今月の教会報「KaIrosカイロス」から重富克彦牧師のメッセージを引用しご紹介します。
「あなた方のうち、だれが、思い悩んだからと言って、
寿命をわずかでものばすことができようか。」 マタイ5章27節
思い悩みというのはやっかいなものだ。自分から思い悩もうとして悩むものはい
ない。それは盗人のようにやって来て心を痛めつける。
思い悩みの種は尽きない。仕事のこと、生活のこと、将来のこと、そして、人間関
係のこと。一番苦しい思い悩みは、人間関係のことかもしれない。~この網の何処
にも破れがないというのは、むしろ珍しい。どこかに破れがあり、どこかにきしみが
ある。
だれかの、心に刺さるひとことが、いったん意識下に潜り、突然夜中に頭をもた
げ、心を噛み裂き、その痛みにのたうち回ったことはないだろうか。そんなときは
自尊心がへとへとになっている。自尊心を守るために、人は人を憎む。殺人に至
ることもある。
思い悩みと恐れとは、同じだと言ってもいい。恐れがあるから思い悩みが生まれ
る。思い悩みが恐れを深める。思い悩みの深みに引きずり込まれるのに、ことの
大小はあまり関係ない。ことの大小よりも、恐れの深さに関係がある。
その恐れの深さはどこから来るのだろうか。一番深い所にあるのは滅びの恐れ
だ。死への恐れと言ってもいい。けれど滅びの恐れは、かならずしも、死への恐れ
として自覚されない。思い悩みの底にいる者には、死は甘美にさえ思える。本当
は死の向こうの滅びこそが、すべての恐れの根源にあるものなのだ。滅びの恐れ
は、まずは、所有しているものの喪失の恐れとして感じられる。
恐れは妄想を生み、妄想は恐れを深める。妄想は、すでに起こったことに対して
ではなく、まだ起こっていないことに対するものである。だから、妄想は無限であ
り、とめどない悪循環となる。思い悩みに飲み込まれると、その悩みから目をそら
すのも恐ろしくなる。それを忘れたいのに、目を離すのが不安なのだ。
目を離せないなら受け取りなおそう。まず、思い悩むなと言ってくださるイエスに
目を向けよう。命を捨てて救いの手を伸ばされている御子に目を向けよう。野の花
をかくも豪華に装い、空の鳥をかくも軽やかに舞わせられる父に心を向けよう。
今起こっているすべてのことは、神がわたしに与えられていること。
思い悩みに襲われたら、キリストもまた、この寂しさ、この心細さ、この悔しさ、この
不安、この恐れ、すべて経験なさったのだと思おう。本当に経験なさったのだ。そし
て、今、自分も、少しだけ、その一端を担わせていただいていると思おう。それだ
けキリストの痛みも分かり、それだけ癒しも与えられ、心の切り替えも与えられる。
思い悩みの波にのまれることは避けがたい。しかし、溺れかかっても体勢は立て
直せる。「この苦しみは、今、わたしに必要なことなのだ。」そう思うとおのずと体勢
は立ち直ってくる。
私たちの髪の毛一本一本までも知っておられるお方に、身を委ねて生きよう。
信じるものにはそれが与えられる。 了