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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

本当の友達を作るには・・・聖書

2017年01月28日 | 日記

 

「本当の友達を作るには」

現実の問題


科学技術のおかげで,かつてないほど多くの人と,かつてないほど便利に連絡を取り合えるようになっています。
しかしそうした人間関係は,どちらかと言えば薄っぺらなものに思えるかもしれません。
ある若者はこう述べています。
「僕の場合,友達との関係はあっという間に終わってしまいます。でも,父には何十年も前から親しくしている友人たちがいるんです」。
今日,だれかとずっと良い友達でいるのがそれほど難しくなっているのは,なぜでしょうか。

知っておきたいこと

科学技術にも一因がある。
人々は,メールやSNSなどのソーシャルメディアがあるので,一緒にいなくても友達でいられるかのように思っています。
メールやツイッターで短いメッセージのやり取りをするだけで,深い話をしなくなっています。

「大人びた子どもたち」(英語)
という本によると,「人々は,顔を合わせて話すことがますます少なくなり,……学生たちは,電子機器の前で過ごす時間が増え,一緒に過ごす時間が減っている」のです。
科学技術を利用していると,メールの相手が実際よりも親しい友達のように思えることがあります。
22歳のブライアンはこう言います。
「最近,気づいたのですが,友人たちにはいつも僕のほうからメールしていました。それで,こちらからメールするのをやめて,何人が連絡してくるか,見てみました。
正直言って,ごくわずかでした。みんな親しい友達だと思っていましたが,そうでもなかったみたいです」。
では,メールやソーシャルメディアは,人々との連絡を保って友情を深めるのに役立たないのでしょうか。
いいえ,役立ちます。
オフラインでも接触がある場合には,特にそう言えます。
とはいえ,ソーシャルメディアは大抵,他の人との架け橋になるに過ぎず,それ以上のことはできません。

どうすればよいか

本当の友達とはどんな人かを考える。聖書には,
本当の友達は「兄弟より固く付く」と述べられています。
(箴言 18:24)

そのような友達が欲しいと思いますか。
あなたはそのような友達でしょうか。
そのことを知るために,友達に望む特質を3つ書き出してみてください。
それから,あなたが友達に示している特質を3つ書き出します。
そして,こう自問してみましょう。
「ネット上の友達の中に,わたしが望むような特質を示している人はいるだろうか。それらの友達から見ると,わたしはどんな特質を示しているだろうか」。

聖書の原則:
「自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」
フィリピ(ピリピ) 2:4



優先順位を定める。ネット上の友達関係は,多くの場合,趣味など,共通の関心事に基づいています。
とはいえ,同じような関心事よりも大切なのは,共通の価値観です。
21歳のリーアンはこう言います。
「友達と言える人はそんなにたくさんいませんが,その人たちと親しくしていると,『わたしももっと良い人間になりたい』という気持ちになります」。

聖書の原則: 「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭うる」。
箴言 13:20

実際に会って話す。
じかに顔を合わせて話すことに勝るものはありません。そうすれば,お互いに,声の調子や顔の表情や身振りの微妙な変化を見て取ることができるからです。

聖書の原則: 「兄弟たち,ほんのしばらくあなた方から引き離された時,といっても身においてであって心においてではありませんでしたが,
わたしたちとしては,あなた方の顔を見ようと,非常な願いを抱いて普通をはるかに超えた努力をしました」。
テサロニケ第一 2:17


手紙を書く。
「今どき手紙を書くなんて……」と思えるかもしれませんが,そうするなら,相手を本当に大切に思っていることが伝わります。
手紙を書くことは,この忙しい現代社会ではあまり行なわれていません。
例えば,シェリー・タークル著「アローン・トゥゲザー」(英語)に出てくる,
ある若い男性は,これまで個人宛ての手紙をもらった覚えがありません。
この人は,手紙を書くことが普通だった時代について,
「そういう時代が懐かしい気がします。まだ生まれてもいませんでしたが」と述べています。
あなたも,友達を作るために,この“旧テクノロジー”を活用してみてはいかがですか。

結論: 本物の友情を築くには,単に連絡を取り合うだけでは不十分です。
互いに愛や同情や辛抱強さを示し,許し合うことが必要です。そうすれば,関係は必ずや実りあるものになります。
しかし,そうした特質を示すことは,オンラインでのやり取りだけでは難しいのです。



   

 

 

 


youtube友~haruyuki onoue~雪原と北アルプスが美しい冬晴れの白馬山麓・4K撮

2017年01月28日 | 日記

雪原と北アルプスが美しい冬晴れの白馬山麓・4K撮影

 

2017/01/26 に公開

コバルトブルーに染まった冬晴れの白馬山麓から望む白銀の白馬三山や五竜岳

は見事なまでにクッキリと見え松川の河川敷は真綿のような雪に覆われていました。

清流の流れに目を移すとシブキを浴びた氷のオブジェが美しく輝いていました。


イエスに祈るのは正しいことですか・・・聖書

2017年01月27日 | 日記

 

イエスに祈るのは正しいことですか

ある研究者が最近,キリスト教の様々な宗派に属する800人余りの若者を対象にアンケート調査を行ない,イエスは祈りにこたえてくださる,と信じているかどうか尋ねました。
その結果,こたえてくださることを固く信じている,という回答が60%を超えました。しかし,一人の若者は,イエスという名を消して「神」と書き直していました。
あなたはどう思いますか。祈りはイエスにささげるべきでしょうか。それとも,神にささげるべきでしょうか。
答えを知るために,まず,イエスが弟子たちに祈りの仕方をどう教えたか,考えてみましょう。

イエスはだれに祈るよう教えたか

イエスは,だれに祈るべきかを,教えるとともに,手本で示しました。

教え
イエスは,弟子の一人から,「主よ,……祈りの仕方を教えてください」と言われた時,『いつでもあなた方が祈るときには,「父よ」と呼びかけなさい』と答えました。
「さて,イエスがある場所にいて祈りをしておられた時のこと,それを終えられると,弟子のある者がこう言った。「主よ,ヨハネもその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りの仕方を教えてください」。
そこでイエスは彼らに言われた,「いつでもあなた方が祈るときには,こう言いなさい。父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように」。
(ルカ 11:1,2)
さらに,有名な山上の垂訓の中でも,耳を傾けていた人々に,祈ることを勧めました。
あなたの父に祈りなさい」と言い,また,「あなた方の父であられる神は,まだ求めないうちから,あなた方がどんなものを必要としているかを知っておられる」と述べて人々を安心させました。

「あなたは,祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして,戸をしめて,隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が,あなたに報いてくださいます」。
「だから,彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は,あなたがたがお願いする先に,あなたがたに必要なものを知っておられるからです」。
(マタイ 6:6,8)
人間としての最後の夜には,弟子たちに,「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださる」と語りました。
(ヨハネ 16:23)
ですから,イエスは,自分の父でありわたしたちの父でもある方,神(ヤハウェ,エホバ)に祈るよう教えたのです。
『イエスは彼女に言われた,「わたしにすがり付くのはやめなさい。わたしはまだ父のもとへ上っていないからです。しかし,わたしの兄弟たち+のところに行って,
『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る』と言いなさい」』。
(ヨハネ 20:17)

手本
イエスは,人々に教えた祈り方に調和して自らもこう祈りました。
「天と地の主なる父よ,わたしはあなたを公に賛美します」。
(ルカ 10:21)
また別の時には,目を天のほうに向けて,「父よ,わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」と言いました。
(ヨハネ 11:41)
さらに,死ぬ間際にも,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と祈りました。
(ルカ 23:46)
イエスは,天の父 ―「天地の主― に祈る点で,すべての人が倣うべき明確な手本を示したのです。
(マタイ 11:25; 26:41,42。ヨハネ第一 2:6)
初期の弟子たちは,イエスの教えをそのように理解していたでしょうか。

初期クリスチャンはだれに祈ったか

イエスが天に戻って何週間もたたないうちに,弟子たちは,反対者たちから嫌がらせや脅しを受けるようになりました。
「そうして彼らを呼び,どこにおいてもイエスの名によって何か口にしたり教えたりすることはないように,と言い渡した」。
(使徒 4:18)
もちろん,助けを求めて祈りました。では,だれに祈ったでしょうか。
「彼らは思いを一つにし,神に向かい声を上げて」祈り,引き続き「神の聖なる僕イエスの名によって」助けてくださるよう求めました。
(使徒 4:24,30)

ですから,祈りに関するイエスの教えに従っていた,と言えます。
彼らは,イエスにではなく神に祈ったのです。

幾年も後に使徒パウロは,自分と仲間の者がどのように祈っているかを述べました。
仲間のクリスチャンに宛てた手紙の中で,
「わたしたちは,あなた方のために祈る際いつもわたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」と書いたのです。
(コロサイ 1:3)
また,「わたしたちの主イエス・キリストの名により,常にすべての事に対してわたしたちの神また父に感謝をささげなさい」とも書いています。
(エフェソス 5:20)
それらの言葉から,
パウロは「すべての事に対して……神また父」に祈るよう,もちろんイエスの名によって祈るよう勧めていた,ということが分かります。
「そして,何を話すにせよ,行うにせよ,すべてを主イエスの名によって行い,イエスによって,父である神に感謝しなさい」。
 (コロサイ 3:17)

わたしたちは,初期クリスチャンと同じように,祈りに関するイエスのアドバイスに従うことにより,イエスへの愛を示せます。
「もしわたしを愛するなら,あなた方はわたしのおきてを守り行なうでしょう」。
(ヨハネ 14:15)

わたしたちが天の父に,しかもその方にだけ祈るとき,
詩編 116編1,2節のこの言葉,すなわち
「わたしは主(神)を愛する。主(神)は嘆き祈る声を聞き,わたしに耳を傾けてくださる。生涯,わたしは主(神)を呼ぼう」。
という言葉は,かつてなく意味深いものとなるのです。