あの日

2013-11-17 23:07:10 | まとめ

仕事中、車の中に置き忘れた私の携帯電話は何度も何度も鳴っていた。

後で分かったことだが、当時5歳の娘は、私の携帯への電話のかけ方を母親(亡き妻)から教えてもらっていたそうだ。

結果として娘からの着信履歴を確認した時には、既に妻は救急車で地元の大学付属病院へ搬送中だった。

あの日は、金曜日。翌日は友人たちと釣りへ行く約束をしていた。

病院へ行く途中にそれを思い出し、断りの連絡を入れた。

事の重大さに気付いていなく、今思えば深刻な状態だとは感じていなかったのだろう。

私が病院へ到着した時には既に心臓は停止するかしないかの瀬戸際。

その時、私は悪魔と取引をしてもいいと思った。妻を助ける代わりに、私の……。

しかし、その願いは叶えられず、悪魔との取引も成立しなかった。

H先生から妻の死を告げられた時、人生で初めて崩れ落ちそうになった。

が、必死で堪えた。目の前には5歳の愛娘がいたから。




病院からどうやって自宅へ帰ったのか、記憶がない。

頭の中が整理できなくても、車の運転はできるものだ。

『そうか、これから葬儀か……。』と考え、憂鬱だと感じたことを思い出す。

気丈になんて振る舞えない。

誰彼の区別なく、他人の前で泣いた。

正確には、半分だけ泣いた。

あとの半分は歯を食いしばって、我慢した。

後々、この歯を食いしばる行動が原因で顎の筋肉が痛かった。

それ程、強く喰いしばったのだ。

が、今冷静に考えると、もっと泣けばよかった。

『男だから』とか『父親として』なんて考えばかり先走り、妙な型にばかりはまってしまっていた。

おそらく、私以外にも同じように十分に泣かなかった男性は多いのではないだろうか。

もっと自分の感情を表に出し、泣けばよかったのだろう。

そうすることで、その後の回復にかかる時間にも影響が出ているんじゃないだろうか。

ここは日本。文化や地方独特の仕来たりやモノの考え方があったため、ある種の偏見
を持って(それも自ら)、妻の死に接したのだろう。

人間の欲求である食欲、性欲、睡眠欲のどれもが急激に減退した。

生命維持に関する必要条件が限りなく小さくなって行く。

そんな中、一週間もすれば職場への復帰が待っていた。

『何故、そんなに頑張るんだ?』

そんな声も聞こえたが、正直に言うと『家に居たくなかった』のだ。

家に居れば、妻の使っていたものが身の回りにある。

そこから逃げ出したかった。

よって、自分を追い詰めるようにと職場へ向かった。

仕事を持っている方はみんなこうなのだろうか?

一週間のうちにもっと悲しみをぶちまければよかった。

そんなこともせず、職場に戻ったものだから、回復が早い訳がない。





葬儀の後位からの記憶があまりない。

長さにして2年弱程度か。

その間、暑かったのか寒かったのか……。

記憶しているのは、かなりの量のお酒を飲んでいたこと。

おおよそ、2~3晩でウィスキーのボトル1本が空になった。

もったいない飲み方だ(笑)。

それだけ飲んでも眠れない。

泣けてくるが、声を出して泣けない。

これも『男だから』『父親だから』ってのがあったからだろう。

でもどうしても泣けてしまう。

口にタオルを当て、嗚咽。

フラフラになって、茫然としていたら、いつの間にか東の空が明らんできた、なんてことはほぼ毎日という状態。

職場では、あんなに頑張らなくても良かったんだよな、本当は。

私がいなくても、会社が潰れる訳じゃないんだよね~。

もっともっと悲しめるときにたくさん悲しんでおけばよかったと後悔している。

『我慢せずに泣こう』と伝えたい。


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