60代の男のつぶやき

60代の男の行きつ戻りつ日記。バツイチオヤジの日常を過ごしていますが、なんて事のない日常を丁寧に楽しみながらの日記です。

お盆前の記憶

2011年07月31日 | 日記
今回も小学生の時の想い出です。
半ズボンの記事に出てきた、老人3人暮らしのK家のご家庭のこと。
最初にご主人が脳溢血で無くなり、確か半年後に独身だった妹さんが
その半年後事情があり入籍はされませんでしたが、
奥様が亡くなられK家はわずか1年半で墓守が居なくなりました。
無縁墓となったK家の墓守を母がしていた訳です。

私は毎年8月になると朝5時に起こされる日がありました。
蚊取り線香と、鎌や草ぬきを持ち墓地の草刈に出かけるのです。
蚊取り線香は広い墓地に回らず、蚊に刺されながら草刈をします。

昔の墓は夫婦墓と夫婦別々に並んで建っており、
旧家のK家は十数基のお墓が並んでおり、ひと仕事でした。
その1つが事情があり、母の姉が眠っており、
土葬の顔にあたる部分に榊が植えてありました。
顔を踏まれるのは耐え難いと、祖母が植えたそうです。
草刈が終わると榊の剪定を行い、刈り取った草を処分すると

庫裡でお茶を頂き、気さくな御住職と坊守の奥様とお話をして
帰るのが習わしでした。心落ち着く大変良い時間でした。
これは母が元気なうちは私が大人になっても続いた行事となりました。

さて、私は3人姉弟の真ん中なのですが、私だけが動員されたのは
どうしてなのでしょうね。長男だから?
特別お小遣いもいただきませんでしたけど・・・・・・

多分母にはお墓を守るという事、長男の教えをもらったのでしょうね。


調子が良いんです

2011年07月30日 | 日記
何か体調が良いんです。
気分も良くて、ポジティブに過ごしています。
とても、穏やかな気分で過ごせるんです。

毎日、鬼門にある風呂場の排水口を洗って綺麗にしてるから?
毎日、トイレを掃除しているから?
朝晩、会津天宝の黒にんにくを食べているから?

鬼門とか本当は信じていないんですよ。
でも、何かはあると思ってます。

僕は「トイレの神様」という歌は大嫌いなんです。
あの歌手をテレビで見かけると、チャンネルを変えます。
イントロなんて聴いたら、のけぞってしまいます。
何故嫌いか・・・何故か聴いているとイライラします。

でもトイレに神様は居ると思ってます。

黒にんにくも美味しく頂いています。
タバコ代だと思って食べてます。

この調子・・・続いてくれると良いのですが・・・


突発性難聴との付き合い

2011年07月29日 | 日記
コメントで会津での屈指のブロガーの方から突発性難聴について
お問い合わせがあったので、私の記憶を辿り思い出してみます。

最初に突発性難聴になったのは、約20年前の事。
当時、役職を与えられ転勤したばかりの頃です。
自分では分からなかったのですがストレスがあったようです。
右耳の低音部が聞こえが悪くなり、「仙台逓信病院の耳鼻科」へ
「桜田先生」に診察していただき入院を勧められましたが
新任の役職で転勤したばかりで、通院で治療を選びました。
毎日、ステロイドの錠剤を飲用し段々に増量したあとに
減量するということです。
幸いに低音が聞こえない場合は治りやすいそうで、
病院に行くのも早ければ早いほど完治の可能性が高いそうです。
最初の難聴は通院で完治しました。

その後2度目は左耳に変わり高音部が聴こえずらくなりました。
仙台逓信病院の桜田先生はまた錠剤の処方をして1週間ステロイドを飲みましたが
治りが悪く、仙台では有名な「仙台厚生年金病院の粟田口先生」の所へ転院しました。
即入院して、点滴のステロイド注入で約10日の入院。MRI・CTで検査。
少しは聞こえの数値が良くなりましたが、高音部は治りにくいとのこと
で難聴が残りました。
その後桜田先生は個人医院を仙台市内に開業され、
難聴意外の病気(喉が痛いとか、風邪等)の時はお世話になってます。

難聴のせいで子供が嫌いではないのですが、
突然大声を出したり奇声を発する事があるとめまいが襲いました。
それでスーパーや人ごみの子供がすっかり苦手になりました。
退院後は「メチコバール」と「アデホスコーワ」「サーミオン」を
処方され経過観察。

3度目も4度目5度目と同じ左耳高音域というのは変わらず、すこしづつ
聴こえが悪くなってきています。5度目は2009年です。
入院のたびにステロイドで太って、トータル10キロも増えてしまいました。
退院後の3種の薬も変わりありません。
薬は3箇月ほどのんで、その後は薬無しで経過観察です。

何故、仙台厚生年金病院の粟田口先生を離れないかというと
他の先生のように「治りませんね」と言わないからです。
「そうかそうか、良く頑張ったね。戻りは悪いけど経過観察しているうちに
良くなる事もあるんだよ。期待して頑張ろう!」って言ってくれるんです。

このように繰り返し発病するのは「メニエール病」の範疇になるそうです。
思い返せば、職場が変わると発病していたようで、ストレスが一番弱い
所に出たのではないかと思います。
若いときは胃潰瘍を数回繰り返しました。胃薬を飲んでいたときに次に弱い耳に
来たのかもしれません。
その後タバコをやめたので胃に負担が掛からず突発性を繰り返したのでしょう。

いまだ子供の奇声が苦手で、コンサートの爆音のような音量も観客の歓声も
苦手です。
おとなしめな、落語や演劇や映画を楽しむのは難聴のせいです。
コンサートはクラシック意外には行けません。
耳がステレオでないので、物音がどこからしているのか分かりません。
携帯がどこかで鳴っていても、あらぬ方向を探していることがありますから。

耳鳴りも長いこと付き合ってます。
「少しでも聴こえが悪かったらすぐ来なさい。聴こえる分を大切にしましょう」
粟田口先生が経過観察の診察後必ず言ってくれる言葉です。


スイカの夏

2011年07月28日 | 日記
4度目の突発性難聴で入院の夏。
3〜4年前の事です。

病院の食事は美味しく、ボリュームもあり、ステロイド剤の副作用で
太らないようにカロリーセーブしていたときでした。
お昼に珍しく「きつねうどん」と「スイカ」がでました。
たったこれだけ?と思いながらきつねうどんを食べました。

残りはすいかのみ・・・
すいかは小学生の低学年頃から食べてません。
もともとすいかは好きではありませんでした。
小さい時はすいかのカケラを口に入れるだけで、まずいものでした。

でも口寂しく、病院のすいかを手にして食べてみたら・・・・
おいしいではありませんか。どうした事でしょう。
いままで食べれなかったのが嘘のように美味しくいただきました。

小学生の頃、家族ですいかを食べる時、私は見てるだけでした。
買い物ですいかを買うときに、
すいかが食べられない私の為に別なものを買って欲しいと
幾度となく母に頼んだ事があります。
果物のコーナーには、桃のシーズンですし、ぶどうもありました。
しかし、母はすいかが食べられない私に、
代わりのものを決して買ってはくれませんでした。
アメ玉一つでも良かったのですが・・母の理論では
すいかを食べれば良い、食べないはお前の勝手。

自分に子供が出来たらこんな事はしないぞって、
家族がすいかに舌づつみを打っている時に思いました。
ひとり食べることが出来ずに皆が食べる姿を見ているだけでしたから。

いま、スーパーに行き、すいかのコーナーを見ると思い出す
なつかしい母の事。

その母は亡くなる前にすいかを食べたがりました。
シーズンではないので食べさせる事は出来ませんでしたが、
今なら「銀座千疋屋」で手に入れる事ができたかもしれません。


半ズボンの想い出

2011年07月27日 | 日記
小学生のころ家の赤い塗りのタンスには、紺色のサージで出来た
半ズボンが沢山入っていた。
私の通学用のズボンでした。
今考えても仕立ての良い上品な半ズボンで、学習院の制服のよう
と表現すればイメージがわくと思います。

多分、当時ご近所に住んでいた「僕ちゃん」と読んでいた姉と同い年の
お兄ちゃんのお下がりだったようです。
「僕ちゃん」はザベリオ学園と言うカトリックの私立の付属小学校に通って
いたようで、制服のお下がりが来ていたんだと思います。

今履くなら、ゆったりめの少し長めの半ズボンが上品に見えるのですが
当時の私は短めでパツンパツンに履きたかったので、お気に入りは2着位で
ほかはブカブカ・・でした。
正当な履き方なら丁度よいサイズが沢山あったのにね。
つつましいサラリーマン家庭にはそぐわないほど引き出しに入っていました。

日頃学校から帰ると普段着に履き替えるように言われていました。
母が時々お世話に通っていた老人3人のご家庭がありました。
そこのご主人がお亡くなりになり、お葬式の日に普段着に着替えてお葬式に行き
母から何故着替えたのか、こっ酷く叱られた覚えがあります。
自分でも着替えるか着替えないか悩んだのですが、いつも着替えろと
言われていた事を思い出し、着替えて行って叱られた訳です。
母はなんども着替えて来たことを叱り、葬式はハレの日で、
服装はキチンとしなければならないとその時覚えた訳です。

亡くなられたその方もあと数年で50回忌となり、「僕ちゃん」も
還暦になるそうです。