現代の情報主流の社会では日常の何から何まで活字に振り回されているといってもよいほどですね。
ところで、一言で情報社会といってもその情報の取得や活用の種類は様々です。
例えば、学校で学ぶ勉強も重要で有力な情報といえますね。
また、家庭内の子供への教育や家の近所の噂や評価などもみな有力な情報ですね。
それらは一方的に外部から受ける情報ですが、自分の好みでも選べる本やテレビ、インターネットなどから得る大衆的な情報というものはどのように選択したらよいのでしょうか?
それらのように自分で選択できる情報に対してはただ漠然と受け止めるような姿勢では自分で情報を選んでいるという価値観を無駄にしてしまうかもしれません。
だから、時間の無駄遣いにならないように自分で選んだ責任上はその情報時間を自分でうまく有意義なものにしていかなければなりませんよね。
情報時間を一方的に提供しているテレビなどではその時間内はテレビに縛られていなければなりません。
つまり、テレビの良いところは見て、聞こえ、瞬時に理解することができることですが、その点は学校の授業に出席して直接先生と接する対話によるリアルな情報の価値観にはかなわないようです。
仏教においてもお経という経典書物は一番重要とされていますが、早く理解するためには説法を直接聞くことです。
そして、説法を説く者にとっては先ず経典をしっかり読んで内容を知らなければなりません。
しかし、経典とはそう簡単に理解できるようには書かれていません。
あっちを読んだりこっちを読み返したり、とても時間がかかります。
つまり、経典とは一度読んだだけでは理解できないことを誰もが知っています。
だから、お経を学ぶ入門は速読と同じなのです。
最初からお経をじっくり理解しようと努力するよりも、ただ先へ先へと思い切り速読をしていけば良いのです。
その中で自分自身にとって重要なことだけが頭に残ってきます。
お経とはとにかく早く他者へ説法してあげるための教本なのです。
つまり、説法してあげることが一番重要なのであって、そのために学習する大事なお経本は手っ取り早く重要なことだけを知るためにあるのです。
教わるプロよりも教えるプロになることです。
それを教えているのが仏教なのです。
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