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「はじめに」「これらが名である」「神は呼ばれた」、そして民数記。大胆なご意見のえんぢぇる師は「出エジプトから民数記に話は続いている、とおっしゃったけど、私は二巻(出エジプト記)、三巻(レビ記)、そしてこの四巻(民数記)への流れに感動したのでした。
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二巻最終章40章 のほぼ最後では、「
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しかし民数記と言われて思い出すのは人口調査くらい。これではイカン、とがんばって予習すると、出て来る出て来る、たくさんの事件の数々。あ、これってここにあったのね、あれこれも?という感じでした。ところがメッセージを聴いてビックリ。そんな単純なことではありませんでした。民数記の記事の重要性をどれだけ見逃していたことか。民数記がわからずして、黙示録がわかるはずがない、とすら思い、深く反省。
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まず人口調査。なぜ、ここで二度に亘る人口調査が行われたのでしょうか?膨大なムツカシイ名前に圧倒されて、肝心の理由を見逃します。しかし、いつでも大切なのは動機であり、理由です。エジプトでの400年、神様を忘れて礼拝をせずに、心身ともに奴隷と化した民衆を約束のカナンの地に率いれ、先住民との戦いに戦いに備えるために群れを組織化し、この荒野で戦士としての意識
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長年の奴隷生活は、彼らの本来のアイデンティティを失わせてしまっていました。それはまるで、救われる前の私たちのようです。その私たちに神様は語られます。「あなた方はわたしが選んだ契約の民だ。途中で何があっても、どんな誘惑に落とされようとも、あなた方は確かにわたしの手の保証の内にいるのだ」、と。つまりこれは、天国に入るためのいのちの書に、救いを受けた私たちクリスチャンの名が記されているそのことに繋がっているのです。これこそが、私たちに伝えられているこの書の主題テーマです
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しかし事実として、ほとんどの民が、実にヨシュアとカレブの二人以外の601728人はカナンの地に入ることができませんでした。不信仰ゆえです。ヘブル書にはっきりと書かれています。神に従う者は祝福を受けますが、従わないものは受けられません。尚、ヨシュアはエフライム族で、カレブはユダ族です。この二人によって南ユダと北イスラエルが継承されるのです。これは今、終末時代に直面する私たち、霊の戦士に語らていることではないでしょうか?信仰を持った後は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。これは続く申命記でより一層深く語られるのですが、神様は、この霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。
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