ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ノーベル賞 2002.11.1

2002-11-01 08:47:19 | 嫩葉
ノーベル賞
二人も一緒にノーベル賞を受けるなんて日本もたいしたものだ。小泉首相でなくてもそう思う。何が、どうして、この二人の業績がノーベル賞に値するのかということについては、よく分からないが、そんなことはどうでもいい。わたしたちにとって、分かることは二人の「偉大な発見」は偶然と失敗の賜物だということだけだろう。と言っても、実は何がどう偶然で、何をどう失敗したのかということまでは、分からない。
島津製作所の田中耕一さんの受賞というニュースは、ノーベル賞というまるで別世界の出来事を一挙に身近なものにしてしまった。湯川英樹博士などという名前を聞くと、普段はどんな生活をしておられるのか想像もつかないが、テレビで見かける田中さんの姿はわが園の園児の父親たちと重なって、親しみを感じる。総額24兆円もの国家予算を投じて、科学技術基本計画の第2期が今年から始まっているらしいが、たった一人の田中さんの受賞の方がはるかに大きな功績であると思う。
東大教授とか京大教授という方々は大なり小なり、他の人は知らないでも本人はそれなりの自信をもって研究しておられるに違いないし、小柴昌俊さんの場合は、この研究は「ノーベル賞もの」だと思っておられたようだ。だが、田中さんの場合は、自分の「発見」がそれほどのものだということを10年近くも知らないで黙々と研究を続けて来られた。その間、好きなことを好きなようにやらせてもらって、そこそこの生活ができた。それが幸せであったと言う。だから、今さらパテント料など問題にしておられない。それがすごい。あの、はにかみ加減のすがすがしさは、わたしたちに何が欠けているのか、人間にとって幸せとは何かを語る強烈なメッセージであり、希望をもたらすものである。
田中さんにとって、ノーベル賞は目標でもなく、生きがいですらなく、と言って、「タナボタ」でもない。自分に与えられた仕事を忠実に、周りの雑音に惑わされることなく、失敗してもそれによってめげることなく、実験を繰り返す。そんな姿が見えてくる。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、わたしの生き方は変わらない」(コリントⅡ6:8、一部私訳)、と語る使徒パウロの姿が重なって見えてくる。こういう田中さんを見つけ出して、賞を与える選考委員の方々の見識には敬服する。
園庭で無邪気に遊ぶ園児たちの姿を見ながら、園長はひそかに、この子は忍耐強いから化学賞だ、あの子は理屈っぽいから物理学賞かな、夢見る女の子は文学賞まちがいなし、この子はやんちゃだから絶対に平和賞候補だ、などと想像している。(園長・牧師 文屋善明)

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