平安時代の貴族仏教が、武士の台頭で衰退していく。
そのなかから、「念仏の法然(浄土宗)と親鸞(真宗)、禅の道元(曹洞宗)、法華の日蓮(日蓮宗その他)など、いわゆる鎌倉仏教の大先達」が生まれ、祖師・開祖などと仰ぐ教団が現在も続いている。
佐木氏はこれらの背後にある民衆や武士層を解明していく。
親鸞は時の権力から追放され僧籍をはく奪され、流刑となる。
そして農民のなかで20年以上も活動していく。国家から僧とは認められないため「非僧非俗」として、妻帯者となる。
「およそ四半世紀におよぶ壮年期のすべてを、かれは農民のあいだでくらし、喜びと悩みをともにするなかで、寺院による収奪や修験・山伏によるおどし、だましの実状を肌で知ることを通して、その信仰をしっかりとまとめあげた」
そこには徹底的に権力に背を向け、不服従とともに「加持祈祷」など呪術も否定していった。
日蓮は念仏に敵対し、邪教がはびこっているから社会が乱れている。正法を信じ、加持祈祷をおこなうことこそ必要だと、時の権力者に果敢にたたかっていった。
しかし依拠するところは、町衆や武士たちであった。
栄西や道元の切り開いた「禅」は、武士階級に支持されていった。
「只管打坐(しかんたざ)」―「ひたすら坐禅しろ」ということから悟りを得ていった。
鎌倉仏教の四大先達たちは、それぞれの階級・階層に依拠しながら激動の時代をかけぬけていった。
「神秘」や「呪術」に彩られ、神道との融合(神仏習合)によって、江戸時代は人口の多数を形成する農民などに深く浸透し、幕藩体制の一部に組み込まれていった。
佐木氏のこの著作を読むと仏教の流れ、そして今にいたるまでがよくわかる。
やはり「史的唯物論」の立場にたつ「宗教論」ほどわかりやすいものはない。