新渡戸稲造は、老人と青年の違いは年齢ではなく、希望を有しているか否かだと言いました。希望を抱いている人とそうでない人との違いは、実は非常に大きいのです。人は望みなしに生きることはなく、「希望」によって生かされる存在なのですから。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(ローマ5:3-5)
私が始めて覚えた聖書の御言葉です。当時、まだクリスチャンではなかった私は、親友が悪性リンパ腫と闘う傍らにいました。手術もできず、碌な治療方法のない中でも、彼女は決して希望を捨てませんでした。希望にかじりついていた、と言った方が良いかもしれません。子供のために、家族のために、絶望の「死」ではなく、生きる「希望」をしっかりと握り締めて歩み続けていました。私には彼女ほどの強い意志は持てず、代わりにクリスチャンの友人がくれた聖書の中のこの御言葉を、ただ守っていました。そして、私たちは癒されたのです。その時私は、希望こそが人を生かすことをはっきり知りました。病気から回復した彼女にとっても、そしてそのことを通して永遠の癒しを受けた私にとっても。
巷ではしばしば希望を別のものと混同してしまいます。感情重視の「欲望」、根拠のない「願望」、嫉妬の混じった「羨望」、身の程知らずの「野望」など、これら自己中心の望みは、叶ったとしてもいつかは消え去り、なくなってしまう儚いもの。地上での一時を満たすものでしかないからです。
永遠の幸せなんてありえない、と思いますか。そんな刹那の満足にあなたの人生を懸けるのですか。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。(コヘレトの言葉 3:11)」とあるように、人は知るはずのない永遠を知っています。おとぎ話はいつも「Forever and ever...(永遠に、ずっとずっと)」で終わります。いつまでも続く希望を持つには、永遠に根拠を置くこと。聖書の神様は「希望の源」だとあります。その神様に、そして永遠の命を与えてくれるイエス様の復活に信頼するかどうかが、真の確かな希望に繋がります。上に挙げた御言葉には、次の一文が続きます。これが確かな希望への答えなのです。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 (ローマ5:5)
希望を求める方、South Bay Cellは、火曜日5時半にあなたをお待ちしています。

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私が始めて覚えた聖書の御言葉です。当時、まだクリスチャンではなかった私は、親友が悪性リンパ腫と闘う傍らにいました。手術もできず、碌な治療方法のない中でも、彼女は決して希望を捨てませんでした。希望にかじりついていた、と言った方が良いかもしれません。子供のために、家族のために、絶望の「死」ではなく、生きる「希望」をしっかりと握り締めて歩み続けていました。私には彼女ほどの強い意志は持てず、代わりにクリスチャンの友人がくれた聖書の中のこの御言葉を、ただ守っていました。そして、私たちは癒されたのです。その時私は、希望こそが人を生かすことをはっきり知りました。病気から回復した彼女にとっても、そしてそのことを通して永遠の癒しを受けた私にとっても。
巷ではしばしば希望を別のものと混同してしまいます。感情重視の「欲望」、根拠のない「願望」、嫉妬の混じった「羨望」、身の程知らずの「野望」など、これら自己中心の望みは、叶ったとしてもいつかは消え去り、なくなってしまう儚いもの。地上での一時を満たすものでしかないからです。
永遠の幸せなんてありえない、と思いますか。そんな刹那の満足にあなたの人生を懸けるのですか。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。(コヘレトの言葉 3:11)」とあるように、人は知るはずのない永遠を知っています。おとぎ話はいつも「Forever and ever...(永遠に、ずっとずっと)」で終わります。いつまでも続く希望を持つには、永遠に根拠を置くこと。聖書の神様は「希望の源」だとあります。その神様に、そして永遠の命を与えてくれるイエス様の復活に信頼するかどうかが、真の確かな希望に繋がります。上に挙げた御言葉には、次の一文が続きます。これが確かな希望への答えなのです。

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