◆私が、自著「愛する者へ遺した最期のことば」(日本実業出版社刊、1995年6月10日刊)で取り上げた福岡県田川市の元炭鉱夫「山本作兵衛さん」が描いた「炭鉱の絵」の原画などがユネスコの「世界記憶遺産」(MOW)に日本国内で初めて登録されることになった。こんなに嬉しいことはない。
山本作兵衛さんは、最期の言葉「自分は、絶対に病院に入らない。畳の上で死にたい」を遺して、自宅で老衰により大往生した。92歳だった。
私は、山本作兵衛さんが炭鉱夫を引退して、64歳ごろから炭鉱で働く人々の姿を記憶として後世に伝えようと炭鉱の絵を書き始め、大往生する直前まで続けた。明治維新により日本の産業革命を石炭というエネルギー源を掘り出す「地底」から支えてきた人々を描いて残すという営みである。夏目漱石は小説「坑夫」で、「地底」での厳しい労働を描いた。
立派な社屋は写真に撮られていても、「地底」で裸同然で働く男女の姿は、ほとんど撮られてない。たからこそ、山本作兵衛さんの一枚の絵は、写真と同様、夏目漱石の百万言にも勝るのである。私は、山本作兵衛さんのその生き様を、以下のようにまとめた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/16/a88c22cc34b3fe4e19791a0bb7ed2a54.jpg)
自分は、絶対に病院に入らない。
畳の上で死にたい
福岡県田川市の元炭鉱夫だった山本作兵衛さんは、昭和五九年一二月一九日、老衰のため亡くなった。享年九二歳だった。
三男の妻・秀子さんに話してもらった。山本さんは、亡くなる一〇年前に、一度入院したことがあった。そのとき、「自分は、絶対に病院に入らない。畳の上で死にたい」
と言っていたという。亡くなる五〇日前に、山本さんと妻・タツノさんの二人が、三男の照雄さんの家に来た。かなり弱っているようだったので、ほかの兄弟たちは、病院に入院することを勧めたが、父親の気持ちをくんで、家に寝かせて、近所の医師に往診に来てもらった。
一週間くらい前からは、言葉もなくなった。しかし、臨終の前日まで、山本さんの意識はしっかりしていた。まるでロウソクの火が消えるように、山本さんの望み通り、畳の上で亡くなった。
山本さんの両親は、船で石炭を運ぶ仕事をしていた。ところが、鉄道が出来て失業してしまった。このため、炭鉱に入るようになった。両親が働いている間、山本さんは、子守をしたり、弁当をつくったりして家の手伝いをしていた。手伝いの合間、親の目を盗むようにして、好きな絵を描いていた。小遣いをもらっては画用紙を買い、一枚に一つの絵を描くのはもったいないと言って、八ツ切りにして、描いていたという。
大きくなって山本さんも炭鉱に入った。若いころは、炭鉱の鍛冶屋をしていたが、それが原因で、難聴になってしまった。
六四歳ごろからは、自分が働いていた炭鉱の絵を描き始めた。
「炭鉱の様子を子孫に残したい」
という思いを抱き、山本さんは、「一枚の絵を描くのに二日かかる」と言っていた。
描いた作品のほとんどは、人に上げていた。それでも、色つきのものと水墨画が、いずれも約三〇〇枚、そのほかのものを合わせると約一〇〇〇枚にものぼる絵画が残っていた。遺族は、色つきのものと水墨画、計約六〇〇枚の作品を石炭資料館に寄付した。
山本さんは、酒が好きであった。炭鉱で働き続け、酒は相当強く、かなり飲んでいたという。知人たちが、一升瓶を持って来ては、山本さんの絵をもらって帰って行くことがしばしばあった。しかし、体はいたって健康で、どこも悪くなく、とくに肝臓は、人の二、三倍も強いと医師も驚くほどだったという。
山本さんは、とにかくウソが大嫌いで、真正直な人だったという。しかし、そんな山本さんも、
「絵の中でウソをついていた」
と身内に語っていた。それは、炭鉱の中の様子を描いた絵の色具合だった。炭鉱の中は暗闇である。それでは絵にならないので、山本さんは、色をつけたのである。描き続けた炭鉱の絵が、山本さんの遺作となった。日本の経済を支え続けて、廃止された炭鉱を描いたこれらの絵には、炭鉱の様子を後世まで伝えたいという山本さんのいわば遺言が込められている。
山本さんの亡くなり方に満足していたタツノさんも、夫の死後、三年半してこの世を去った。
(『愛する者へ遺した最期のことば』1995年日本実業出版社刊より)
◆私は、この自著「愛する者へ遺した最期のことば」に、 今回の東日本大震災で、被災して非業の死を遂げた方々の言葉を付け加えて、増補版あるいは、文庫本を発刊したいと考えて、準備している。
たとえば、南三陸町の防災放送無線で避難呼び掛けた女性職員遠藤未希さんの放送音声は、まさしく最期の言葉となったけれど、地域の人々に対する「無限の愛」を感じる。
また、女川町で、中国大連出身の中国人研修生が難を逃れることができた。地震発生時、地面が激しく揺れた。佐藤水産株式会社の中国人研修生20人は宿舎付近の高台に避難した。まもなく、同社の佐藤充専務が「津波が来たぞ!」と叫びながら走ってきて、彼女たちを連れてさらに高い場所にある神社へと避難した。研修生を避難させた後、佐藤専務は妻と娘を探すため宿舎に戻った。しかし、宿舎はまもなく津波に呑まれ、佐藤専務はそれっきり戻ることは無かったという。
さらに、田中好子は、「自分が亡くなったときに集まってくれた人に聞いてほしい」と、亡くなる約3週間前の3月29日、病室で自身の肉声のメッセージを録音した。
「こんにちは、田中好子です。きょうは3月29日、東日本大震災から2週間たちました。被災された皆様のことを思うと、心が破裂するような...、破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。わたしも、一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもその時には、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、わたしの務めと思っています。きょう、お集まりいただいている皆様にお礼を伝えたくて、このテープを託します。キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間、お世話になりました。幸せな幸せな人生でした。心の底から感謝してます。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでも、いつまでも皆様に伝えたいのですが、息苦しくなってきました。いつの日か、妹・夏目雅子のように、支えてくださった皆様に、社会に少しでも恩返しができるように復活したいと思ってます。カズさん、よろしくね。その日までさよなら」(3月29日録音)
◆なお、毎日新聞毎日jpが5月26日午後1時57分、「世界記憶遺産:「筑豊の炭鉱文化を発信」喜ぶ地元・田川」という見出しで、以下のように報じている。
「上半身裸の男女が寝ながら採炭する様子を描いた『寝掘り』(64年)=田川市石炭・歴史博物館所蔵 福岡県筑豊の炭坑画家、山本作兵衛(1892~1984年)の原画などがユネスコの「世界記憶遺産」(MOW)に国内で初めて登録されることになり、作兵衛の地元・同県田川市は26日、喜びで沸いた。かつて炭鉱の街として栄えた筑豊の住民たちは『日本を支えてきたのは石炭であり、炭鉱』と改めて胸を張った。98年に作兵衛の記録画を収めた『筑豊炭坑絵物語』を編集した市教委教育総務課の課長補佐、森本弘行さん(52)は「(作兵衛は)後世に残したい一念で絵を描き始めたので、天国でもきっと喜んでいるでしょう」と満面の笑みを見せた。96年7月から市報で計36回にわたり、作兵衛の作品やエピソードなどを紹介。『作兵衛博士』の異名もある森本さんは『作兵衛さんは筑豊炭鉱隆盛期に生まれ、衰退と同時期にヤマを去った。いわば、筑豊炭田の記録を後世に残すために生を受けたような人』と語った。作兵衛の日記を解読する作業を02年から続けている「作兵衛さんを読む会」会長の野村喜七郎さん(75)も『これで筑豊の炭鉱文化が世界に発信されると思う」と感慨深げ。また、炭坑節の語り部として講演活動を続ける田川市伊田の原田巌さん(69)は「祖母も父もこうやって働いていたんですよ。日本を支えてきたのは石炭であり炭鉱。田川にみんなが目を向けてくれるようになれば』と涙ぐんだ。同市川宮のガス組合職員、高橋広昭さん(58)も『筑豊は暗いイメージも強いけれど、田川がいい面でも名前が知られるようになれば』と喜んだ。【伊藤奈々恵】」
先日、予告いたしました新刊本がついに発売されました。全国一般書店にて好評発売中!
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「孫の二乗の法則 孫正義の成功哲学」(PHP文庫)
板垣英憲著(←amazonへジャンプします)
ソフトバンクを3兆円企業に育て上げた稀代の起業家・孫正義。その成功の原動力となったのが、自らの人生・経営哲学を「25文字」の漢字に集約した「孫の二乗の法則」である。これを片時も忘れないことで、孫は幾多の苦難を乗り越えてきた。では、私たちが自分の仕事や人生に活用するにはどうすればいいか。その秘訣を本書では伝授する。「孫の二乗の法則」を本格的に解説した唯一の書、待望の文庫化!(本書カバーより)
本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
小沢一郎元代表が、松本市の菅谷昭市長と東大の小佐古敏荘教授をテレビ映像から消した菅直人首相の福島第1原発大事故対応に怒りの「倒閣号令!」
◆〔特別情報①〕
最近、テレビの映像から消えた人たちがいる。その1人が、医師で松本市の菅谷昭市長(NPO法人チェルノブイリ医療基金理事長、千曲市出身)である。菅谷昭市長は、ロシアのチェルノブイリ原発事故の際に、放射能汚染により甲状腺癌患者が急増していたベラルーシで医療活動をした経験がある。
つづきはこちら→「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」*有料サイト(申し込み日から月額1000円)
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板垣英憲の過去著書より新連載始めました↓
『自・社連合が小沢一郎への逆襲をはじめた』1994年7月30日刊
板垣英憲の過去著書より新連載始めました
*しばらく過去著書からの連載をお休みしておりましたが、また再開させていただきます。
『自・社連合が小沢一郎への逆襲をはじめた』1994年7月30日刊
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1章 小沢一郎に奪われた利権の奪還作戦がはじまった
小沢一郎対自・社連合、利権の構図
政権とともに小沢一郎に奪われた、自民党の利権
自民党は、平成五年七月十八日の総選挙で衆議院において過半数の議席を確保できず、三十八年間続いた長期安定政権の座を失い、下野せざるを得なかった。
づきはこちら→「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」*有料サイト(申し込み日から月額1000円)
四王天延孝陸軍中将の名著「猶太(ユダヤ)思想及運動」 No.112
第七章 シオン長老會議
前回からの続き
議定書が千九百〇五年の日露職事の後始めて書かれたと云ふ明白な虚偽の申立は首席專門委員ロースリとしては甚だまづいことになつた。そこで今度は自ら事實を曲げることに乗り出した即ちラツジウイル夫人の申立を真実らしくする爲に、窃かに千九百五年と云ふのを千八百九十五年に書き直した。七ヶ月後に彼は法廷で被告側専門委員フライシュハウアー中佐の爲に、そのことを自白させられた。それにも拘らずあの偏頗な裁判には何の影響を與へず議定書を偽物と判決して終つた。
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山本作兵衛さんは、最期の言葉「自分は、絶対に病院に入らない。畳の上で死にたい」を遺して、自宅で老衰により大往生した。92歳だった。
私は、山本作兵衛さんが炭鉱夫を引退して、64歳ごろから炭鉱で働く人々の姿を記憶として後世に伝えようと炭鉱の絵を書き始め、大往生する直前まで続けた。明治維新により日本の産業革命を石炭というエネルギー源を掘り出す「地底」から支えてきた人々を描いて残すという営みである。夏目漱石は小説「坑夫」で、「地底」での厳しい労働を描いた。
立派な社屋は写真に撮られていても、「地底」で裸同然で働く男女の姿は、ほとんど撮られてない。たからこそ、山本作兵衛さんの一枚の絵は、写真と同様、夏目漱石の百万言にも勝るのである。私は、山本作兵衛さんのその生き様を、以下のようにまとめた。
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山本さんの両親は、船で石炭を運ぶ仕事をしていた。ところが、鉄道が出来て失業してしまった。このため、炭鉱に入るようになった。両親が働いている間、山本さんは、子守をしたり、弁当をつくったりして家の手伝いをしていた。手伝いの合間、親の目を盗むようにして、好きな絵を描いていた。小遣いをもらっては画用紙を買い、一枚に一つの絵を描くのはもったいないと言って、八ツ切りにして、描いていたという。
大きくなって山本さんも炭鉱に入った。若いころは、炭鉱の鍛冶屋をしていたが、それが原因で、難聴になってしまった。
六四歳ごろからは、自分が働いていた炭鉱の絵を描き始めた。
「炭鉱の様子を子孫に残したい」
という思いを抱き、山本さんは、「一枚の絵を描くのに二日かかる」と言っていた。
描いた作品のほとんどは、人に上げていた。それでも、色つきのものと水墨画が、いずれも約三〇〇枚、そのほかのものを合わせると約一〇〇〇枚にものぼる絵画が残っていた。遺族は、色つきのものと水墨画、計約六〇〇枚の作品を石炭資料館に寄付した。
山本さんは、酒が好きであった。炭鉱で働き続け、酒は相当強く、かなり飲んでいたという。知人たちが、一升瓶を持って来ては、山本さんの絵をもらって帰って行くことがしばしばあった。しかし、体はいたって健康で、どこも悪くなく、とくに肝臓は、人の二、三倍も強いと医師も驚くほどだったという。
山本さんは、とにかくウソが大嫌いで、真正直な人だったという。しかし、そんな山本さんも、
「絵の中でウソをついていた」
と身内に語っていた。それは、炭鉱の中の様子を描いた絵の色具合だった。炭鉱の中は暗闇である。それでは絵にならないので、山本さんは、色をつけたのである。描き続けた炭鉱の絵が、山本さんの遺作となった。日本の経済を支え続けて、廃止された炭鉱を描いたこれらの絵には、炭鉱の様子を後世まで伝えたいという山本さんのいわば遺言が込められている。
山本さんの亡くなり方に満足していたタツノさんも、夫の死後、三年半してこの世を去った。
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さらに、田中好子は、「自分が亡くなったときに集まってくれた人に聞いてほしい」と、亡くなる約3週間前の3月29日、病室で自身の肉声のメッセージを録音した。
「こんにちは、田中好子です。きょうは3月29日、東日本大震災から2週間たちました。被災された皆様のことを思うと、心が破裂するような...、破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。わたしも、一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもその時には、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、わたしの務めと思っています。きょう、お集まりいただいている皆様にお礼を伝えたくて、このテープを託します。キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間、お世話になりました。幸せな幸せな人生でした。心の底から感謝してます。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでも、いつまでも皆様に伝えたいのですが、息苦しくなってきました。いつの日か、妹・夏目雅子のように、支えてくださった皆様に、社会に少しでも恩返しができるように復活したいと思ってます。カズさん、よろしくね。その日までさよなら」(3月29日録音)
◆なお、毎日新聞毎日jpが5月26日午後1時57分、「世界記憶遺産:「筑豊の炭鉱文化を発信」喜ぶ地元・田川」という見出しで、以下のように報じている。
「上半身裸の男女が寝ながら採炭する様子を描いた『寝掘り』(64年)=田川市石炭・歴史博物館所蔵 福岡県筑豊の炭坑画家、山本作兵衛(1892~1984年)の原画などがユネスコの「世界記憶遺産」(MOW)に国内で初めて登録されることになり、作兵衛の地元・同県田川市は26日、喜びで沸いた。かつて炭鉱の街として栄えた筑豊の住民たちは『日本を支えてきたのは石炭であり、炭鉱』と改めて胸を張った。98年に作兵衛の記録画を収めた『筑豊炭坑絵物語』を編集した市教委教育総務課の課長補佐、森本弘行さん(52)は「(作兵衛は)後世に残したい一念で絵を描き始めたので、天国でもきっと喜んでいるでしょう」と満面の笑みを見せた。96年7月から市報で計36回にわたり、作兵衛の作品やエピソードなどを紹介。『作兵衛博士』の異名もある森本さんは『作兵衛さんは筑豊炭鉱隆盛期に生まれ、衰退と同時期にヤマを去った。いわば、筑豊炭田の記録を後世に残すために生を受けたような人』と語った。作兵衛の日記を解読する作業を02年から続けている「作兵衛さんを読む会」会長の野村喜七郎さん(75)も『これで筑豊の炭鉱文化が世界に発信されると思う」と感慨深げ。また、炭坑節の語り部として講演活動を続ける田川市伊田の原田巌さん(69)は「祖母も父もこうやって働いていたんですよ。日本を支えてきたのは石炭であり炭鉱。田川にみんなが目を向けてくれるようになれば』と涙ぐんだ。同市川宮のガス組合職員、高橋広昭さん(58)も『筑豊は暗いイメージも強いけれど、田川がいい面でも名前が知られるようになれば』と喜んだ。【伊藤奈々恵】」
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【関連情報】
【朝鮮儀軌引き渡し協定国会承認】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/cscsgk.cgi
これは日韓併合が無効であるので、日本は朝鮮(現韓国、
北朝鮮)に対して謝罪と賠償をさせて下さいと言う韓直人
の日本国を侮辱する「菅談話」を国会で追認するものであ
り、韓直人首相が日本国民を騙す手口に他ならない。
韓国では日本がこの協定を認めた事が日本が朝鮮に対し
て行った歴史上のあらゆる事は犯罪行為であると日本自
ずから認めたとしている。
御皇室が略奪文化財や図書類を返還して来ると宣伝して
御皇室及び日本人を犯罪者と見做している。
これから幾らでも損害賠償金を請求出来ると考えている。
【民主党政権では、日本が滅びますの掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj2.cgi
【民主党政権では、日本が滅びますの掲示板タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。