけないから,と神様はおっしゃいました」。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると,目が開け,神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
女が見ると,その木はいかにもおいしそうで,目を引き付け,賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ,一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた』。
(創世記 3:1~6)
「それで,アダムの生きた日数は全部で九百三十年となり,こうして彼は死んだ」。
(創世記 5:5)

アダムとエバの反逆は今でも人類すべてに影響を及ぼしています。聖書はこう述べています。
「一人の人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,……すべての人に広がった」。
(ローマ 5:12)

人間は,最初の親であるアダムとエバから罪と死を受け継いだ結果,死ぬことになったのです。
決して,神様があらかじめ定めた“予定”などではありません。

健康でいつまでも生きられる

エデンの園で始まった反逆は,人間や地球に対する神様の本来の目的の実現を阻止できませんでした。
神様は完全な愛と公正の感覚に動かされ,罪と死の束縛から人類を解放する道を開かれました。
使徒パウロはこう説明しています。
「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです」。
(ローマ 6:23)

愛情深い神様は「ご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされ」ました。
(ヨハネ 3:16)

イエスは進んで自分の命を犠牲としてささげることによって,アダムのせいで失われたものすべてを取り戻しました。

間もなく,神様が約束しておられる地上の楽園が現実のものとなります。
その素晴らしい未来を手に入れるには,イエスのこの勧めに従う必要があります。
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。
一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです」。
(マタイ 7:13,14)
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく,その道は広いからです。そして,そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく,その道は狭く,それを見いだす者はまれです」。
(マタイ 7:13,14)


あなたの未来はあなた自身にかかっています。

 

 

 

                                      

 

 

 

 






日航と航空機墜落の村、陰で罵声浴びせ合う現実 剥き出しの村民たちの私利私欲 ・・・Business Journal

2018年08月11日 | 日記

 

【クリック】

川上慶子さん、日航機墜落後の人生、今は周りに知られる事も無く幸せ

 


【クリック】
日航と航空機墜落の村、陰で罵声浴びせ合う現実 剥き出しの村民たちの私利私欲

一部引用

-- 日航側と村民側のせめぎ合いなど、想像したこともありませんでした。

清泉 日航は尾根に関して、たとえ村民であっても一挙手一投足を管理したいというのが本音だと思います。
しかし、村民の間には「いちいち山を知らない航空会社にお伺いを立てなければならないというのは受け入れられない」という反発も強いのです。

 日航にも当然、御巣鷹担当がいて、しばしば山に登っていろいろと整備をします。
村の人間にそんな折にもいろいろと注文をしていくのですが、その後の村民の日航職員に対する口を極めた罵詈雑言は聞くに堪えません。「あの若造が……偉そ うに……」など、まだいいほうです。どうしても企業は組織の論理と行動規範が身についていますから、日航の担当者からの言葉が年長者意識の強い村の掟の輪 に投げ込まれると、潜在的な反発や波紋につながるのは致し方ないことなのかもしれません。

 一方の日航も「あの人は女性にばかり露骨に親切だ」「あれやれ、これやれと人使いが荒い」と、罵声とも揶揄ともつかない言葉を洩らしています。しかし、 「遺族のために」という掛け声のもとでは、とにかく互いの齟齬や感情的軋轢を押し殺して、一枚岩を演出せざるを得ないのです。もちろん、人間の作業ですか ら、演出が絶対的な悪だということではありません。しかし、こうした感情的軋轢のストレスは日常の運営のさまざまな局面で微妙に露見してきます。

 

 

 

 

 

2013/05/02 に公開

日航機墜落 

ある家族のその日(再現)

 

 

 

 


命 ― 神からの贈り物・・・聖書

2018年08月11日 | 日記

 

 私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目覚めよ」誌・「ものみの塔」誌
パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。

 

 


「命 ― 神からの贈り物」


心臓は、1日24時間、貴重な血液を全身に送り出しています。

わたしたちが寝ている間も、肺は膨張と収縮を繰り返しています。

食事をすると、食べ物は自動的に消化されます。

わたしたちが意識して努力することはほとんどありませんが、それでもこれらのことは毎日生じています。

当たり前のこととみなされがちなこれらの神秘的で驚異的な作用は、わたしたちが命と呼ぶ贈り物の一部なのです。


これはある意味では奇跡的とも呼べる贈り物です。


人間の受胎と誕生の過程について考えてみましょう。

普通なら人体は非自己組織を拒絶しますが、子宮は受精卵を特別扱いにします。
成長する胎児を非自己組織として拒絶する代わりに,赤ちゃんとして生まれる準備ができるまで養い、保護します。
非自己組織を拒絶するという法則に例外を設けるこの重要な能力が子宮になければ、人間の誕生は不可能だったことでしょう。

もしそれが可能だとしても、4か月ごろ子宮内で見られる発育が胎児に起こらなければ、新生児の命は短いものになるでしょう。
そのころから胎児は指をしゃぶり始め、後ほど母乳を吸う時に必要な筋肉を鍛えます。
しかもこれは、赤ちゃんが生まれるずっと前に解決される数多くの死活問題の一つにすぎません。

胎児が子宮の中にいる間、その心臓の壁には穴が開いています。しかし、この穴は誕生と同時に自動的に塞がるのです。
それに加えて、胎児が子宮内にいる時に肺をバイパスしていた大きな血管は誕生時に自動的に萎縮します。
それで血液は肺に流れ込み、赤ちゃんは産声をあげるときに酸素を取り入れることができるのです。



このすべては始まりにすぎません。

一生涯、すばらしく設計された(呼吸器系・循環器系・神経系・内分泌系といった)一連のシステムが、

人間では理解できないほど効果的に協同し、機能を果たすのです。

こうしたことはすべて生命を永続させるためのものです。



古代の作家が神に関連してこう述べたのも不思議ではありません。

「わたしはあなたをたたえます。なぜなら、わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。
わたしの魂がよく知っているように、あなたのみ業はくすしいのです」。
(詩編 139:14)


この美しい言葉を書いた人が、生命は盲目的な進化によって偶然にできたにすぎないなどと考えていなかったことは確かです。
もし進化によるのであれば、わたしたちには自分の命の用い方について実際には何の義務も責任もないことになります。
しかし、生命のメカニズムは明らかに設計を反映しており、設計には設計者が必要です。

聖書はこの原則を次のように言い表わしています。
「言うまでもなく、家はすべてだれかによって造られるのであり、すべてのものを造られたのは神です」。
(ヘブライ 3:4)


ですから、『神を知る』のは肝要です。
「わたしたちを造ったのは神であって、わたしたち自身ではない」のです。

「知れ、主こそ神であると。主(神)はわたしたちを造られた。わたしたちは主(神)のもの、その民、神に養われる羊の群れ」。
(詩編 100:3)


確かに、命は運よく偶然にできあがったものではありません。

命は神ご自身からの贈り物なのです。

「命の源はあなたのもとにあり、わたしたちはあなたからの光によって光を見ることができるからです」。
(詩編 36:9)