ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聞くということ 2003.5.1

2003-05-01 10:08:43 | 嫩葉
聞くということ
園長の重要な仕事の一つに合同礼拝(毎週木曜日)でお話をすることがある。原則として、聖書の中の物語を語ることにしている。年少組の子どもたちは夏休み明けぐらいから合同礼拝に加わることになっているが、今年は年少組の教師たちの希望により、新学期の初めから合同礼拝とは別に、年少組の子どもたちだけで礼拝し、お話をすることになった。
これはわたしにとって非常に大きな挑戦である。年少組の子どもたちは話す言葉だけを聞いて、物語の展開を理解できるのだろうか。限定された経験と用語でどれだけおもしろい話ができるのか。
大人は子どもについて「話せるようになった」とか、「まだ話せない」ということには強い関心を持つが、「話が聞けるようになった」とか、「話を聞かない」あるいは「話を聞けない」ということはあまり気にしないようである。しかし、言葉の習得の過程を考えれば、話せるようになる前に聞けるということがなければならない。従って、話せる子どもは聞けるはずである。
子どもたちに話をする場合、絵や人形などを用いて、つまり子どもの関心を惹きつけ、理解を助けるという教育技術もある。あるどころか、そういう手法があまりにも多すぎる。スイッチ一つで、たちまち子どもたちを惹きつける映像はふんだんに流れてきて、楽しい時間を提供してくれる。しかし、それで本当にいいのだろうか。真の知識というものは「自分の言葉」によって把握されたもののみである。そういうことに慣れてしまった子どもたちは、学校での「ことば」による授業に耐えられなくなってしまったのではなかろうか。小学校では、「話せる」けれど、「聞けない」子どもたちが教室内を徘徊し、大学では言葉だけによる講義に耐えられなくなって、学生たちの「私語」が氾濫するという。電話でさえも「画像」がなくてはつまらないという。問題はすべて「聞く」能力の低下である。
子どもたちにとって大切なことは、話す言葉を聞いて、そのストーリーを理解し(つまり、筋を追うこと)、そしてそれを楽しむ能力である。実際に年少組の子どもたちを前にしてお話をしたら、ほとんどの子どもたちは目をキラキラ輝かせて聞き、反応し、楽しんでくれた。わたしは本当にうれしかった。子どもたちは「聞く能力」を持っている。この能力をだめにしてしまっているものは何か。
考えてみると、「話す能力」とは自分が持っている知識を表現することであるが、「聞く能力」は自分の知らない知識を新たに獲得することである。この能力を豊かにしないで、豊かな人生はない。
「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)  (園長・牧師 文屋善明)

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