今日は、私の家から近くの分水良寛史料館の春の特別展記念講演会に行ってきました。
演題は「良寛と有願和尚」、講師には全国良寛会副会長で新潟大学加藤信一名誉教授が来られました。
私はこの講演会を市の広報で知っただけで行ってみたのですが、案外多くの人が参加していました。
実は、分水良寛会というのがあって昨年春から私は初めて入会させてもらっていました。
良寛に関わり深い地域に住んでいて何も知らなければおかしいと思っていましたし、近くに良寛史料館があるのだから、私の住んでいる地域で日頃話題などあっても良さそうなのに不思議となかった、それが今更にも不思議だったのでした。
ところで、私の住む分水のまちは良寛さんでも有名ですが、他にさまざまな歴史が混合しているのです。
良寛さんの歴史以前にもさまざまな仏教に関する歴史があります。
それらが地元ではほとんどひも解けていないということをあらためて疑問になるまでに50歳くらい軽く過ぎてしまうといった地域なのでしょう。
歴史があるのにその歴史が全然話題に登らない不思議な地域なのです。
実際に歴史に関わるかどうかで大違いな地域でありまして、昨年から良寛会へ入ることで急転身し出したようなことです。
今日の講演会では有願和尚についてだったのですが、良寛さんにとってはとても信仰があったはずの有願和尚らしいですが、実は有願和尚の残した記録の中には良寛について記したようなものがなかったのが現実だったようです。
良寛さんは有願和尚が亡くなった時、知らずに訪問してわかったらしく、何も知らないままに居なくなっているなんてという和歌を書き残しているそうです。
今日の講師の加藤名誉教授も有願を研究したくなったきっかけはそういう疑問点にあったと話されておりました。
加藤教授は講演の後、史料館内の展示物の説明にも参加者を案内してくださいました。その際、史料館からいただいた資料によると、有願とは、三条市代官島の庄屋、田澤家に生れたと記されていました。
私はこの田澤家という名に何となくピンときました。
これは、明治の大河津分水工事の時の工事の中心となった田沢実入という実業家の家と関係筋ではないかということでした。
この地域では何でも金持が天下であり、庄屋といえばありとあらゆることをしていたわけでしょうから、当然金持のつながりでしかないと思えるのです。
良寛さんの家も問屋をしていて、その後に庄屋をさせられたのでしょうから、有願和尚が庄屋の生まれということは当然の金持同士のつながりはどこまでもこの地域を決定しているのです。
まあ・・よくありそうな変な話ですが、有願とは信濃川右岸、左岸は良寛の出雲崎側で、よきライバルだったといえるのでしょう。金持同士だから案外単純明快な謎な戦いをしているものと視点を変えてみると解かることが多いような地域です。
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ところで、私の住む分水のまちは良寛さんでも有名ですが、他にさまざまな歴史が混合しているのです。
良寛さんの歴史以前にもさまざまな仏教に関する歴史があります。
それらが地元ではほとんどひも解けていないということをあらためて疑問になるまでに50歳くらい軽く過ぎてしまうといった地域なのでしょう。
歴史があるのにその歴史が全然話題に登らない不思議な地域なのです。
実際に歴史に関わるかどうかで大違いな地域でありまして、昨年から良寛会へ入ることで急転身し出したようなことです。
今日の講演会では有願和尚についてだったのですが、良寛さんにとってはとても信仰があったはずの有願和尚らしいですが、実は有願和尚の残した記録の中には良寛について記したようなものがなかったのが現実だったようです。
良寛さんは有願和尚が亡くなった時、知らずに訪問してわかったらしく、何も知らないままに居なくなっているなんてという和歌を書き残しているそうです。
今日の講師の加藤名誉教授も有願を研究したくなったきっかけはそういう疑問点にあったと話されておりました。
加藤教授は講演の後、史料館内の展示物の説明にも参加者を案内してくださいました。その際、史料館からいただいた資料によると、有願とは、三条市代官島の庄屋、田澤家に生れたと記されていました。
私はこの田澤家という名に何となくピンときました。
これは、明治の大河津分水工事の時の工事の中心となった田沢実入という実業家の家と関係筋ではないかということでした。
この地域では何でも金持が天下であり、庄屋といえばありとあらゆることをしていたわけでしょうから、当然金持のつながりでしかないと思えるのです。
良寛さんの家も問屋をしていて、その後に庄屋をさせられたのでしょうから、有願和尚が庄屋の生まれということは当然の金持同士のつながりはどこまでもこの地域を決定しているのです。
まあ・・よくありそうな変な話ですが、有願とは信濃川右岸、左岸は良寛の出雲崎側で、よきライバルだったといえるのでしょう。金持同士だから案外単純明快な謎な戦いをしているものと視点を変えてみると解かることが多いような地域です。
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