古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」に、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。「白村江の戦い」を中心にした歴史散策となりました。
前回は、古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)の様子を、紹介しました。
今回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)の様子を、紹介したいと思います。
〇「扶余陵山里(ヌンサンニ)古墳群」(ユネスコ世界文化遺産)は、扶蘇山城(プソサンソン)のある忠清南道・扶余中心部から、約2kmの場所にある百済の王室墓地です。
6世紀から7世紀にかけて造られた百済時代の古墳が、現在7基残っています。 この場所は、いわゆる風水思想で選ばれた典型的な墓地の地形を示しています。裏山を朱山とし、東方の青龍、西方の白虎、前には塩倉里の山を南側の朱雀とし、墓地の前方に川が通っています。
陵山里1号墳は、四方の壁と天井が片麻岩で築造してあり、石壁に四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が東西南北の四方を守るように描かれています。本物は扉で閉ざされていますが、近くに造られたレプリカの古墳で、石室内の様子を観察することができます。ちなみに日本で四神を描いた古墳としては、7世紀末から8世紀初頭に築かれた明日香村にある高松塚古墳とキトラ古墳があります。ひょっとして、明日香村にある二つの古墳の四神の源流の一つかもしれませんね・・・
古墳群は、 泗沘(サビ)時代に城壁・扶余羅城の外側に作られ百済が王族の陵墓の空間を一定の場所に指定したという泗沘時代の古墳文化を、うかがうことができる遺跡となっています。この古墳群の場所は、さすがに風水思想で選ばれた百済の王室墓地ということで、気が流れているのが体感できました。何か、気持ち良いと感じました。初めての体験でした!
また、国宝が出土した百済王室寺院跡「扶余陵山里寺址」も敷地内にあります。
〇「扶余陵山里寺址(ヌンサンニサジ)」は、百済の歴代王たちの冥福を祈るため陵山里古墳群に隣接して567年に建立された王室寺院跡と推定されています。
特に「百済昌王銘石造舎利龕」の銘文から、陵山里寺に昌王(チャンワン、威徳王のこと)の姉である妹兄(メヒョン)姫が舎利を供養したことが判明し、陵山里古墳群が陵墓(王族の墓)であることが証明されたといいます。
現在この2つの国宝は、「国立扶余博物館」で見ることができます。1993年12月12日に、泗沘都城扶余を囲む羅城と陵山里古墳群の間にある百済時代の寺址から発掘されました。高さ64センチ、胴体の直径19センチで、台坐部と胴部、蓋部に分かれ、台座部の龍が天空を仰ぎ香炉をくわえています。香炉胴部には、24枚の蓮の花が3段に配置されて、葉の一枚一枚に不死鳥や魚、鹿、鶴などが浮き彫りに彫刻され、万物が蓮の花から誕生する仏教の世界観の蓮花化生觀を表現しています。 6世紀ごろの百済人の精神世界を、芸術的に凝集させた華麗なる作品だと評価されています。博物館で実物を見ることができ、大変感激しました!
〇「国立扶余博物館」は、百済時代の発掘物の宝庫で国宝の「百済金銅大香炉」が展示してあります。朝鮮三国時代の百済(ペッチェ)。その首都だった都である「扶余」に、「国立扶余博物館」はあります。土器にうわぐすりを塗った陶器や仏教彫刻などの遺物25,000点を所蔵し展示しています。百済時代の代表遺物と言われる百済金銅大香炉(ペッチェクムドンテヒャンロ)や昌王銘石造舎利龕(チャンワンミョンソッチョサリガム)、「百済の微笑」として知られる金銅弥勒薩立像(クムドンミルッポサルイッサン)、職人の高い芸術性が伺える蓮華文軒瓦(ヨンコッムニスマッセ)など見ごたえがある博物館でした!
ところで「百済金銅大香炉」は、井戸跡(復元)から発見されたそうです。唐・新羅の連合軍に攻められ、百済国の宝(心)を奪われるのを防ぐために、ひょうとして誰かが井戸に投げ入れたかもしれませんね・・・
次回は、古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)の様子を紹介したいと思います。