ルー・コング
原題「タビサ」。
最近こういう顔をした女が増えた。
シンプルに整いすぎた顔、印象的に光る目、素直な髪を後ろでまとめている。
明らかに真実の天使の真似をしているのである。
人間の馬鹿は、際立って美しいものを見ると、みなで一斉にそれを真似する。そして似たような美形が、まるで粗悪な偽札のように世間にあふれかえる。
言っておくが、こういう顔は基本的に女性の顔ではない。女性にしてはきつく整いすぎているからだ。女性そのものという顔だが、女性は高くなってくるともっと柔らかく進化する。
こういう鮮烈に強い目は男のものなのである。
しかしこの顔は今の段階では人類にありえない顔だ。人類が自分を無理矢理改造し、こういう天使の顔に自分を近づけようとすれば、自分らしいものをほとんど削ってしまわねばならない。その結果、こういう顔をした人間は、みんなが同じ人格に見える、ほかと違うと思えないものになってしまっている、という現象を起こしている。
自分とはあまりにも違いすぎるものを、そっくりに真似してしまったからだ。みんなが自分を否定してあの美をまねしたら、みなそっくり同じ人格になってしまったのである。
それは、だれもいないという人格だ。偽物の極みである。
人間の自然な顔つきでは、目はもっととがっているし、鼻が幼い。唇もこれほど整ってはいない。整っていても、人間的な微妙なずれがかわいらしさを感じるものだ。まだ土の匂いのするきつい感じがいいというもののはずなのだ。
こんなことをしてしまっては、もう自分がおしまいだ。
天使の顔真似はすぐにでもやめなければならない。
ハンナ・バチェラー
画家の経歴は不明だが、かなり若い画家らしい。
今の時代の幽霊を何の疑いもなくそのまま描いている。
これは、嘘で全部自分を作った人の末路の一例である。
人から顔を盗み、形どころか色や性質まで、全部作り変えてしまった人間が、年をとるとこういう感じになってくるのだ。
まるで仮面のようだろう。顔が今にもとれそうだ。
舞台から下りれば、この人間は猿のように小さく汚いものになっているのである。
全部盗みで自分を作り、人に自分をやってもらい、自分は何もしなかったにもかかわらず、ひどくいい人生を味わったからだ。
何もしなかったがゆえに、中身が変容し、それゆえに顔がむやみに馬鹿になってしまったのである。
馬鹿になったとは、要するに、人間の運命を作る何かが崩れてしまい、自分の運命ががたがたにくずれてきたということだ。それゆえに顔が地震を起こしたかのように崩壊したのである。
まるでホラー映画に出てくる妖怪のようだ。この顔を見て、ぞっとしないものはいまい。
人間が嘘で自分を作りすぎると、こうなることがあるという、良い例を教えてくれる絵である。
安彦良和
原題不明。
有名な日本のアニメーターの絵である。知らない者はまずいまい。
シャアというキャラクターは、男前で人気があるが、完全な偽物だ。人間が、人工的に男前を作ると、だいたいはこういう感じになるという、典型的な例を描いている。
こういう絵は、人間が描きやすいのだ。
すんなりした美形だ。何かをやりそうな雰囲気はある。だが、目つきが嫌らしい。普段は目を隠しているのは、おそらくそのせいだ。
私室では、わけありで、頭の弱そうな女をそばに置いている。意味深だね。
普段こういうことばかりしているからだ。
いやな感じで拾ってきた女を私室に引き込んでいる。そして重要な目的を果たす。女には、それなりのことをしてやる。でなければ、ただの、スケベになるからだ。
自分をいい男にしたい馬鹿男が、いい感じでなれる男前というものが、シャアなのである。
タイトルの意味は、顔と中身は全然違うという意味である。細身の筋肉質な体形の中には、とんでもなくちびなブ男がいるのだ。
グレタ・フライスト
原題「自画像」
これは、霊的技術を弄して女性の肉体を改造した例である。
昨今、このような肉体をした女性が多いが、これは男が女性を自分の好みのとおりに改造した結果なのである。
細くきゃしゃにし、子供のように幼げにする。くびれは深く、乳房の形も愛らしい。
女は子供のように馬鹿で、男の扱いやすいものであればいいという、これは男の欲望の姿なのだ。
こういう肉体をしていると、女性は苦しむ。
自分の肉体が、あまりにいやらしく見えるからだ。
本当の女性の肉体は、もっとまろやかで、誇りを感じさせるものである。ふっくらと肉がつき、人を愛するのための豊かな心があることを自分に教えている。
こんな体をしていると、子供を生むことすら痛い。脂肪の少ない体をしていると、愛情も浅くなる。
人間は、人間の造形に口を出すべきではない。
自分のエゴが必ず混じるからである。もっといい男にもてたい。女を自由にしたい。そんな身勝手な欲望で肉体を作る時、人間は見るも無残なものになる。
マイケル・ジャクソン
写真家の名前がないので、モデルの名を出した。これは本人が描いた絵とも言える顔だからである。気持ち悪いだろうがしばし我慢しなさい。
人間は、遠い過去から霊的技術で自分をつくり変えてきたが、これは近現代の整形技術で自分を全く作り変えようとした例だ。
この男は、女性的な美形になりたかったらしい。うまれついた顔を嫌がり、目を変え鼻を変え、肌の色さえ変えた。髪も技術で何とかした。
憂いを秘めた美しい青年の神のような姿になりたかったらしい。その結果がこれである。
恐ろしい怪物にしか見えない。どことなくフランケンシュタインに似ているのは、うがちすぎとも言えまい。
歌と踊りでスーパースターの地位を得たが、その才能も作りものだった。自分ではほとんど何もやらず、バックにいる霊にほとんどをやってもらっていたのだ。努力もせずに高いことができた人間は傲慢になる。儲けた金であらゆる愚かなことをした。
その結果、見事に人間ではないものになったのである。
人間はこの男の姿に、自分を嫌がった人間の愚かさの姿を見ることができる。
ロバート・ヴィクリー
原題「イカルス、堕ちた天使」
道化の格好をした男の羽に、大きな羽が生えている。
堕天使とは神の栄光から落ちた人間の象徴である。実際、進化した本当の天使は堕ちることはない。堕ちるのは、まだ自己存在の確立の段階に上がっていない人間なのである。
道化というものがもてはやされるのは、人間の心の中に、イエスに対する罪の意識があるからだ。これは真実である。
人間は彼を裸にし、道化のようなおかしな格好をさせ、公衆の面前に出してみなで指さして笑ったのである。
それに対する罪の意識が、自分を道化に同化させるのだ。自分もいずれ、堕ちてあのように人に笑われねばならないと、そういう意識がかすかに痛むのだ。
イエスに対する罪を犯してはいない人間の社会では、これほどに道化の芸が深まってはいない。コメディアンとかコメディエンヌのよき才能が輩出するのは、イエスに対する罪を持っている第一期人類の特徴である。
彼らはいずれ、イエスのように、裸にされ、おかしな衣装を着せられ、人々に大笑いされねばならないのだ。
王のような高い地位から落とされて。
バーナード・サフラン
原題不明。
ラオスの国王を描いたものらしい。サワーン・ワッタナーという名の王である。現在ラオスはラオス人民民主共和国となっているが、その前には王制があった。ラオス王国の最後の王であるらしい。
美しく描いているかに見えるが、写真を加工したものであることが、よく見ればわかる。この画家はそういう手法でやっているものであろう。だがそれゆえに、モデルの心がよく表れている。
立派な人格だ。目を見れば、美しい自己であることがわかる。この人間は一つの立派な霊魂がこの存在を統率している立派な人間であるのだ。国王として国を愛していることが、顔を見てもわかる。
だが国は時代の暗雲に飲み込まれ、この王は悲劇的な最期を迎えたらしい。
正しい自己というものは、こうして、多頭怪の群れに少しずつ滅ぼされてきたのである。
20世紀は馬鹿が大いに栄えた時代だった。目の虚ろな多頭怪があふれるようにこの世に生まれ、目の美しい正しい自己をつぶし続けていったのである。ありとあらゆる馬鹿が、美しい本当の人間を滅ぼしていったのだ。
この人間はその暗黒の栄えの中で滅びていった、本物の自分のひとりであろう。
ジョン・コック
原題不明。
コンテンポラリー・リアリズムの画家である。こういう肖像画は最近多い。
目がぼんやりしているのに、表情が妙にきつい。勉強が進んでいるように見えないのに、衣装が妙に高級だ。
これは、多人数の霊がやっている人間の見本なのである。
本霊はほとんど何もやっておらず、肉体の主宮にいて見ているだけだ。あらゆる活動は他の霊が代行している。それで時に優れたこともできる。だが本霊は何もやってはいない。
こういうものは、あまりにも低級な動物的エゴを、優秀な人間的技を駆使してやってしまうのである。
美しい女が妬ましい、殺してしまいたい、という低級な暗黒の願望を、恐ろしく高級な技でやりぬいてしまうのだ。そしてそれを闇にぬりこめる技も実に高等なのである。
こういうものを多頭怪という。ひとりだが、ひとりではない。多数の霊魂で無理矢理この存在に高い力を与え、恐ろしい怪物を作っているのである。
何もできない馬鹿の霊に、なんでもできるものだと勘違いさせる。そしてあらゆる謀略をやらせ、何もかもを破壊してしまうのである。
「大勢」「レギオン」という名を付してもよい。大きな赤い竜が隠喩しているものは、こういうものなのである。