札幌教会月報 kairos 第22号(5月31日発行)掲載の
重富克彦牧師による祈りのエッセイ
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 詩篇23:1
Quality of Life (略してQ.O.L)。何と訳すればいいのだろうか。「生活の質」
それとも「生命の質」、いやその両方を含めて「生の質」とするのが適切だろうか。
わたしが入院していたのは頭頚科だが、これは多分がんセンター独特の専科では
ないかと思う。脳の下から喉にかけての部分を診る。大きく上咽頭、中咽頭、下咽
頭と分けられて、わたしは中咽頭だったが、入院患者には下咽頭をやられた人が
多かった。下咽頭の場合、治療に当たって声帯へのダメージは避けがたい。
2週間あまりベットを隣り合わせた人は、いったん声帯を取らずに治療を終えたが
2年半後に再発。余命1年半といわれて、声帯ごとの摘出手術を決断した人だっ
た。手術の前日、看護婦さんに「泣こごたる」(泣きたいよ)と漏らしていたのが、
痛々しかった。年齢は68歳。自営業。妻に先立たれ、すでに結婚している息子が
一人。父の身を案じてのことか、これから自分の家族に降りかかってくる「父」とい
う重荷に戸惑ってのことか、手術の日の息子は収支無口で不機嫌そうだった。
部屋は違ったが、私とほぼ同時期に入院した一人は、老後をゆっくり過ごそうと、
菓子店をたたんだ矢先、食道の付け根とリンパに癌が発見されたという75歳の男
性。彼も手術となれば声帯保存は困難。しかし彼は「手術して命永らえるよりも、
成り行きに任せたい」と放射線と抗癌剤ですませることを選び、リンパの転移部分
にさえメスを入れずにすまそうと腹を決めていた。
患者の入れ替わりは激しい。退院する数日前には、私の隣と斜め前に、どちらも
80前後の人品卑しからぬ紳士が2人、他の部屋から移ってきた。2人とも声帯を切
除していて、白板でコミュニケーションをとっていた。
声帯を切除すると言っても、ただ声が出なくなるだけのことではない。気管孔を喉
の付け根の部分から出し、そこで呼吸や発声もすることになる。しかしその孔は自
然に塞がるので、繰り返し手術が必要だという。嚥下力も落ち、誤嚥から肺炎とい
うコースをたどるのも珍しくないという。実際、隣のベットの人は肺炎を起こし、かな
りの高熱を出した。
けれども彼は、移って来たばかりのとき、付き添いの奥さんに、「僕は幸せ者だ」
と白板に書いて感謝の意を伝えていた。奥さんがそれを読み、「そうよ」と答えたの
がカーテン越しに聞こえた。夫婦とはいいものだ。
もし自分だったら、どのような選択をするだろうかと考えた。Q.O.Lとは何だろう
か。声帯を奪われれば、生活は一変する。「キリストの語り部」として生きてきた自
分が、突然その道を絶たれる。老いていく「男やもめ」の自分に声を奪われてどん
な生活が出来るのか想像するだに恐ろしい。それによって、どれほどの延命が出
るのか。半年か、1年か、2年か、5年か。
では、声帯は切除しないことを選択した場合、それは聾唖者の方や、声帯を切除
して懸命に生きている人たちへの否定になるのだろうか。生活に障害が出るとして
も、「生の質」が落ちるとは一概に言えない。外なる自己に障害があっても、内なる
自己を高めることはできる。そういう生き方もある。
ロックシンガーだった忌野清四郎は、最後まで声帯の保存にこだわり、手術や
途中からは抗癌剤治療もだんねんして代替治療に切り替えたが、発病後3年足ら
ずのうちに58歳という若さで死んだ。彼は声帯を失ってでも延命をはかるべきだっ
たのだろうか。いや、多くの人は、彼の選択に納得しているだろう。
Q.O.Lに絶対はないのが真実ではないだろうか。人は自ら選ぶところのものとな
る。選んだ自分が自分である。そこでそれぞれの十字架を引き受け、精一杯生き
る自分が、自分にとっての最高のQ.O.Lとなる。少しでも長く生きることを選び、そ
れに伴う困難を雄々しく引き受けるのも一つの生き方。延命よりも、残された命の
中で「日々の質」を充実させようとするのも一つの生き方。あるいは代替療法や実
験的な治療の道を模索し、自分を研究途上の臨床例(例えば今後有望視されてい
るペプチドワクチンによる免疫療法など)として提供するのも一つの生き方。遅か
れ早かれ死はやってくる。Q.O.Lということでは、いずれも等価値なのではないか。
神の前に絶対的な道はない。どの道も命をかけ、どの道も重荷を負う。それぞれ
の道にそれぞれの高いQ.O.Lがあると言ってよいはずである。
札幌礼拝堂の「聖書の学び」のとき、このテーマが話題となった。ひとりの婦人が
「それぞれが真剣に選んだ道を神さまは祝して下さるのだと思う」と言った。わたし
もそう思う。